9 はじめての魔法
その夜。部屋に戻った俺は、ベットの上に座りこんで、授業でも使った教科書の、少し進んだページを読んでいた。
俺が割り当てられた部屋は、一人で過ごすには少し広いくらいである。二十畳ぐらいはあるだろう。
そしてそのせいか、俺はいまだに、一人旅をしているかのような浮遊感を覚えていた。
市長もセラフィさんも優しいし、リアナもとてもいい娘だ。今日の夕食の野菜スープもなかなかの美味しさだった。不満は何もない。
けれども俺は、自分がここにいるのは何だか場違いな気がして仕方なかったのだ。
それが、ここが不慣れな土地だからなのか、体が自分の身体ではないからなのか、あるいは別の理由なのかは分からないが。
視界の隅に垂れた綺麗な金髪を指でつまみ、一つため息をつく。
そうして頭を掠めるのは、もう3日も前のこととなってしまった、あの交差点の交通事故の事だっだ。
俺が撥ね飛ばされたあの時、俺の後ろで、叫び声がしたような気がするのだ。
どんな声かはっきりとは思い出せない。だが、知っている声ではないかと、感覚的に思った。
「もう、戻れないんだろうな」
仮に元の世界に戻れたとして、その世界に既に俺の身体はない。
けれども、世界を去る前に、亡霊の姿でも、両親にさよならを言っておきたかった。
ただ、それだけが心残りだった。
「そんなこと考えても、仕方ない、か......」
ふと目を落とすと、さっきから教科書が1ページも進んでいない。駄目だ、集中しないと。明日は朝早くから実技魔法の練習もあるのだ。
俺は、意識の奥に郷愁を押し込めて、教科書の内容に意識を戻した。
翌朝八時。朝食もそこそこに、セラフィは俺とリアナを連れて屋敷の中庭にやってきていた。
テニスコートを2、3面は確保出来そうなほどの広い中庭の中央に立って、セラフィは意気揚々と講義を始める。
リアナもさっきまではかなり眠そうにしていたが、魔法実技の授業とあっては気分も高揚するのか、すっかり目が冴えていた。
「では、僭越ながら、授業をさせていただきたく思います。出過ぎたこととは承知しておりますが、どうかご容赦を」
そう神妙に口にし、一礼するセラフィ。しかし、その口許には愉しそうな表情が見え隠れしている。
「お願いします」
「お願いするわ」
この日の俺の服装は、水色がベースの、シンプルなワンピースだった。袖口にひらひらしたものがついているが、俺はこれを何と呼ぶかを知らない。
この世界も5日目になり、だんだんとこういった女の子の服装に慣れてきている自分が居て、俺はそのことに少し恐怖を感じた。
一方のリアナは、黒色が印象的な、いわゆるゴスロリに近い格好をしている。
綺麗に手入れされた銀髪に良く映える服装で、とても似合っている。体を動かすには、服が幾分重すぎるような気もするが。
「じゃあ、まず一番簡単なのから始めましょうか。とりあえず、やってみますので、ご覧になってください」
そう言ってセラフィは、おもむろに右腕を正面に伸ばし、人差し指を立てた。
「water flow:α; do emerge;」
突如セラフィの口から飛び出した流暢な英語に、俺は面を食らう。
そうしている間に、セラフィの右人差し指の上には、ピンポン玉ほどの大きさの水の球が浮かんでいた。
軽くスナップをきかせて彼女が指を振ると、それに合わせて水球は前に飛び出す。
そしてそれは、俺とリアナの立つ間の地面に、ピチャッ、と涼しい音を立てて地面に衝突し、形を失って地面にシミを作った。
「英語、ですか?」
地面にできた水の跡をしばし呆然と見つめていた俺は、我に返ってセラフィに尋ねた。
「英語、そういう言い方もございますね。確か、中等学院では、古代言語、という科目名になっているはずです。といっても、単語が同じであるというだけで、古代言語とは文法が全く異なりますが。ノエリア先生も、古代言語の文法はご存じでいらっしゃいますか?」
俺は曖昧に頷く。高校レベルの英文法なら、だ。自信はない。
「It’s a nice day, isn’t it?」
「……It certainly is. I like clear days.」
セラフィさんは満足そうに笑う。心臓に悪いからやめてほしい。
一方、一人蚊帳の外となってしまったリアナは不満げだ。
「ねえ、ちょっと、二人で楽しまないでもらえるかしら? 私にも魔法教えてよ」
「大丈夫、私もまだ教わってないから」
本当? と疑わし気に首を傾げるリアナ。
それを見てセラフィは一つ咳払いをし、姿勢を戻して説明を再開した。
「魔法が古代言語をベースにしているのは、当然、神アルテミスが降臨した6000年前の言語が古代言語だったからと、言われております。今の言語も、多少は古代言語の影響を受けていますけれども」
昨日の授業内容とつながって、俺は幾らか合点がいった。しかし、一体その6000年前の神様はいったい何がしたかったのだろうか。
やはり神様の考えることは分からない。俺は身に纏ったワンピースとか細い四肢を見下ろし、そんなことを思った。
次回も魔法の説明の続きです。
はっきり言って英語は得意ではありません。




