私は悪女です(仮)
設定を盛り込みすぎて無理やり短編におさめたようなお話です。それでも良いという方、お時間がありましたらおつきあいください。
「羨ましいわね」
ぼそり、と私は呟いた。
シャンデリアがキラキラと輝く煌びやかな大広間で行われている夜会では、同じように煌びやかに着飾った貴族の男女が交流をしながらダンスを踊ったり会話に花を咲かせたりしている。
ただ単に人の集まりを楽しんでいる者、家の事業を広げるための人脈を作る者、未来の結婚相手を探す者。様々な目的を持って集まる彼等が羨ましく思う。強制的に参加させられなければ私はこんな場所には居なかったのに、とため息を吐く程、私にとって今日この集まりは何の価値もなく時間を浪費するだけだったからだ。
ふうっとため息を吐いていると、視界に差し出された掌が目に入った。
「よろしければ、私と踊って頂けますか」
その声の主を視線で辿ると、20代半ばの男性が目に入った。確か彼は、最近令嬢たちの中で人気の男性ではなかっただろうか。成る程、容姿も群を抜いているし物腰も柔らかいようだ、騒がれるのも理解出来る。けれど。
「申し訳ございませんが、私貴方に興味がありませんの。他をあたってくださる?」
そう言って私はすっかり慣れた笑顔を貼り付け、先ほどまで大広間を眺めていた壁際を離れた。
人の集まっている方へと歩き出すと、こそこそと話している令嬢たちの声が聞こえて来る。
「まあ、今の聞きまして?」
「ええ。あのアナト様ですもの仕方ないですわ」
「あの悪名高い方があのような普通な殿方を相手するわけがありませんわ」
「結婚かせめて婚約をしている殿方でないと、食指が動かないと聞きました」
「まぁ!私は多くの平民の男性を別邸に連れ込んで侍らせていると聞きましたわ」
「嫁いだというのに、まだそんなことを行っているなんて」
恐ろしいわ、と揃えて聞こえる声を私はくすりと笑いそうになった口元を扇で隠した。
その時だ。
「おお!アナト嬢、よく来たな」
50代を過ぎた如何にも貴族紳士である男性が声をかけてくる。
「ご機嫌よう、ライオス様。」
歳を重ねても一目見れば誰もが振り向くだろう素敵なこの男性は、ロムルス侯爵家の主人である。
私は先ほどとは異なる、心からの笑みを浮かべて挨拶を交わした。
「最近はどうだい?何か困ったことはないかな?」
「お陰様でとても穏やかに過ごさせていただいています」
「そうかい?君も控えめな子だな。私の妻のようだよ」
「まあ、素敵な奥様と比較してくださるなんて、光栄ですわ。」
ふふふ、と笑うと、ライオス様は私の頭をそっと撫でた。
「アナト嬢が家に嫁いで来てくれたのだから、私は幸せ者だな」
「私も、貴方様と家族になれたなんて、これ以上幸運なことはありませんわ」
嬉しくなって思わず破顔すると、周囲の軽蔑するような視線を感じた。ライオス様はそれに少し顔をしかめたが、それでもすぐに笑顔を私に向けてくださって、私も気にせずに笑顔で返す。
周囲がどう思っていても、関係ないのだ。私がこの方を慕っているのは真実だし、この方の家であるロムルス侯爵家に嫁いだこともまた真実だったからだ。
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アナト=プランケット。プランケット伯爵家の長女であった私は社交界で有名である。
現在の国王であるアンセルム=リ=ファーレンガルドの母方の従妹であり、持ち前の栗色の髪と翡翠色の瞳とそれなりに整った顔立ちを持って生まれ、社交デビューする頃の私は婚約を申し込むために貴族令息達が列をなすと噂されるほど容姿に恵まれた。
しかしその立場と容姿のおかげで社交界で有名であるのではない。
ーーー平民を何人も別邸で侍らせており、年上の伴侶のいる男性に言い寄る悪女。
それに最近は私の意中の相手であるロムルス侯爵に近づく為にその息子と強引に婚約を結んだ、とも噂されている。
これらは全てが事実ではない。
平民を侍らせている、というのは身寄りのなかった子供たちをできうる限り引き取って、私が提案した事業を起こす為の人材育成を施していたのが、ただ単に男の子が多かっただけのこと。
父の教育は責任は自分で持てということだったから、自分も彼らと共に教育を受けたり世話をしたりで過ごす時間が多くなり、現在も仲の良い雇用主と労働者のような関係を続けている。
年上の伴侶のいる男性に言い寄る、というのはある程度の力をつけた私が、父に提案した事業の一責任者として行っていた契約を取り付けていた相手がそのような男性が多かっただけであり、決して淫らな関係を迫っていたのではなくて堅実に仕事での関係で言い寄っていただけである。
このような噂が広まったのは、この国が男性社会であり、女性が働くということに理解が少ないという背景もあるのだろう。私がプランケット家の事業の一つを父の柔軟な考えから協力を得て立ち上げたことが異例だったのだ。
それを公表していないわけではないが、理解がない人に厳しく言われるのは仕方がないことだと思うし、それらの言葉は反発するのではなく行動で見返すべきだと思う。父もそういう考えだから、何も言わないのだろう。
「平民侍らすってそんな事実あったら、俺達が吃驚だよな」
「そうそう、俺だってもう妻子持ちだぜ?」
「俺ももうすぐ結婚するしな」
「大体お嬢様がそんな事したら、俺達にこんなにたくさん仕事きてないし」
「それな、むしろ仕事熱心だから、そんな噂がたつんだろうけど」
私の事業の仕事場で働いている彼らの言うとおり、そんなことをしている時間があれば、事業拡大のための施策を父と議論を交わし、領地のためになることを行っている。それは父に仕事を任されてからはなおさらだった。
そんな私も他の貴族の令嬢たちと変わらず、家の主人である父の命で政略結婚をすることに決まったのは1年前だ。お相手はシュリオン=ロムルス次期侯爵様。
家柄だけでなく黒髪黒眼で整ったその容姿からも令嬢たちに人気のお方だ。この婚約が決まる数ヶ月前までは隣国に留学しそちらの軍事について学んでいた様だが、現在は帰国し近衛騎士団に所属しており、陛下付に若くして就任したという。
そのように忙しいシュリオン様に、私は嫁ぐ日になるまでお会いしたことがなかった。
だからだろう、ロムルス侯爵家に迎え入れられて初めてシュリオン様と二人きりになった時、私は面と向かって言われたのだ。
『貴女が噂通りの’悪女’であるのならば、たとえ父の命で婚姻を結んだとしても、すぐに俺の権限で破棄させてもらう』
その言葉は彼が私についての噂を知り、忌避しようとしているのが解るものだった。
私はそれを聞いた時、思わず目を見開いてしまった。他の貴族たちのように遠回しに言われるものだと思っていたのに直接言われるとは。
この国の国王陛下の従妹で殊更彼に可愛がられている私に、そこまで踏み込むような人間は余程空気が読めない者か、自分の立場に絶対の自信がある者だと思ってたからだ。
この人はきっと後者の人だ。
もしかしたら私の日常に新鮮で良い刺激を与えてくれる人間なのかもしれない。
そう思ったらなんだか面白いような気持ちになって、私はこう返していた。
『私は噂通りの人間でもありますよ』と。
そうしたら彼は眉間に皺を寄せて困ったような顔をしてから、そうか、と言った。
『それでは、貴女は俺との関係について、終始清いものとなる。それでも良いのか?』
『それについては望むところですわ。私の事は気にせず、どうかお好きにしてくださいな』
それは、’外に愛人を作っても、関係を作っても、私は許します’という意味だ。そして何よりも大きなものは、’私は貴方との子供をつくるつもりもない’という意味でもあった。
それに気分を害したのか、シュリオンは睨み付ける様な視線を向けたあと、無言で私の前から去っていった。
しかし、そのような言葉を返しても、すぐに婚姻を破棄されるようなことにはならなかった。
その代わりに、数ヶ月後にはシュリオン様は外に愛人を作ったという噂が邸の使用人たちの中でで始めたので、私はただそうなのか、と何の感情もなく受け入れた。日が変わらないうちにシュリオン様が邸に帰ってくることは稀ではあったが、愛人ができたとなれば当たり前だと言えるだろう。
唯一顔を合わせる朝食の時間に、顔をしかめられた後にまるでその場に居ないかように振舞われるようになっても久しいし、邸の使用人達にも可哀想な視線で見られることに納得がいった私は、そのまま放置した。
まぁ、婚約破棄を早々にしてしまうと醜聞もあるし、何より未だ当主であるライオス様が乗り気であった婚約だったので、そうなるだろうとは予想していたが、こうもその通りになってしまうと、なんだか面白くない。出会った時のような新鮮な刺激を得られるかと思っていたが、そのような人物ではなかったのか、と私はシュリオン様への興味をそこで失くした。
きっと、婚姻を結んだというのに彼に無視されて悲しくも思わない時点で、シュリオン様への興味など大したものではなかったのだけど。
シュリオン様に何故あのような言葉を返したのかは、理由がある。
私はロムルス侯爵家に嫁ぐまではプランケット伯爵家の長女として育ってきた。いくらか離れた兄がいて、弟もいた。
小さい頃はそれは無邪気に育ってきたが、弟という存在をはっきりと意識した時に違和感を覚えたのだ。
それは小さなものだったが、成長するにつれて察するようになった。私と兄が持っている母親譲りの栗色の髪と翡翠の瞳を、弟は持っていない。彼は父の持つ灰色の髪と母にも父にもない濃い榛色の瞳を持っていたのだ。そしてその色は父がよく関わっていた平民の使用人も持っていたものだ。
弟ができてからというもの、母は部屋にこもって塞ぎこむようになったが、ある夜会に行った後から人が変わったように生き生きとするようになった。
それから母は身なりの良い男性の迎えが来て、外によく出かけるようになり、帰ってくることが少なくなっていく。
そうして両親の関係は互いに互いを避けるようなものになり、家族の空気もぎこちないものになっていった。
……気がついてはいけないものだったのかもしれない。
けれど、それに気がついてしまってからは、貴族同士の結婚というものの現実を知ってしまった。
愛人を作るのは当たり前のような文化だ。兄弟同士で血が純粋に繋がっているというのも珍しいとも言える。そして、それを容認して夫婦の関係を続けるのも、当たり前のようになっているのだ。
とにかく、良い意味でも悪い意味でも私は潔癖だったのだろう。
父に愛人が居たことも、母が他の貴族とも関係を持っていることも、母が他の親をもつ子供も容認していることについて、認めることができても受け入れることができなかった。
このような政略結婚の関係が将来の自分にも求められるものなのは貴族である以上は明白だ。
だから私は決意したのだ。
ーーーー恋愛はしない、子供も産まないと。
そうすれば少なくとも私と同じような思いをする子供が減るのだろうと思ったからだ。子供を産むことが貴族令嬢の義務だと言っても、愛人が当たり前にいるのならその人との子供を後継にすれば良いのだし。
だから私はシュリオン様との間にそんな甘ったるいものを求めてもいないし、ただの結婚相手としてしか見ていなかった。
まぁ、シュリオン様は見目も麗しいので他の令嬢達が放って置かないだろうし、愛人もいるのなら子供もその人に産んでもらうのだろうなと思っている。
私がシュリオン様から邸の中で居ないような扱いになってから数ヶ月経った頃。国王陛下が視察を行うようになり、シュリオン様は近衛騎士としての仕事が忙しくなって家にいる時間が少なく、当然私と顔を合わせる回数も少なくなった。
私もあまりにも手持ち無沙汰なので、父からそのまま任されている事業の様子を見るために平民街の近くにある仕事場を訪ねるようになった。
「お嬢様、ここまで足を運んでいただけるなんて、結婚して以来初めてじゃないですか?」
「そうね。これからもたくさん来るわよ?だってここは私の家のようなものだもの」
「ええ?侯爵家が今のお嬢様の家でしょう?」
「私にとってはあそこは……そうね、ただの寝に帰る場所よ。心休まる場所ではないわ」
「まぁ、俺達がお嬢様にそこまで心を許していただけてるのは、小さい頃から共に過ごしてきたからですよね。しばらく侯爵様の所で過ごせば、そちらがその様な場所になるのではないですか?せっかく、お嬢様の憧れのライオス様にも近づけたんです、勿体ないですよー」
それは、その通りなのだが。
「でも私、シュリオン様に嫌われてるのよ?」
「それはあれですか?旦那様は貴族達の噂を真に受けてるってことですかね?何で否定しないんです?」
「だって、全てが嘘ではないでしょう?いいのよ、興味もないし」
「出た、お嬢様の興味がない!」
「貴方たちは別よ。私の同士のようなものよ」
気兼ねなく軽く話せる人間は、やっぱり彼らなのだ。だからこの場所から遠くなるつもりもない。どんな噂が流れようと、こればかりは譲れなかった。
シュリオン様が視察から帰って来て久々に朝食の場で顔を合わせて『醜聞を広めるな』と言われても『控えろ』と言われても、それは同じだった。
「それは受け入れかねます。そもそも私にとってそれは事実ですし、控えれば私が暇すぎて死んでしまいます」
「……他に娯楽は有るだろう?夜会に出たり茶会に参加したり」
「あら、夜会に出たらまた『既婚の男性に言い寄る夫人』と広まりますし、貴方様の仰る醜聞が目立つ私が茶会に呼ばれたりする筈がありませんわ」
にっこりと笑ってそう言うと、シュリオン様は何か不思議なものを見るような顔になった。
「貴女は何故醜聞をそのままにしているんだ?」
「事実でもあるからです」
そう返すと、シュリオン様は眉間に皺を寄せて考えるような仕草をとる。それから何でもないという風に首を横に降って、朝食を食べ始めた。
そして、食後の紅茶をゆっくりと啜っている時だった。
「先程はああ言っていたが、一週間後の国王陛下主催の夜会には参加してもらう」
その言葉に、私はあからさまに嫌な顔を向けた。
「アンセルム主催の夜会なんて、面倒なだけですわね」
夜会そのものに事業関係で会話をすること以外に生産性を感じない私は、その事業が安定していて特に手を入れる必要がない今、鬱陶しいものにしか感じない。
そう言うと、シュリオン様は睨むような視線を向けてきた。
「いくら君が陛下の従妹であろうとも、その様な言葉は慎むべきだ」
「これは失礼しましたわ。……わかりました、参加します。けれど、旦那様は警備等で参加は出来ないのですよね?」
それに頷かれたので、私は弟を伴うことにしますとだけ返して、久しぶりの会話を終えた。
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そして私は弟を伴って王宮へと赴き、プランケット家の後継として挨拶回りがある弟の邪魔にならないように離れて大人しく壁の花となっていたのだが、ダンスの誘いがあった為に離れて目があったライオス様に挨拶をしたのだった。
「アナト嬢、これから陛下の所に挨拶に行くのだが、一緒に来てくれるかな?」
「ええ、喜んで!」
そうしてライオス様の腕に手を添えると、王宮のこの広間の中でも特にきらびやかな場所へと向かった。
従兄のいる場所は、王の為に用意された会場を見渡せる場所だった。見上げる形でライオス様と挨拶をすると、王は席を立って近寄ってくる。
「やぁ、アナ!嫁いでからは姿を見なかったけれど、元気だったかい?」
「それはもう。ライオス様もお優しいので、良くして貰ってます」
張り付けた笑みはいつものことだったが、王は気にせずライオス様を振り返った。
「それは私からもお礼を言わせてもらうよ。ロムルス侯、これからも宜しく頼む」
「こちらこそ、こんな美しい令嬢を息子の嫁として進めてくださった陛下に感謝しております」
騎士の令を取ったライオス様は、私の方を見てウインクをした後、アンセルムに尋ねた。
「話は変わりますが、陛下、私の息子、シュリオンはご迷惑をおかけしてはいませんか?」
「シュリオンか、彼は良く守ってくれてるよ。今日は王宮の警備で忙しくしているから、アナは寂しいかな?」
「陛下のお役に立つお仕事ですもの、誇りに思っていますわ」
面白がるようにして尋ねられた言葉に、私は真面目にそう返すと、アンセルムはふっと笑った。
「そうかい?
そうだ、ロムルス侯。少しアナを借りてもいいかな?そろそろ涼みに行きたいと思うのだが」
「それでは、私は後ほどまた挨拶に伺います」
そう言ってライオス様は微笑んで見送ってくださった。
アンセルムの近衛騎士の一人が控えめに見守る中、涼むと言って訪れた中庭には多くの薔薇が咲き誇っており、中央に位置している噴水の彫刻も美しく、月明かりの下でそれは優美な空間に思える。そして噴水の縁に近寄って夜会でいつの間にか火照っていた身体を冷やそうとしていた時に、アンセルムから声をかけられる。
「アナ、君シュリオンと上手くいっているのかい?」
「上手くいっているとは?」
「夫婦なんだから、日々のふれあいだったり夜のことだったりだよ」
「そういった意味なら上手くはいってないわ。あまり会話もしませんしね」
そう言うと、驚いた顔をされる。
「何故だい?シュリオンは男の眼から見ても見目も良い。異性として意識はしないのかい?」
「興味がありません」
「興味が無いって……また君はそうやって。君についての噂も同じようにそう言うし。それなら何がいったい君に興味を持たせるのかな」
「仕事の話は面白いとも思うわ。あとは……そうね、ライオス様かしら」
「君自身に興味はないのかい?」
「自分に興味?’貴族は国民に奉仕するために’その豊かな生活を確保されているのよ?自分に興味を持つ前に、まずは身近な人間、それから領地の民、そして国民に興味を持つものでしょう。貴方だって同じ考えだったと思うけれど」
そうはっきり言うと、アンセルムはそうだけど、という。
「君は……」
何かを言いかけて、アンセルムは首を横に振った。
「私は、アナが幸せになってほしいと願っている者の一人だからね」
「それは……そうね、ありがとう」
素直に私はアンセルムに感謝の言葉をかけた。その言葉が本当に嬉しかったからだ。
国王陛下である前に、彼は自分の幼い頃を知っている従兄である。お互いに過去を知っていて、どんな人間なのかも解っているのだ。私に悪い噂があることも知っていて、その上でそう言ってもらえるのだから、私は良い従兄を持ったと思う。
だから私もこの人に何かを返さなくてはならないと思うのだ。
だから、私は。
キラリと視界に光るものが映り、それが何かと脳が理解する前に私の身体は動いていた。
咄嗟にアンセルムの腕を強引に引いて、入れ替わるようにアンセルムが立っていた場所に立つ。それからは起こったことがとてもゆっくりに見えた。
右側から衝撃が来て私の体を何かが貫いた。きっとこれは矢だ。貫かれたそこが酷く熱かったが、それでも私は次に来るものに備えてアンセルムを庇うように押し倒す。
そして彼に当たらないように上に覆いかぶさるように倒れこんだ。
「アナ!!アナっ!」
耳の近くでアンセルムが叫んでいるのも気にならないほど、私の神経は次の衝撃へと向けられていた。
すぐ近くで怪しい気配が動き、月明かりでキラリと光るものを振り上げるのが視界に入ると、私の口角は自然と上がっていた。
ああ、今度こそ私はアレに貫かれるのだ。
そう思った時だった。
「陛下!」
聞き覚えのある声が聞こえ、金属の打ち合う音が響く。
この声は、シュリオン様だ。
その後にドサリと重いものが地に落ちる音を聞いて、私は気を緩めた。
周囲の安全を確認する前に、私の身体を慎重に起こして肩を抱くようにアンセルムが起き上がる。
「陛下、ご無事ですか!?」
「シュリオン!今の状況は?」
「刺客は抑えましたが、これは……」
シュリオン様が戸惑うような声でそう言うが、アンセルムは硬い声で彼に声をかけた。
「他に刺客が居るかは確認したのか」
「既に手配してます」
「なら私のことはいい。アナを!」
「私は、大、丈夫です。」
激痛でどうにかなりそうだったが、心配させないようにと何とか声を絞り出した。
が、アンセルムには効果がなかったらしい。
「何を言っている!」
「それよりも、貴方、は早くあ、安全なところに……」
そこまで言って私の視界は真っ暗になった。ただ、怒鳴るようなアンセルムの声と戸惑うように触れられた手の温もりを感じながら意識は沈んでいく。
「アナト……」
最後に聞こえてきたのは、誰の声だったのか。
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ハッと目が覚めると、ここ数ヶ月のうち朝に目にしていた天井が見えた。
しばらく自分に何が起こったのか思い出せなかったが、動こうとすると痛む右肩で、自分の状況を把握することができた。
やっとの事で起き上がると、部屋のドアが開き、シュリオン様が入ってきた。
彼が私の部屋を訪れるのはこれが初めてだろう。それに驚いて目を見開いていると、シュリオン様は私の様子に驚きながらも、ベットに近づいてそばにあった座り心地の良さそうな椅子に腰掛けた。
「目が覚めて、良かった」
そう言って私の左手に包み込むように触れた。いつになく優しげな視線を向けてくるシュリオン様に、私は戸惑いながらもそれを享受する。避けるのも、シュリオン様に悪いだろう。
「あの、私はどのくらいこうしていたのでしょう?」
「一週間だ」
「いっ……!!」
何を話せばいいのかわからずにとりあえず尋ねてみようと思ったのだが、一週間も眠っていたのか、と驚くと、シュリオン様は気を悪くした様子もなく、詳しく話してくれる。
「貴女がかばった陛下に向けられた刺客からの矢に毒が塗ってあったんだ。貴女はそれに蝕まれて、何とか持ち直した。一時は死線を彷徨ったんだよ」
「そう……ですか。」
視線を下に降ろすと、シュリオン様は左手をぎゅっと握ってきた。
「貴女は、何故自分を大事にしない?」
「え……?」
突然の問いかけに私はたじろいでしまう。それでも気にせずにシュリオン様は私との距離を縮めるように近寄ってきた。
「初めは貴女についての噂を鵜呑みにしていたが、先日の会話で違和感を覚えて確認したんだ。」
私は思わず固まってしまう。先日の会話とは夜会の報せの時のものだろう。
「貴女が平民の男性を侍らせているというのはプランケット家の事業を貴女が運営している為に、必要なことだったのだろう。既婚者に言い寄っているというのもその事業のためだ。」
「……そうですけれど」
「悪い噂は真実ではないだろう?それなのに何故貴女は否定をしない?」
「真実でもあるからです。」
私は笑顔を貼り付けてそう返した。シュリオン様はそれに一瞬驚いたように目を見開き、それから視線を私から逸らした。
「……それは、俺の父を慕っている、というものか」
「……」
何も言わないことで、それが肯定の意味であるということは彼に伝わっただろう。
私がライオス様を慕っているのは、何も今に始まった事ではない。
それは私の中ではもうずっとある感情だから、シュリオン様がそれを聞いてどこか苦しそうな表情をする理由がわからない。
「父と貴女に、どのような接点があったのか、俺は知らなかった。だから貴女が倒れた後に貴女の様子を見て嘆くように顔を歪めた父に尋ねたのだ」
すると、ライオス様は私の話を彼の知る限りしてくださったらしい。
私がまだ子供で、無知で無力でそれすら気がついていなかった頃だ。
幼かった私は領地の街を見て回りたかった。両親はそこまで子どもの私たちに関心はなかったし、使用人はそれにいい顔をしなかったから、その頃しっかりしていた兄に頼み込んで、一緒に見て回ることを許してもらったのだ。
もちろん護衛も付いていたのだが、その時は本当に運がなかった。
身なりの良い私たちを街中で見かけた野盗たちが、見て回って満足して疲れていた私たちの前に現れ、私に向けられた剣の刃を兄が代わりに受けのだ。
目の前で兄が息絶えるのを見て怯えて動けなくなった私を野盗たちは攫い、同じような境遇にあわされた貧しい平民の子供達と同じ部屋に捕らえられた。兄が斬られた恐怖と、自分にこれから起こることへの恐怖でいっぱいになっていた私を、そこにいた一人の男の子がずっと励ましてくれていたのに、そんな彼も私たちを連れて売りに行こうとした野盗たちに抵抗しようとしてまた目の前で斬られた。
もう駄目だ、と思ったそんな時だった。
子供達を攫って売っていた野盗たちを捕らえるようにと動いていた、当時王立騎士団の団長だったライオス様がそこに押し入ってきたのだ。そして、あっという間に野盗たちは捕らえられ、何事もなかったように事件は解決した。
だが、自分の身の安全が確保されたことを理解した後、私はとてつもない後悔に襲われた。
どうして街を見たいと我儘を言ったのか、どうして兄にそれを頼んでしまったのか、どうして私を励ましてくれたあの子を助けられなかったのか。
きっと全部私が悪いのに、私は助かって何も悪くない人が目の前で斬られてしまった。
どうしようもなくて、私が斬られてしまえば良かったのに、と繰り返して喚いて泣きじゃくっていた私を抱きしめて、ライオス様は言ったのだ。
『彼らの代わりに生きて行くことはきっと償いになる』と。
それは厳しい言葉のようで、私を生かそうとする優しさを含んだものだ。
そうやって励ましてくださったライオス様は、それからの私にとって暗闇の中で道を照らしてくれる人だったのだ。
それからだった。無事に帰った私が自分で必死に勉強して事業を立ち上げるのを父に提案し、そこで働く人として売られそうになっていた平民の子供達を雇うという名目で引き取るようになったのは。
それは私がやらなければならない償いだと今でも思っている。私の罪は決して無くなるものでもないとも理解しているからだ。
だから、私が周りにどう思われようとも、何も問題はないのだ。
「父は言っていた。貴方は自分の身を厭わず、興味も持たない、と」
「それを聞いたから、どうしたというのです?私は噂通りの人間でもありますし、悪女でもあるでしょう」
「貴女は悪女ではない」
「いいえ、私は悪女です。」
兄や、あの励ましてくれた男の子を、自らの勝手な行動で助けられなかったのは事実なのだから。
「……貴女は自分を許せないから、そのように頑なになっているのか」
許すも許さないも関係ない。自分が許したって彼らは帰ってこないし彼らが私を許してくれることもない。私はこれを生涯抱えていくのだから。
無言で返すと、シュリオン様は表情の読み取れない顔をした。それでも瞳の奥はどこか真剣なものがあって、それにたじろいでいると、意外な言葉を彼は放った。
「では、俺もその罪を共に抱えよう」
「え……?」
一瞬何を言われたのかわからなかったが、これは彼が私を支えたいということなのだと理解すると、そう言った理由が不可解で思わず訝しげな顔をしてしまう。
「何故でしょうか?」
その率直な疑問に、シュリオン様は少しためらった後に答えた。
「俺たちが夫婦だからだ」
曰く、夫婦は嬉しい時も苦しい時も分かち合うものなのだ、と。そんなどこかの聖書にでも書かれていそうなことを言われて、私は困惑する。
「それはこの国では政略的なものがない結婚ができる平民の方や、そんなもの必要ない他の国の人だけでしょう?それに、私の罪は私のものです。あなたは関係ありませんよね」
そう言うとシュリオン様は眉間に皺を寄せ、それからたどたどしく私に尋ねてきた。
「俺の父、が居たから、俺と婚姻を結んだのか?」
「?……いえ、婚姻ならば父の命令であれば、誰とでも致しました」
それが、貴族の令嬢に求められる役割なのは私たちの中では常識であろうに、どうしてそのようなことを尋ねるのか。今回の婚姻は父の命の前に、何より国王であるアンセルムの勧めでもあったから父が認めたという経緯があるのだが。
「では、貴女は何故あの時、俺に愛人を作ることを容認するような……、俺との関係を清いままでも良いというような言葉を、言ったんだ?」
「愛人を作るのは貴族の中では暗黙の了解でしょう?それに、シュリオン様は私との婚姻が不本意だと思っていらしたようですし」
「それは……そうだったのだが、」
何故彼がこんなに歯切れが悪くなっているのか理解できない。しばらく逡巡した後に、その理由について思い至った私は、笑顔を貼り付けて言った。
「愛人の方と別れてしまったのですか?心配しなくても大丈夫ですよ、シュリオン様なら引く手数多ではありませんか。」
「ち……違う!」
否定されてしまった。他の理由なんて思いつかない私は首をかしげてシュリオン様を見上げる。すると彼は一瞬頬を染めて、私から視線を外した。一体なんだというのだろう。
「貴女は……その、なんだ、」
「はい」
「俺との関係を深いものにする気はないのか、その、夫婦として」
またしても予想外の言葉に私は目を見開いた。
「……ないです」
思わず正直に答えた私に、ひどく衝撃を受けたような顔をしてシュリオン様はじっとこちらを見つめた。
「……何故だ?……父を慕っているからか?」
「……はい?」
だから何を言いたいのだろうこの男は。思わず訝しげな顔をしてしまう。
「ライオス様は私の命の恩人で、私を導いてくださった人生の先輩です。それに素敵な夫人がいらっしゃるではないですか。確かに私はライオス様を慕っておりますが、憧れのようなものです」
そう言うと、あからさまにホッとしたような顔をしたシュリオン様。だから何だというのか。
何だがこの会話が面倒になってきた私は、正直に告げる。
「いい加減にしてください。何が言いたいのですか」
すると、意を決したように真剣な顔をしてシュリオン様は私の瞳を真っ直ぐと見つめてきた。そして。
「頑なで、独り立つ貴女を助けたいと……守りたいと思う。どうか俺と本当の夫婦になってはくれないだろうか」
目覚めてから何度目かの衝撃を受けた私は混乱している中で、それでもどこか冷静に答えていた。
「それは無理ですわ、シュリオン様」
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それからの私はどうなったのかというと。
王宮での私の立ち位置は『王を救った令嬢』として扱われるようになり、今までの陰口は多くは聞こえてこなくなった。
私が起こした事業についても徐々に理解が広まっていったのか、こちらが近づかなくても自ら交渉に乗ってくれる人間も多くなり、自領と城下のみで展開していたものが、地方にも拡大することにもなった。
それもこれも、シュリオン様が周囲に私の本当の噂とやらを広めているかららしい。
「貴女は、悪女ではない」
それを否定し続ける私に、彼は懲りもせずそう告げてくる。
忙しかったはずなのに、毎日夕食の時間には帰ってくるようになり、週に一度は花やら小物やら宝石やらの贈り物をその手に持って寝室にもやってくる。
夕食を一緒に取ることは特に文句はないのだが、寝室にやってくるのは戸惑いが多い。
陛下付きのシュリオン様が所用でアンセルムの執務室を外していた頃、怪我が回復してアンセルムの元へ挨拶に行った時にそれを話すと、彼は面白いものを見たように笑っていた。
「君の気を惹こうと必死なんだな、あの色男も」
アンセルムがそんなことを言うものだから、私は思わずため息を吐いてしまう。
「すでに夫婦なのだから、それで良いではないですか」
それ以上になろうとするのが意味あるものなのか理解ができない。
「アナ、君は恋愛をしようとは思わないのかな?」
「そもそも政略結婚は貴族の間では珍しくもないでしょう。それに、あなたはなぜ私が恋愛をしようとしないか知っているでしょう?」
そう返すと、そうだけど、と王は続けた。
「何も、君も周囲と同じようになる必要はないんじゃないのかなぁ」
「……」
「君と同じ思いをする子を作りたくないのはわかるさ。けれど、それは君が恋愛をしない、子をなさない、という選択肢以外にも術はあるはずだろう?」
それは、君も理解しているよね?と視線で語られると、私は何も言えなくなった。
アンセルムが何を言いたいのかは解ってはいるのだ。
恋愛をして、結ばれて、その相手との子をなせばその心配はなくなる。
けれど、私はそうなっている自分を想像できなかった。……いや、想像したくなかったのかもしれない。
難しい顔をしていただろう私の様子を見て、アンセルムはそれまでの空気を変えるようにふっと笑ってから口を開いた。
「ま、でもアナが幸せになれるのなら、私は何でも良いと思うけどね。シュリオンと離縁しても、私はもっと良い相手を見つけるし、私がアナを娶るっていう選択肢もあるよ」
どこか面白がるように執務室の扉に視線を向けてからアンセルムがそう言うと、ガタリ、と大きな音がした。
驚いてそちらに視線を向けると、シュリオン様が真っ青になって立ち尽くしている。
どこか体調が悪いのかと心配して声をかける私と、それにたどたどしく答えるシュリオン様。そしてその様子を見て大笑いしている王という構図はこの後よくこの執務室で見かけられるようになる。
そして、私とシュリオン様の関係が変化するは、まだ先の話だ。
続く……?