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レモンになりたい!!

作者: 深架

  乙賀明夏璃はレモンになりたいと思っている。

  麦國巧実が好きな、フルーツだからだ。

  レモンになって君に食べられたい、君の体の一部分になりたい、君の毎日の活動を助けてあげたいと、明夏璃が想っていることをわたしは知っている。

  明夏璃は麦國巧実がレモンを好きであると聞いて以来、毎晩寝る前に、「聖なる」レモン・ジュースを飲むことが習慣になった。しぼり器を使ってレモンをしぼり、お気に入りのブルーのグラス「聖杯」につぐ。そしてまず、香りを楽しむ。次に、舌で果汁をひとなめしてすばらく飲みこむ。

  わたしはそんな彼女をいつも、冷めた目で見つめている。

  彼女の母は、いまから三週間くらい前に始まったこの「儀式」を不思議がった。

「急に、レモンだなんて。明夏璃はおかしいのね。変わっている わ。なにがあったの」

「美容のためよ、お母さん。クラスの友達が教えてくれたの」

  明夏璃は母に、不審がられないよう気をつけた。それで母は、年頃の娘がまわりに触発されて、おしゃれに目覚めたのだと思い込んだ。好きな子でもできたのかしらね、と想像をふくらませて、なんとなくうれしくなった。

  わたしはそんな彼女の母を見ると、勘の鋭さに感心する。けれど、母が考えていることと、明夏璃が想っていることが微妙にずれているのを、わたしは知っている。

  毎朝、彼女は起きると、自分の部屋に作った「神棚」に、台所から取ってきた新しいレモンを祀る。それがこの日いちにちの守り神であり、眠る前に自身に捧げる「聖なる」レモン・ジュースになる。

「レモン・レモン・カモン・カモン」

  歯切れよく自作のまじないを三回唱え、「神棚」の前で祈る。胸の前で合わせた指先を額につける。「神棚」は勉強机の端にあ る。中学のとき技術の時間に作った木製のペンスタンドを活用して、その中にレモンを祀った。板のまわりを赤いリボンで囲い、中央正面に蝶々結びがしてある。その反対側の板の右の角には、打ち損ねた釘が見えている。

  こうした努力の効あって、ゴールデンウィークを過ぎた初めての日曜日、明夏璃はいち友達として、麦國巧実の誕生日パーティーに招待された。彼の家で、一時から始まる予定だった。午前中かけて服装を選び、髪は一度後ろで束ねてからおだんごに結った。彼好みの髪型だった。二週間くらい前、松井清弥名がそれについて彼に直接聞いていたのを、明夏璃はちょうど立ち聞いた。

  以来、毎日おだんごに結っている明夏璃をわたしは知っている。この日はわたしにとっても、だから感慨深い。彼女の努力をねぎらいたかったが、あいにくわたしにはしゃべるための、言葉もくちもない。

  麦國の家は星ヶ丘通りから少し奥まった、小道の先にある。明夏璃の家からは自転車でも三十分以上かかった。彼女の住む川向銀座通りから宮の橋を渡って大通り、中央通り、県庁西通り、そうして星ヶ丘通り。すずかけの巨木か垣を越えて道に枝葉を広げる木造平屋が見えてくる。

「赤いかわら屋根だし、大きな木があるし、花もいっぱい咲いているし、乙賀でもすぐわかるよ」

 と、彼は言っていた。

  表札はなかったが、敷地内に何台か自転車が整然と停めてあった。海棠、浜梨、薔薇、ひなげし、ゆり、しゃくやくなど咲く前庭はみごとで、美しく、混ざりあった花の匂いがあまく、漂っていた。

「いらっしゃい」

  そう言って明夏璃を出迎えたのは、四十過ぎの、身ぎれいな女の人で、目もとに昏い感じが浮かんでいた。明夏璃はあいさつをして玄関を上がると、居間に通された。八畳の部屋で、テレビとちゃぶ台があり、畳の中央にあるちゃぶ台のうえには、二リットルのファンタグレープが一本と、ガラスのコップが人数分、用意されていた。高校の男友達は既に集まってスマートフォンをいじったりしゃべったりしていたが、女子はまだ明夏璃しかいなかった。あとふたり来ることになっていたので、明夏璃は外に出て待つことにした。

  あまい、花の咲き乱れる庭を眺めていると、どうしてもここが男の子の家だと思えなかったもっと荒々しい家を想像していたし、普段の君からもこの家は浮かんでこないと、戸惑う明夏璃をわたしは見ていた。いつもひょうひょうとして、授業を受ける態度も、しゃべるときも、鞄の持ち方も、歩く姿も、することすべてが完璧で、格好いいと、彼女がつぶやくのをわたしは聞いていた。そこから、華やかな花の庭など連想できなかった。

  しばらく、玄関の軒下の柱に寄りかかって待っていると、女子がひとりやって来た。額に見てわかるほど大粒の汗を光らせて、着ている緑のTシャツもぐっしょり濡れていた。

  いったいどこをそんなになるまで走って来たの、と明夏璃が考えたのがわたしにもわかった。

  汗びっしょりの七瀬川来留魅は、こいでいた自転車のペダルから右足を地面に降ろして、

「かすみ、見ていない?」

 と、訪ねた。

「かすみ? 見たよ。宮の橋のほうへ、チャリこいで来るの見た。すれ違ったけど、向こうは気づいていないみたいだったから声かけなかったけれど」

  麦國の家に来る途中で、確かに明夏璃は宮坂かすみとすれ違った。かすみは白いワンピースをはためかせていたが、表情は暗く、半分泣き目をしていた。

  なにかあったのと、明夏璃は心配したのに、そのままかすみを知らんふりしてきたことを、わたしは知っている。恋敵には、たとえ親切にしたくてもできないだろう。彼女をとがめる気はない。

「やば。宮の橋? 明夏璃、悪いけど今日欠席するって麦國に言っといて、かすみも、くるみも、今日は行けない」

「え? かすみ来ないの」

  宮坂かすみが、おそらく麦國巧実を好いていることに感づいていれば、事情があるにせよ、彼女が来ないのはありがたいが、ちょっと信じられなかった。うれしそうに驚く明夏璃を、わたしはひっそりと眺めた。

「とにかく、くるみはいまからかすみ探しに行く。麦國によろしく言っといて」

「乗せて。あたしも行く」

  そのとき罪悪感から言ったのか、それとも好奇心からなのか、わからなかった。

「自分のあるじゃん」

  明夏璃にも、無茶なお願いをしている自覚があった。けれど、そこはどうしても来留魅に頼まねばならない一線だ。

「無理。それは無理。くるみちゃんのに乗せて、お願い」

「強情だなあ、もう。早くしてよ。しっかりつかまって」

  ありがとうと言って、明夏璃は空の荷台に横乗りする。

  来留魅はこぎながら状況を説明した。当初、待ち合わせしてかすみとふたりで行くつもりだった。ところが、行く直前になってかすみから「先に行く」とメールがあり、来留魅は予定通りの時刻に彼の家に行った。しかしそこにいるはずのかすみはいない。携帯もつながらないので仕方なくかすみの家を訪ねてみたが、不在。そこでもう一度、ここへ確認しに来たということだった。

「こんなこと、いままでなかったのに。どうしちゃったのかしら」

  宮の橋に着くと、来留魅は押切橋、明夏璃は幸橋にそれぞれ近いほうの欄干から、身を乗り出して、橋の下に流れる田川にかすみを探した。浅く、流れもゆるやかだったが、川底は見通せないほど黒ずんでいた。川べりに人はいず、土手には柳がずっと遠く、幸橋のほうへもつづいている。明夏璃は来留魅を振り返ると、ちょうど彼女が走り出そうとするところだった。すぐそばに彼女の自転車が倒れていた。明夏璃はそれを追った。横断歩道を渡って橋の反対側へ行き、土手を走り、川べりへ下る階段に足をかける。

「かすみっ、くるみっ」

  明夏璃は大きな声で呼びながら、川とアスファルトを隔てる銀の手すりにつかまって静かな流れを見つめるふたりに駆け寄ろうとして、立ち止まった。かすみのすすり泣く声が聞こえる。

「かすみね、もう無理なの。麦國くんのそばにいるだけじゃ、友達でいるだけじゃ、いや。振り向いてくれなきゃ、意味ないよ。あたしは、あいつのすべてが欲しいのに、心の底から想っているのに、なによっ、もう。なんでなのよっ、あり得ないわよ、こんなんじゃもうくるみ、本当に生きてる価値なんてないわ……」

 と、かすみはだいたいこんなことを、時折のどをつまらせ、鼻水をすすりながら、途切れ途切れにつぶやいた。そうして、いつの間にかかすみを、来留魅は抱きしめていた。かすみの悲痛な声も、ちいさな身体も、まわりの空気も、みなしぼり出すように震えていた。

  明夏璃は階段を登り宮の橋に倒れた来留魅の自転車を立て直して、薄汚れたエメラルドグリーンの欄干から、川べりにたたずむふたりを見た。それからまたその自転車を階段のすぐうえへひいてきた。ふたりにはなにも言わずに、明夏璃はバスに乗って中央警察署前で下車し、歩いて麦國の家へ戻った。誕生日パーティーは佳境に入っていた。ちゃぶ台の料理はもうほとんど残っていなかった。

  わたしはそのとき明夏璃ががっかりしたのを覚えている。君にとっては彼女がいなくても、パーティーは予定通り進行していくものなんだねと、わたしは少し悲しくなった。

  けれど麦國がいることに明夏璃はすぐ気を取り直し、彼にパーティーに遅れたことを詫びた。

「うん」

  麦國はライト・オンの真っ赤なチェックのシャツを着ていて、彼の白い肌に妙によく映えていた。薄く切ったレモンを皮ごとかじっていた。

「くるみとかすみは来ない。風邪ひいたって」

「はあ。大丈夫かよ」

  今日の主役は麦國であった。誕生日にはふさわしくない話だとわかっていた。だが、明夏璃は割り切れないものを感じ、ごちゃまぜの胸中に整理をつけたくて、聞いてしまった。

「少し、話がしたいの」

「話?」

  明夏璃が麦國の正面に座ると、彼は笑ってちゃぶ台に乗ったレモンをつまんだ。

「レモンなら残ってるけど?」

「いや、ありがとう。まず聞きたいことがあって、あの。告白されたの……?」

  明夏璃は一息で言った。

「レモン、ある」

  しかし、麦國は聞かれたことに無頓着だ。レモンを勧めてくる。

「……振った、の?」

「レモンが、食べてほしいって。乙賀に」

  かすみ死にそうだったよと言いかけて、明夏璃は口の中にレモンを突っ込まれた。

「な、おいしいだろ」

  麦國はにこりと笑う。

「で、なに?」

  明夏璃は黙ってレモンを咀嚼する。唇の両端がひりひりしてくる。すうっと頭が冷えた。

「おいしい」

  明夏璃は努めて笑みを浮かべる。

「これ、あまいね。どうやって作ったの」

  麦國はキラッと一瞬目を光らせて、

「切って、砂糖につける」

 と、レモンを切る素振りをして、にやけた。ふうん、と明夏璃も笑ってうなずく。

「そのあとは?」

「冷蔵庫に入れる」

「冷たいほうがおいしいの」

「冷えると、めっちゃうまい」

  ふうん、とまた明夏璃は笑って、ちゃぶ台からもうひとつ口に運んだ。食べ終えると、麦國に謝った。うん、と彼はうなずく。

「お誕生日、おめでと」

「ああ」

  ここへは君の誕生日を祝いに来たのだと、明夏璃が再認識したのをわたしは感じた。わかってはいたけれど、かすみの騒動で不安になった自分を君にぶつけるのは、やっぱりよくないことだった。わたしはほほ笑みながら、彼女が後悔の渦に巻きこまれていくのを見た。あまり気にしてもしかたないことよと、よほど言いたかったけれど、しゃべるための言葉も口も、もっていなかった。

  その帰り道、宮の橋付近にもうかすみたちはいなかった。明夏璃はほっとした。かすみの言っていたことが自然と思い出される。

  麦國の友達であることに、満足していた。彼のそばにいられるからだ。けれど、本心ではかすみのように、友達よりうえの関係を手に入れたいと、思っているのだろうか。きっと、彼への気持ちをいつか、抑えられなくなるのか。怖い。

  結局は、レモンになりたいんじゃないかと、明夏璃がつぶやく声が聞こえてきた。冷えきったわたしのこころにその言葉はしみてくる。そう、その言葉をしみさせているのはわたし、自身だ。だからわたしは彼女を侮蔑するほかなかった。目をつむる。これ以上、惑う彼女を見ていたく、ないから。

「麦國くんの、いちばんになりたい……?」

  そのwordsが舌にこびりつかせた実感は、ひりひり舌上でまろび過ぎる。自転車をこぎながらささやく明夏璃の、それが本心であるとわたしにはわかる。欺瞞だけでは、もう満足できないと、知ってしまった。君に好きになってほしいだけではない、君にとってもたいせつなひとになりたいのだと、自身が思っていることを、彼女が自覚したことにわたしは気がついた。

  その夜、明夏璃は「聖なる」レモン・ジュースを飲む気にならなかった。三週間前に飲み始めて以来、はじめてのことだった。

  彼女の母はそれを見て、飽きたのかしら、それとも好きな子に振られたのかしらと、首をかしげた。

  レモン化した自身じゃなくて、そのままの自身を好きになってほしいのだと、明夏璃が考え出したのをわたしは知っている。

  次の日、高校へ行くと、教室の片隅で、女子が四、五人集まってなにか話していた。窓側最後列の松井清弥名が中央にいた。ちょうどその右斜め前に明夏璃の席があった。読者するふりをして、聞き耳を立てる。

「あり得ないよねえ、まさかあの、麦國が中学時代荒れていたとか。茶髪に金髪ウィッグつけて、校内ビールしていたって」

「いやだあ」

「しかもタイマンして、二十三人骨折」

「なあんで清弥名、あんなやつ好きになったんだろ。タコ野郎。マジ一生の恥よ」

  話を聞いているうち、明夏璃は心臓がドキドキしてきた。どうやら、麦國と同じ中学出身の女子が、中学時代の彼を多少誇張してうわさしているらしかった。松井清弥名もそれに便乗して彼をけなしている。しかし、麦國好みの髪型を彼から直接聞き出したのは松井だ。その言動の違いは明夏璃の目に奇異に映った。

  もしかしたら清弥名は君に振られでもしたのかしらね、と同情しつつ、内心ほくそ笑んでほっと一息ついている明夏璃に、わたしはどうしても呼びかけずにいられなかった。よかったねと、ひとことでもいいからしゃべるための、言葉と口をください。けれども唇からつむがれるのは、音声のない、かわいた言葉だった。しゅーっ、しゅーっという呼吸音が、やけに大きく耳に響く。わたしはすごく苦しかった。

  明夏璃はとりあえず、うわさの真偽を確かめるために、放課 後、隣のクラスの麦國を訪ねた。

「ああ? もう忘れちまったよ、んなこと。気にしねえよ」

  彼は笑みを浮かべ、とくに何事もないように言っていたが、いつもより口調がわずか荒かった。

「そう。でも、いやだよ、そんなへんな話、聞くの」

「知らねーよ」

「とにかく、気をつけてよね」

「じゃ、どうしろって?」

「そんなつもりじゃ……」

  麦國は、ふうっと息を吐いた。いままで彼が息を詰めていたのかと思うと明夏璃はびっくりする。

「そうだよな。明夏璃は、そうだもんな」

「な、何? ……」

  麦國は、きらめく微笑を浮かべる。

「オレのこと心配したのか? ……心配、するなよ」

  表情も声音もしっかりと笑っているのに、なぜか、それは明夏璃を拒んでいた。ふいに悪寒が走る。明夏璃はまたね、とかるく笑って教室を出た。廊下を歩きながら、あるもどかしさを感じてい た。

  誕生日パーティーといい、いまといい、君のこころの大事な場所に、入れない明夏璃が、君に疑念を抱き始めたのを、わたしはひやひやする思いで眺めていた。なにか、君には他人を拒ませることがあったのか、それともそれは現在にあるのだろうか。その唐突な思いつきは彼女自身の勝手な妄想が作り出した産物に違いなかったが、彼女にその自覚はない、ように見えてわたしは溜め息をつく。君に対して疑念を抱く自分自身に傷つき、君への想いが本物であるか迷い始める彼女を、黙って眺めているほか、すべはない。彼女を抱きしめて「愚かね」と一言、ささやいてやりたかったのに、あいにくわたしの腕は涙に濡れて、空気に溶けそうなくらい、細かった。いとしき彼女の、おだんごヘアーに触れるたび、弱々しい指が彼女の髪をすり抜けていく。

  明夏璃は下校しようとして、靴箱の前に七瀬川来留魅がいるのに気がついた。来留魅はローファーに片足入れていた。かすみは見当たらない。

「この前は、大丈夫だった?」

  明夏璃のほうから声をかけた。

「この前? ああ、昨日のことなら大丈夫だけど。あかりこそ、大丈夫だった?」

「うん、あのあと、麦國の家戻ったんだけど」

「戻ったの!」

「うん、食べるものなんにもなかったけどね」

「だろうね。あいつオオカミだよ」

  来留魅は汚いものでも見たような顔をする。

「オオカミ……。ねえ、麦國についてへんなうわさが流れているんだけど、知ってる?」

「ううん知らない」

「松井清弥名とかが言ってるんだけど」

「清弥名? あーあ、清弥名なら、なんか言いそうだね」

  来留魅は大きくうなずく。

「そうなの?」

「昨日、清弥名も告ったらしいよ」

「えっ?」

「あのバカオオカミ、いったいいくつブレイクすれば気がすむわ け? こころを食われるやつも食われるやつだけどさ」

「……なんか清弥名、麦國の中学時代をさんざんに言ってた」

  来留魅は顔をしかめる。

「清弥名もいやなやつだなあ、そんなこと持ち出すなんて」

「うーん、振られたからしゃあないんじゃない?」

「そんなこと、ないよ。とくに、あのオオカミについてそこ持ち出すなんてルール違反。悔しいけどね~」

  明夏璃の心音が一拍、高く跳ねた。

「なんかあったの?」

「清弥名言ってない? なら、あたしが言うまでもないね。ごめん、そこは……」

「いいよ、それより、かすみは? 今日学校来た?」

「かすみなら来たよ、いまは部活。茶道部だよ」

  明夏璃はかすみのつよさにひそかに感心する。それから清弥名に思いを馳せて、かすみが失恋して麦國をどういうふうにののしったか、興味をもった。

「清弥名って軽薄だね。昨日まで麦國好きだったんでしょう? 失恋して、結果がわかっちゃったら、みんな、それまで好きだった人をきらいになっちゃうのかな」

  来留魅は首をかしげる。

「さあ? その人次第だよ。っていうか、その前に清弥名が悪口言ってるからって、麦國きらいになったとは言い切れないと思う」

「ふーん」

  それから、来留魅と明夏璃は交番がある交差点まで並走して、そこで別れた。来留魅はそのまま桜通りを直進し、明夏璃は大通りのほうへ右に曲がった。街路樹が風に揺れていた。

  清弥名が君を悪く言う気持ちはわからなくもないと、明夏璃がぞっとしながらつぶやくのをわたしは聞いた。君に振られると傷つく自尊心が、明夏璃にもあるのだろう。それは初めから彼女にもあったのだろう。いまはそのことに気づいてしまった。

  君をけなすことがその自尊心の回復に役立つ唯一の薬なら、絶対に君をけなしたくなど、ない。清弥名を軽薄だ、と言った明夏璃の言葉がわたしを揺さぶる。清弥名はみにくい。たとえ本心ではなかったとしても麦國を悪く言うなんて、それも自分のために。明夏璃にはそうなってほしくないのだ。傷つくなら、傷ついたままでぐちゃぐちゃしていてほしい。

  もっともそんなことを明夏璃に願うのは間違っているとも感じてしまう。彼女は君に告白することなど、できないだろう。妄想をそれとは気付くかず、そこに理由すら探し求めているような自己チュウさがわたしの、明夏璃への想いーー明夏璃が振られた腹いせに彼の悪口を言う可能性に対して感じている、臆病と一体化したら、無敵だ。きっとその恋は叶うまい。

  だからわたしは明夏璃に君を想うことをやめさせたい。自己チュウな彼女に恋の懊悩など似合わない。きっと一生涯、恋なんてわからない。そのことを気付くわけなんてない。ああなんて明夏璃はかわいくて、なにより可哀想だ……わたしが、明夏璃をずっと見ていたいわたしが可哀想、だってわたしには嘆く口も泣きわめく涙もない。気持ちを伝えるはずのコトバさえ無力になるのはどうしてだろう、なんで明夏璃のすぐそばにいるのにわたしには、わたしにはコトバを紡ぐ唇がない?

  君をあきらめさせる理由は探すほどたくさん見つかるけれど、どれもおもしろくない。

「わたし、いちばんになりたいんでしょう?」

  大通りを行き交う車の騒音の中で、ひっそりと明夏璃がつぶやく声だけが、真実であるように聞こえてくる。たったひとつあるコトバに聞こえる。

  その日の夜も、また次の日の夜も、明夏璃は「聖なる」レモン・ジュースをしぼる気にならなかった。

  それで彼女の母はとうとうスーパーでレモンを買うのをやめてしまった。

  幾日かたったある朝、明夏璃の部屋じゅう、なにかへんに匂っていて、もとを探すと、「神棚」のレモンが、青いろと白いろとにかびていた。麦國の誕生日パーティーがあった朝に、「神棚」に祀られたレモンだった。明夏璃はそれを「神棚」ごと捨てた。冷蔵庫に残っていたレモンは、通学途中に宮の橋から田川へ落とした。大通りにはさつきが咲きみだれて、まちじゅういたるところに濃ピンクがあふれていた。雨の気配が深まっていた。

  そんな季節だったから、彼女は行かねばならなかった、とわたしは思う。

  とある土曜日、午前授業の帰りに、明夏璃は大通り沿いにある神社に参拝した。駐輪場から坂を上がると、拝殿の横に出た。御幣のついた楠の巨木がどっしりとそびえていた。辺りの木はほとんどが椎樫だった。うっそうとした枝は新緑に染められている。鳩が、唐破風神門の近くに群がって歩いていた。参拝者の列に並ぶ。

  かすみや清弥名のことがあって、明夏璃がずっと苦しんでいたのをわたしは見てきた。レモン・ジュースが飲めなくなったことも彼女を動揺させていた。麦國への気持ちのゆらぎと、迷うことで自分を信じられずに傷つく自分自身が、ここにある。それは神様に祈ればきっとどうにかなるのではないかという安直な気休めに唆され、わざわざ神社まで明夏璃を連れてきたことをわたしは知っている。

  賽銭を入れて手を合わせる。それから坂を降り、駐輪場へ。大通りに出ると、麦國がそこにいた。目の前を走り過ぎていく。明夏璃は息が詰まった。急ぎ追いかけた。

「麦國くん、待って」

  横に並ぶ。

「麦國くん、だよね」

  彼は顔だけ向ける。

「乙賀か」

「麦國くんはさ、中学のときなんかあったの?」

  彼の肩に力が入る。固く口を閉ざしたので、明夏璃は言ってしまうことにする。

「どうして、あんな中学時代荒れてたとか髪染めてたとかビールとか、タイマンでめちゃつよいとか、あんなまるで武勇伝じゃん武勇伝みたいなこと、なんで悪口みたく、言ってるんだろうね、ほかの人たち」

  ぎょっ、としたように横目を使う麦國をそ知らぬふりして、つづける。

「あんな悪口、むしろほざいてるほうがバカでしょ。性格のねじまがってるの、口に出てるわ。バカよバカ。自分が悪いんじゃん、振られるほうがおバカなんだよ」

  言い殴っていた明夏璃は、それまであれほど悩んでいた、麦國への気持ちのゆらぎに迷いが生じるのがわかった。なぜ、あれほどまで迷っていたのか。

「人聞き悪いことわめくなよ」

(それは、気づくのが怖かったからだ)

「わめいてないし。言いたくて言ってるのよ」

(知っていて、でもそれでもなお、盲目的に、自分しか考えられない自己チュウのフリをしつづけているのは)

「おまえ、こっちの事情に突っ込むなよ。虫酸が走るんだよ、そういうやつ」

(言わない理由にするためだよ。あかりが君を好きなことに気付いたとき、その気持ちが途方もないと知ったとき、目の前に君に振られて落ち込む人たちがいたから)

「走らせときなよ。麦國のバッドエンドな中学時代なんてどうだっていいんだよ。あかりが勝手に知りたくて聞くんだから」

(告白して泣くのが、いやだった。傷つきたくなかった)

「だから、オレはそういう野次馬大きらいなんだ。ついてくんな」

(麦國くんへの気持ちを打ち明けたくなかったから、その気持ちに疑念を抱くために自己チュウを理由にした、疑念を抱いたんだ、自分で。それを抱きたくて、この気持ちをゆらがせた……)

「わたしはレモンになりたい、だから麦國くんなんて大きらいだ よ」

(だってわたしは臆病だから。君に打ち明けてこの恋をなくすかも知れないのなら、絶対に好きだなんて言わない。言いたくない。……言えない)

「あっそうかよ」

  麦國は本当に機嫌が悪そうに見えた。

「でも、友達だよ、わたしたちは。麦國くんが大きらいだから、友達だ」

  麦國は鼻で笑う。明夏璃は気にせずつづける。

「友達なんだから、そのままでいてよ」

  次の交差点で麦國は左に曲がった。明夏璃は直進だ。

「麦國くん、またね」

「……ああ」

  街路樹を揺らす風が五月雨の気配で湿り気をわずか帯びている。さやさやと葉が擦れる音が響いていた。






 了




落選したものをリメイクしました。


「わたし」に関しては、すごくあいまいな存在です。

だいたい明夏璃の髪は触れるくせに、口はないんだから、なんかよくわかりません。


ですが、へんな構造にしたかったので、書いてみました。

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