最後の乗客、待ち人たちの夜
この作品は、カクヨムにものせてます。
雨が降り続いていた。
古びた木造駅舎の軒先から、雨水が太い筋となって絶え間なく落ちている。ホームに人の気配はない。湿気で木目の歪んだベンチの上では、誰かが置き去りにした濡れた新聞が、雨音に合わせて小さく揺れていた。
駅員のマルクは、薄暗い改札口の壁に掛かった大きな時計を見上げた。
午後十一時四十分。
最終列車が夜の闇へ消えてから、すでに三十分が経っている。
「……よし、今日はこれで終わりか」
独り言をつぶやき、マルクは重い鉄の改札扉に手をかけた。指先に伝わる冷たい感触が、一日の終わりを実感させる。
この小さな駅で働くようになって五年。乗客のほとんどいない夜更けは、いつも彼に静かな孤独を与えた。誰もいないホーム、止まった時計の針、そして自分の足音だけが響く空間。それが妙に心地よくもあった。
家には帰りたくなかった。
一年前、婚約者だった女性から手紙が届いた。
『ごめんなさい』
たった六文字だけの手紙だった。
理由も言い訳もなく、彼女は町を出ていった。
最初のうちは連絡を待った。駅の電話が鳴るたびに期待し、休日には郵便受けを何度も覗いた。
だが季節が一巡りしたころには、それもやめた。
待っても帰ってこない人間はいる。マルクはそう学んだ。
そのときだった。
しとしとと落ちる雨音の隙間を縫って、線路の奥からかすかな音が響いてきた。
――カタン、カタン。
規則正しく、重い車輪がレールを刻む音。列車が走る音だ。
マルクは眉をひそめた。おかしい。この路線の最終列車は、間違いなく三十分前に出ている。始発まで六時間、どの列車も走るはずがない。
胸の奥で、何かがざわついた。単なる気のせいであってほしいという願いと、それでも確かめずにはいられない職務意識が、同時に湧き上がる。
「通過列車か……?」
ホームへ踏み出し、目を凝らして線路の先を見渡す。だが、どこまでも続く暗闇に、列車の前照灯は見当たらなかった。音だけが、少しずつ、しかし確実に近づいてくるような気がする。
気のせいだろう。雨音が、そう聞こえさせたのかもしれない。
小さく息を吐いて駅舎へ戻ろうとしたとき、ホームのいちばん端、街灯の光も届かない薄闇の中に、ひとつの影が立っているのに気づいた。
若い女性だった。
白いワンピース姿で、傘も差さずに佇んでいる。長い黒髪は雨を吸って、青白い頬に張り付いていた。
マルクの足が、一瞬、止まった。こんな夜更けに、こんな場所に、ひとりで。胸に冷たいものが走る。
放っておくわけにはいかないという駅員としての責任感と、どこかで見たことがあるような奇妙な既視感が入り混じった。
「お客さん……? どうしました、こんな時間に」
思わず声をかけると、女性はゆっくりと振り向いた。その瞳が、雨に濡れた闇の中で静かに揺れた。
「列車を、待っているんです」
「もう最終は行きましたよ。次は明日の朝まで来ません」
「知っています」
「……でしたら、お宅へ帰られたほうがいい。駅も閉めますし、風邪をひきますよ」
女性は答えなかった。ただ、雨に濡れる線路の闇を見つめ続けている。その横顔には、長い年月をかけて削られたような、静かな決意が浮かんでいた。
マルクは困って頭をかいた。もうすぐ日付が変わる。濡れた若い女性を、こんな夜更けのホームに放っておくわけにもいかない。
自分の部屋に帰ってひとりで眠る夜よりも、今ここにいるこの人のほうが、ずっと孤独に見えた。
「……とりあえず、中へ入りましょう。温かいお茶くらいなら出せますから」
女性は少し目を見開き、それからそっと首を傾げた。
「ありがとうございます」
駅舎に入ると、マルクはすぐに古い石油ストーブに火をつけた。橙色の光が、薄暗い室内をぼんやりと照らす。木の椅子に女性を座らせ、タオルを渡す。女性はタオルを受け取り体を拭いた。次にマルクは、棚の奥から分厚いウールの毛布を出して肩にかけてやった。
指先が触れた瞬間、彼女の体がひどく冷たいことに気づき、胸が締めつけられた。
「使ってください。すっかり冷えてしまっているでしょう」
「……あたたかい」
女性は毛布を抱きしめるように握り、膝の上で手を重ねた。ストーブの火に近づいても、その指先は青白いままだった。
「私はマルクといいます。ここの駅員です。あなたは?」
「……エミリア、です」
「エミリアさん。ご家族が心配なさっていませんか?」
「列車を、待っているんです」
「こんな雨の夜にですか」
「はい」
エミリアは迷いなく答えた。
その声には不思議な確信があった。
まるで、来るはずのないものを待っている人間の声ではなかった。
「待ち続けるのは、大変でしょう」
思わず口からこぼれる。
エミリアは少し首を傾げた。
「そうでしょうか」
「多分」
マルクは苦笑した。
「俺は、あまり向いていなかったみたいです」
それ以上は言わなかった。
だが、一度口にすると胸の奥の古傷が疼く。
待っても帰ってこない人間もいる。
そんな当たり前のことを知るには、一年あれば十分だった。
「その人が来ないかもしれないとは、思わないんですか」
湯気の向こうで尋ねると、エミリアはストーブの火を見つめたまま答えた。
「何度も思いました」
静かな声だった。
「諦めようとしたこともあります」
マルクは黙って耳を傾けた。
「でも、待っているあいだだけは、その人と繋がっていられる気がしたんです」
胸が痛んだ。
彼にも覚えがあった。
電話が鳴るたびに顔を上げていた頃のことを。
駅の窓口に座りながら、無意識に入口へ目を向けていた頃のことを。
結局、その人は帰ってこなかった。
だから待つのをやめた。
待ち続ける自分を見るのが、つらかったからだ。
窓ガラスがカタカタと小さく震え出した。
闇の向こうから、二条の強い光が差し込んでくる。エンジン音を殺したかのような静けさで、一両の古い列車がホームへ滑り込み、停まった。
マルクは息を呑んだ。本当に来たのだ。あり得ないはずの列車が、目の前に。
心臓が大きく跳ね、頭の中が白くなった。
「エミリアさん、列車が……本当に来ましたよ」
驚くマルクの隣で、エミリアがすっと立ち上がった。さっきまでの様子が嘘のように、その顔には深く、可憐な笑みが浮かんでいた。
「……やっと、来てくれた」
「待ってください! あれはどこ行きです? 時刻表にはないはずだ」
引き留める声を背に、彼女はためらいなく駅舎の扉を開けた。マルクは追いかけようとして、足がすくんだ。
何かが、自分の中で大きく崩れるような感覚があった。
プシュー、と湿った音を立てて、列車のドアが開く。ステップを降りてきたのは、ひとりの青年だった。黒い厚手のコートを着て、傷だらけの革の旅行鞄を提げている。
「エミリア!」
「あなた……!」
エミリアは涙を拭いもせず、雨の中へ駆け出した。二人は互いの手を強く握り、世界に二人きりしかいないかのように見つめ合う。
「遅くなってすまない。待たせたね」
「いいえ……いいの。ずっと、待っていたから」
青年が、愛おしそうに彼女の肩を抱き寄せた。
マルクは、その光景に目を奪われていた。既視感があった。この二人を、自分はどこかで見たことがある。
胸の奥が熱くなり、同時に冷たくなった。
吸い寄せられるように、壁の古い額縁へ目を向ける。
この駅の開業記念の写真だった。四十年以上前の白黒写真で、誇らしげな駅員や工事関係者が並んでいる。その隅に、肩を寄せて微笑む一組の男女がいた。
マルクは顔を近づけ、息を呑んだ。
写真の女性は、いま青年に肩を抱かれているエミリアと、寸分違わぬ顔をしていた。
「そんな……まさか……」
弾かれたように振り返ったとき――
ホームには、もう誰もいなかった。
駆動音も、レールを叩く音もない。列車は闇に溶けて消えていた。ただ、雨に濡れたホームの路面に、駅舎の戸口から列車が停まっていた場所へと続く、足跡だけが残っている。
マルクはゆっくりとそこへ歩み寄り、足跡を見つめた。雨が、すぐにその輪郭を溶かし始めている。
指先が震え、喉がからからに渇いた。
振り返ると、椅子の上にタオルと毛布がたたまれていた。
タオルは濡れており、毛布はほのかに温かった。
たったいままで、確かに誰かがそこにいた。そして今は、いない。
胸の奥の小さな穴が、今夜だけは少しだけ埋まったような気がした。同時に、埋められたはずの穴が、また別の形で広がっていくような、言いようのない喪失感もあった。
*
翌朝、出勤してきた老駅長に、マルクは昨夜のことを残らず打ち明けた。声が上ずらないよう、言葉を選ぶのに苦労した。自分でも、信じきれないまま話しているのが分かった。
駅長は、コーヒーの湯気の向こうで黙って聞いていたが、やがて深いため息をついた。
「……そうか。また来たのか」
「ご存じなんですか、あの二人を」
「四十年前、このホームで事故があった。最終列車を待っていた若い男女が、線路に落ちてな」
「亡くなったんですか?」
「男のほうだけな。女は間一髪で助かった。だが、それから彼女は毎晩のように、あの時刻に駅へ通い詰めるようになった。死んだ恋人を、待っていたんだろう」
「その人は、どうなったんです?」
「事故から数年して、ある日ふっと姿を消した。どこへ行ったのか、警察にも誰にも分からん」
駅長は、雨に濡れる静かなホームへ目をやった。
「それからだ。時刻表にないあの列車が、最終が出たあとの夜更けに来るようになったのは」
マルクは言葉を失い、喉を鳴らした。昨夜の温もりがよみがえる。あの毛布の感触が、まだ残っている気がした。
「ただな、マルク。ひとつだけ、ずっと腑に落ちんことがある」
「何です?」
「見た者の話によると女は、あの列車に乗らないそうだ。乗れば、二度とこの駅へ戻れないと知っていたかのようにな」
駅長は壁の写真へ視線を移した。
「男は、闇の向こうで彼女が来るのを待っていたのか。それとも、引き裂かれた二人が再び会うための場所が、この駅だったのか……」
マルクは黙って、その写真を見つめた。昨夜のエミリアの笑顔が、まぶたの裏に重なる。
自分はこの駅で、ただ時間をやり過ごすだけの人間だと思っていた。だが昨夜、ほんの短いあいだ、誰かの長い待ち時間の終わりに立ち会ってしまった。
窓の外では、昨日と変わらぬ雨が、冷たく、やさしく降り続いていた。
マルクは制服の内ポケットに手を入れた。
折り畳まれた古い紙片が指先に触れる。
何度も捨てようとして、結局捨てられなかった手紙。
たった六文字しか書かれていない。
『ごめんなさい』
彼はそれを見つめ、それから静かに折り直した。
まだ答えは分からない。
マルクは窓の向こうの線路を見た。
雨の中へ続くその先が、以前ほど暗くは見えなかった。




