「崩れかけの婚約ですわね」笑われましたが、黙っててもらえますか?
一部修正しました。
アリシア・レインフォートには、婚約してからずっと気になっていることがあった。婚約者であるローゼン・クライゼンが、滅多に笑わない。滅多に、という言い方さえ正しくないのかもしれない。半年前に婚約を結んでから今日まで、アリシアは彼が笑っているところを一度として見たことがなかった。
王宮の東側に広がる庭園では、春を迎えた花々が一斉に咲き始めていた。白い石畳に沿って淡い桃色の花をつけた低木が並び、その奥では冬を越した薔薇が瑞々しい若葉を広げている。庭園の中央には二人のための円卓が用意され、銀の茶器と焼きたての菓子が整然と並べられていた。少し離れた場所には王宮の侍従とアリシアの侍女が控えているものの、会話までは聞こえないだけの距離が取られている。
円卓の向かい側に座っているローゼンは、今日も見事なまでに笑っていなかった。艶のある黒髪の下には端正な顔立ちがあり、深い青色の瞳は静かにアリシアへ向けられている。機嫌が悪いようには見えないのだが、楽しそうにも見えない。婚約して半年も経てば多少は彼の表情を読めるようになると思っていたアリシアの期待は、今のところ叶っていなかった。
「この菓子、以前も出してくれたわね」
「ああ。気に入ったと言っていただろう」
ローゼンは短く答えると、手元の紅茶へ視線を戻した。アリシアは目の前に置かれた焼き菓子をひとつ取り、薄く焼かれた生地を指先で割った。蜂蜜の甘い香りと木の実の香ばしさが広がるそれは、ひと月ほど前の茶会で初めて口にした際、何気なく美味しいと言ったものだった。それ以来、王宮を訪れるたびに同じ菓子が用意されている。
最初は偶然だと思っていた。王宮の厨房ともなれば作られる菓子の種類も多く、同じものが続けて出てくることくらいあるだろう。ところが二度、三度と続けば、さすがに偶然では片づけられない。以前、庭園を歩いていた最中に風が強くなり、アリシアが一度だけ肩を震わせたことがあった。その次の茶会からは、肌寒くなったときのために薄手のショールまで用意されるようになっていた。
読んでいる本について話したときも同じだった。何気なく題名を口にしただけなのに、次に会ったローゼンは内容を知っており、アリシアが好きだと言った場面について自分なりの感想まで持っていた。尋ねれば以前から興味があったから読んだのだと答えたものの、半年の間に似たことが何度も続けば、いくらアリシアでも気づく。
世間で語られているローゼン像とは、どうにも噛み合わなかった。王太子ローゼン・クライゼンは幼い頃から他人を寄せつけず、社交の場へ出ても必要以上に誰かと親しくなることはない。女性から好意を寄せられても関心を示したことがなく、人を愛した経験さえないらしいという話から始まり、冷酷だとか、他人の気持ちを理解できないとか、果てには国王になれば暴君になるのではないかという噂まで流れている。
アリシアも婚約が決まった当初は、そんな噂を少なからず気にしていた。王家とレインフォート公爵家の結びつきを強めるために決められた婚約であり、二人が互いを望んで結ばれたわけではない。相手が本当に噂通りの人物だったとしても、公爵令嬢であるアリシアが簡単に断れる話ではなく、父から婚約を告げられた夜には、これから何十年も冷たい夫と暮らすことになるのだろうかと不安になったものだ。
初めて二人だけで茶会を開いた日のことも覚えている。ローゼンは必要なこと以外ほとんど口にせず、アリシアも緊張していたため、会話はなかなか続かなかった。ところが会う回数を重ねるうちに、無愛想ではあってもアリシアを蔑ろにする人ではないと分かってきた。口数が少ない分、彼の気遣いは言葉ではなく行動に現れることが多く、それに気づいてからはローゼンと会うことへの不安も薄れていった。
そこで新しく気になり始めたのが、ローゼンの笑顔だった。嬉しいことがあっても笑わず、美味しいものを食べても表情を変えず、面白い話を聞いたところで口元ひとつ緩めない。これだけ整った顔立ちをしているのだから、笑えば随分と印象も変わるだろうに、肝心の本人には笑顔を見せる気配がなかった。
今日のアリシアは、その疑問を解消するつもりで王宮までやって来ていた。侍女から王都で起きた面白い出来事を聞き、兄から最近評判になっている店の話も仕入れてきた。ローゼンが領地経営や政治に関する話を好むことも分かってきたので、父から北部の街道整備について聞いた話まで覚えている。どれかひとつでも彼の興味を引き、そこから笑顔を見ることができれば十分だった。
ところが今日のローゼンは、普段以上に口数が少なかった。何度かアリシアを見ては視線を外し、紅茶へ手を伸ばしかけてやめている。元々よく喋る人ではないため最初は気に留めなかったものの、こうして向かい合っていると、何かを切り出す機会を探しているようにも見えた。
「ローゼン、今日は――」
「アリシア」
二人の言葉が重なり、アリシアは先を譲った。ローゼンはすぐには続けず、円卓の上に置かれた銀のティーポットへ一度視線を落としたあと、覚悟を決めたようにアリシアを見る。その顔はいつもと同じように無表情なのに、普段より肩に力が入っていることには気づいた。
「もし、僕のことが嫌だったら婚約破棄してほしい」
アリシアは瞬きを繰り返しながら、今聞いた言葉の意味を理解しようとした。今日ここへ来るまで考えていたのは、どうすればローゼンを笑わせられるのかということばかりだった。婚約を終わらせることなど頭の片隅にもなく、席について間もなく婚約そのものを揺るがす話を持ち出されるなど予想できるはずもない。
まさか初手からこれだとは思わなかった。用意してきた面白い話も、王都で評判になっている店の話も、一瞬にして頭の隅へ追いやられてしまった。冗談を言っている可能性も考えたが、そもそも笑わない男がこんな場面で冗談を言うとは思えず、ローゼンの目にもふざけた様子は見当たらない。
「……どうして、いきなりそんな話になるの?」
「いきなりではない。しばらく考えていた」
余計に分からなくなったアリシアが眉を寄せると、ローゼンは庭園の向こうへ視線を移した。春の風が木々の若葉を揺らし、頭上で葉の擦れ合う音が重なる。少し離れた場所には侍従たちが控えているものの、この距離なら二人の会話が聞こえる心配はなかった。
「最近、君は僕の顔をよく見ているだろう。目が合えば逸らすことも多い。僕についてどんな噂があるのかは知っているから、君が不安に思うことを責めるつもりはない」
「それで、私が貴方を嫌っていると思ったの?」
「怖がらせている可能性は考えた。王太子との婚約では、君から解消を申し出るのも難しいだろう。僕と結婚することが苦痛なら、父上には僕から話す。レインフォート家へ責任が向かうこともないようにする」
アリシアは返事を忘れ、しばらくローゼンを見つめていた。人を愛したことがない、他人の気持ちが分からない、いずれ暴君になるかもしれない。そんな噂を立てられている本人が、自分の将来を心配して身を引こうとしているのだから、社交界で好き勝手に語っている人々に今の会話を聞かせてやりたいくらいだった。
ローゼンが言っている「顔をよく見ている」という部分には、アリシアにも心当たりがある。最近は笑いそうな瞬間を見逃したくなくて、以前より彼の顔を観察することが増えていた。目が合えば、じろじろ見ていたことが恥ずかしくなって視線を外していたため、それを恐怖の表れだと勘違いしたらしい。
「嫌ではないわ」
はっきり答えると、ローゼンの眉が僅かに動いた。半年間付き合ってきたからこそ分かる程度の変化であり、初めて会った頃のアリシアなら気づかなかっただろう。表情には出さなくても驚いているらしい。
「少なくとも、婚約を破棄してほしいと思ったことは一度もないわ。貴方と会うことだって嫌ではないし、怖いと思って顔を見ていたわけでもないの」
「では、なぜ最近あれほど僕を見ていたんだ」
そこを尋ねられると、今度はアリシアの方が答えに詰まった。本人に向かって、笑わないから面白くなって観察していましたと伝えるのも、考えてみれば随分失礼な話である。とはいえ、ここで誤魔化せばローゼンが再び余計な心配を始めそうなので、アリシアは観念して本当の理由を口にすることにした。
「……貴方を笑わせたかったの」
今度こそ、ローゼンの動きが完全に止まった。先ほど婚約破棄を持ち出されたときのアリシアも似たような顔をしていたのだろうと思うと少しおかしくなったが、まだ目的を果たしていない以上、自分から笑っている場合ではない。
「僕を?」
「婚約して半年になるのに、一度も貴方が笑っているところを見たことがないのよ。最初は気にしていなかったけれど、最近になってどんな顔で笑うのか気になってしまって。だから今日は、貴方が笑いそうな話までいくつか考えてきたの」
ローゼンはしばらく言葉を返さなかった。やがて緊張していた肩から僅かに力が抜け、深く息を吐く。婚約を嫌がられているわけではないと分かって安心したらしいのに、やはり口元は少しも緩まない。
ここまで来ると、アリシアの好奇心は余計に強くなった。婚約破棄まで考えるほど悩んでいたのなら、誤解が解けた今くらい少し笑ってもよさそうなものなのに、ローゼンは相変わらずいつもの顔で座っている。どうやら一度くらい笑顔を見てみたいという今日の目的は、思っていたより難しいらしい。
◇
午後が深まるにつれて、王宮庭園には交流会へ招かれていた貴族たちが少しずつ集まり始めた。国王夫妻が親しい家々を中心に招いた春恒例の催しで、大規模な舞踏会ほど堅苦しいものではない。庭園の各所には小さな円卓が並べられ、楽師たちが奏でる穏やかな音楽の中、夫人や令嬢たちは花を眺めながら会話を楽しんでいた。
アリシアとローゼンも二人だけの茶会を終えたあと、そのまま交流会へ顔を出すことになっていた。王太子とその婚約者が並んで石畳を歩けば、当然ながら周囲から視線が集まる。婚約したばかりの頃は一挙手一投足を見られることに疲れていたアリシアも、半年が経った今では随分と慣れていた。
そんな二人へ近づいてきたのは、ベルモント侯爵家の令嬢クラリッサだった。艶やかな金髪を丁寧に結い上げ、淡い水色のドレスを身につけた彼女は、社交界でもよく知られている。幼い頃から侯爵家の娘として王宮へ出入りしており、ローゼンともアリシアより以前から面識があった。
「ご機嫌よう、ローゼン殿下。アリシア様」
クラリッサは隙のない所作で礼を取り、二人へ微笑みかけた。アリシアも挨拶を返したところで、少し離れた場所にいた王太子付きの側近がローゼンを呼びに来た。国王から確認を求められていることがあるらしく、ローゼンはアリシアへ一言断ってから側近とともに庭園の奥へ向かった。
クラリッサの視線は、その背中を長く追っていた。以前から彼女がローゼンへ好意を寄せているという話をアリシアも聞いたことがある。婚約が決まる以前なら珍しいことでもなく、王太子であるローゼンに憧れる令嬢は他にも大勢いたため、アリシア自身は深く気に留めていなかった。
「半年も婚約していらっしゃるのに、殿下は貴女の前でも本当にお笑いにならないのですね」
ローゼンの姿が離れた途端、クラリッサの口から先ほどまでとは違う言葉が飛んできた。アリシアは彼女の顔を見る。微笑み自体は崩れていないものの、心配している人間が向けるものとは思えない楽しげな光が瞳に浮かんでいた。
「ローゼンは昔からあまり笑わないのでしょう?」
「ええ。存じておりますわ。けれど、婚約者の前なら少しくらい違うのではないかと思っておりましたの。愛する女性と過ごしているのであれば、誰だって自然と表情が柔らかくなるでしょう?」
アリシアは返事をせず、クラリッサの次の言葉を待った。今日に限って言えば、朝から自分もローゼンを笑わせようとしていたのだから、彼が笑わないという指摘そのものを否定するつもりはない。だからといって、クラリッサが純粋な疑問から話しているとも思えなかった。
「最近、殿下が婚約について陛下へご相談なさるおつもりだと伺いましたわ。アリシア様も、何かご存じなのではなくて?」
アリシアはそこで、先ほどローゼンと交わした会話を思い出した。自分が婚約を嫌がっているなら国王へ話すと言っていたのだから、どこかで話の一部を耳にした者がいたのだろう。そこから何人かを経るうちに、王太子が婚約解消を望んでいるという話へ形を変えたらしい。
「私たちの婚約については、私とローゼンで話すことよ」
事情まで教える必要はないと考え、アリシアはそれ以上説明しなかった。ところがクラリッサは否定されなかったことを肯定と受け取ったらしく、先ほどまで取り繕っていた微笑みに隠しきれない優越感を滲ませた。
「そうですわね。崩れかけている婚約のことを、他人に話したくないお気持ちは分かりますわ」
あまりに勝手な言い方に、アリシアは眉を寄せた。つい先ほど本人と話し合って誤解が解けたばかりであり、少なくともアリシアには自分たちの婚約が崩れかけているという認識などない。クラリッサがどこまで話を聞いているのか知らないが、断片的な噂から随分と大きな結論へ辿り着いたものだと思う。
「崩れかけている?」
「だって、そうでしょう?半年も婚約していながら、殿下は貴女に一度も笑いかけてくださらない。そのうえ陛下へ婚約についてご相談までなさっているのでしょう。そこまで揃っていて、順調な婚約だと言い張る方が難しいのではなくて?」
クラリッサは扇を広げて口元を隠した。周囲へ聞かせるつもりはないらしく声は抑えているものの、その瞳にはアリシアを気遣う様子など少しもない。自分の方がローゼンを理解しており、アリシアよりも彼の隣に相応しいと信じていることが、言葉の端々から伝わってきた。
「王太子妃というお立場を手放したくないお気持ちは理解できますわ。けれど、殿下のお心まで家柄で縛ることはできませんもの。崩れかけた婚約にいつまでも縋っていては、アリシア様ご自身がお辛くなるだけではありません?」
そこでようやく、アリシアにもクラリッサが何を望んでいるのか分かった。自分ならローゼンを理解できる。アリシアとの婚約がなくなれば、その隣には自分が立てる。心配しているような言葉を並べながら、その実、彼女は婚約が壊れることを誰より期待している。
事情を知っているアリシアからすれば、腹を立てるより呆れる方が先だった。ローゼンが婚約解消を口にした理由も知らず、断片的な噂だけで二人の関係を崩れかけていると決めつけている。何より、つい先ほどまで当のローゼンは、自分が嫌われているのではないかと心配していたのだ。
「そう。貴女にはそう見えるのね」
アリシアはそれだけ答えた。ここで事情を教えて誤解を解いてやる義理もなく、ローゼン本人の気持ちまで代わりに説明するつもりもない。少し離れた場所には、側近との話を終えたローゼンが戻ってくる姿が見えていた。
クラリッサは最後まで、自分の言葉がアリシアに効いたと思っているらしい。満足そうに微笑んで一歩下がる彼女を見ながら、アリシアは別のことを考えていた。崩れかけている婚約などと言われても、今のところ実感はない。それよりも、今日こそローゼンが笑うところを見てみたいという思いの方が、彼女の中ではずっと大きかった。
◇
交流会で必要な挨拶を終えた頃には、太陽が少し西へ傾き始めていた。二人は人の多い場所を離れ、庭園の奥へ続く遊歩道を歩いていた。背の高い生垣によって交流会の会場から隔てられた一角には、白や黄色の小さな花が咲き、中央を流れる細い水路から涼しげな水音が聞こえている。
アリシアはクラリッサとの会話について、ローゼンには何も話さなかった。本人から事情を聞いている以上、婚約解消について誤解する理由はない。クラリッサが勝手に勘違いしていることよりも、アリシアには朝から解決していない問題が残っていた。
結局、ローゼンはまだ一度も笑っていなかった。アリシアは茶会のために用意してきた話を順番に試してみた。兄が王都で道を間違え、目的の店とは正反対の場所まで行ってしまった話をすれば、ローゼンは最後まで聞いたうえで「君の兄らしいな」と感想を返した。王都で最近人気になっている菓子の話をすれば興味を示し、今度取り寄せようとも言った。それでも口元は少しも動かない。
父から聞いてきた領地の街道整備について話したときには、先ほどまでより会話が弾んだ。雪解けの時期に道が傷みやすい地域で新しい舗装方法を試していると話すと、ローゼンは具体的な費用や工期まで尋ねてきた。アリシアが知っている範囲で答えているうちに話題は王都周辺の街道へ移り、気づけば随分長い時間話していたのに、やはり笑顔だけは見られなかった。
「貴方、楽しいと思うことはないの?」
「なぜそうなるんだ」
ローゼンが足を止めたため、アリシアも遊歩道の途中で立ち止まった。傍らには小さな東屋があり、蔓薔薇が白い柱へ絡みついている。花をつける季節にはまだ少し早く、柔らかな若葉だけが午後の光を受けて揺れていた。
「だって、何を話しても全然笑わないでしょう。もしかしたら、そもそも楽しいという感覚がないのかと思って」
ローゼンは少し考えてから首を横に振った。王太子として幼い頃から人前で感情を表へ出しすぎないよう教えられ、元々表情が豊かな性格でもなかったため、それがいつの間にか身についてしまったらしい。本人にとっては普段通りに過ごしているつもりでも、周囲から見れば何を考えているのか分からない顔になってしまうという。
「楽しいと思うことはある。今日だってそうだ」
「今日?」
「君と会う日は楽しみにしている」
あまりにも自然に言われたため、アリシアはすぐに返事ができなかった。目の前にいるローゼンは相変わらず平然としている。こんな顔で半年間、自分との茶会を楽しみにしていたのかと思うと、これまで彼の表情だけを見て気持ちまで判断しようとしていたことが急に馬鹿らしくなった。
同時に胸の奥が少しだけ温かくなった。アリシア自身も、いつからか王宮へ来る日を楽しみにするようになっていた。最初は緊張して仕方がなかった茶会も、今ではローゼンが何を話すのか楽しみになり、珍しい出来事があれば次に会ったとき話そうと思う。今日だって笑わせるためという理由をつけながら、何日も前から彼と話す内容を考えていた。
それなら、なおさら笑っているところを見たくなる。日が傾くにつれ、遊歩道へ落ちる二人の影も長くなっていた。交流会へ戻る時間も近づいており、今日中に笑顔を見る機会は残り少ない。アリシアはローゼンの正面に立ち、改めてその顔を見上げた。
「そんなに僕が笑うところを見たいのか」
「見たいわ」
迷う理由もなく即答すると、ローゼンは少し不思議そうにアリシアを見た。最初は珍しいものを見てみたいという好奇心だったはずなのに、今ではローゼン自身が楽しいと言ってくれた時間を、その表情にも浮かべてほしいと思っている。
アリシアはその場で考え込んだ。用意してきた話はほとんど使い果たし、好物を食べても笑わず、楽しい話をしても笑わず、本人から今日が楽しいという言葉まで引き出したのに、それでも表情は変わらない。もう何をすればいいのか分からなかった。
しばらくローゼンの顔を見つめているうちに、アリシアの中で妙な考えが浮かんだ。思いついたというより、手段が尽きた末に頭へ転がり込んできたと言った方が近い。まともに考えれば実行する理由などないのに、今日一日をかけても笑わせられなかった悔しさが、アリシアから冷静さを奪っていた。
アリシアは一歩、ローゼンへ近づいた。身長差があるため少し背伸びをし、何をするつもりなのか分からずこちらを見ているローゼンの頬へ、そのまま唇を触れさせた。
時間にすれば、ほんの一瞬だった。
離れたあと、二人とも動かなかった。
ローゼンは目を見開いたまま固まっている。笑うどころか、先ほどまで何をしても変わらなかった顔が明らかに動揺し、耳まで赤く染まり始めていた。そこでようやくアリシアも自分が何をしたのか理解し、急激に頬が熱くなるのを感じた。
笑わせたいからといって、なぜ婚約者へ口づけるという結論になったのか。しかも結果は大失敗である。ローゼンは笑っていないどころか、これまで見たことがないほど困惑していた。王太子の婚約者として身につけてきた礼儀も、公爵令嬢として教わってきた慎みも、今の行動には何ひとつ生かされていない。
「……ごめん。今のは忘れて」
恥ずかしさに耐えられなくなったアリシアは顔を背けた。何日も前から面白い話を用意し、菓子の話まで調べ、最後にはやけになって頬へ口づけた。それでも笑わせられなかったのだから、自分でも何を必死になっているのか分からなくなってくる。
恥ずかしさと馬鹿馬鹿しさが一緒に込み上げ、アリシアはとうとう堪えきれなくなった。最初は小さく、それから自分の行動を思い返すほど止まらなくなり、ローゼンを笑わせようとしていたはずなのに結局笑っているのは自分の方だと思うと、余計におかしくなった。
そのとき、正面から聞き慣れない笑い声が重なった。
アリシアは顔を上げた。
ローゼンが笑っていたのだ。
声を上げて大笑いしているわけではなく、普段は固く結ばれている口元が柔らかく緩み、青い瞳にも穏やかな光が浮かんでいる。いつも同じように見えていた整った顔から険しさが消えると、年齢より大人びて見えていた印象まで変わった。
ずっと見たかったはずなのに、いざ目の前にするとアリシアは何も言えなかった。思っていたより、ずっと優しい顔で笑う人だった。
ローゼンの笑みが少し落ち着いたところで、彼はアリシアを見た。先ほどの動揺が完全に消えたわけではないらしく、耳にはまだ赤みが残っている。
「……僕を笑わせるためなら、誰にでもあんなことをするのか?」
「するわけないでしょう。貴方だからしたのよ」
アリシアは考えるより先に答えていた。知らない男性どころか、親しい相手にだって同じことをする気はない。今日こんな行動に出たのは、半年間向かい合ってきた相手がローゼンだったからだった。
◇
数日後、王宮では春の夜会が開かれた。高い天井から幾つものシャンデリアが吊るされた大広間には、王都だけでなく地方から訪れた貴族たちも集まり、磨き上げられた床へ無数の灯りが映り込んでいる。楽団の演奏に合わせて中央では何組もの男女が踊り、壁際には歓談を楽しむ者たちの輪がいくつもできていた。
アリシアはローゼンの隣に立ち、訪れる者たちから挨拶を受けていた。数日前の出来事以来、二人の間には以前とは少し違う空気が流れている。ローゼンが急に饒舌になったわけでも、誰に対しても笑うようになったわけでもない。それでもアリシアと話しているときには以前より表情が柔らかくなり、アリシア自身も彼の小さな変化へ気づけるようになっていた。
そんな二人を、広間の向こうから見つめている人物がいた。クラリッサは何人かの令嬢たちに囲まれながら、こちらへ何度も視線を向けている。数日前に庭園で「崩れかけた婚約」とまで言った彼女が、その後どんな話を周囲へしたのかは、近くにいる令嬢たちの視線を見れば想像できた。
やがてクラリッサは令嬢たちを連れたまま二人の前までやって来た。アリシアへ向けられた微笑みには以前と同じ優越感が残っており、ローゼンが隣にいることさえ、彼女の中では婚約がまだ正式に解消されていないからだと解釈しているらしい。
「アリシア様。まだ崩れかけた婚約に縋っていらっしゃるのですか?」
近くにいた貴族たちの会話が途切れた。王太子の婚約者に向かって人前で口にするには、あまりにも露骨な言葉だった。アリシアは怒るより先に、そこまで自信を持てるクラリッサに感心してしまいそうになる。
「クラリッサ嬢」
ローゼンが彼女の名を呼んだことで、クラリッサの表情が明るくなった。自分の言葉を肯定してもらえるとでも思ったのか、彼女はローゼンへ身体を向ける。
「殿下。わたくしはアリシア様のためにも、これ以上期待を持たせるべきではないと思っておりますの。殿下が陛下へ婚約についてご相談なさろうとしていたことは存じております。それに半年もの間、殿下はアリシア様に一度も笑いかけていらっしゃらないのでしょう?」
周囲で成り行きを見守っていた者たちから、小さなどよめきが起きた。ローゼンが婚約について国王へ相談しようとしていたという部分だけなら本当であり、そこへ彼がアリシアに笑いかけないという話を重ねれば、事情を知らない者には婚約が上手くいっていないようにも聞こえる。
ローゼンはしばらくクラリッサを見ていた。その横顔を見たアリシアには、彼が何を考えているのか以前より分かる。無表情だからといって何も感じていないわけではなく、今は明らかに不快に思っている。
「僕がアリシアとの婚約を望んでいないと、誰から聞いた?」
「それは……直接そう伺ったわけではありませんけれど、殿下が婚約解消についてお考えになっていたことは事実なのでしょう?」
クラリッサの勢いが僅かに弱まった。ローゼンが否定するとは思っていなかったらしく、それでも自分の考えを支える材料を探すように言葉を続けている。
「婚約を解消しようと考えたことはある。アリシアが僕を嫌っていると思ったからだ。彼女が望むなら僕から身を引くつもりだった。本人から違うと聞いた以上、僕が婚約を解消する理由はない」
広間に落ちた静けさの中で、クラリッサの顔から少しずつ余裕が消えていった。数日前、アリシアが事情を説明しなかったことを、自分に都合よく受け取った結果が今になって返ってきたのだろう。
「ですが、殿下は一度もアリシア様に笑いかけたことがないのでしょう? 婚約者といながら一度も笑わないなんて、やはりお心が――」
そこまで言われたところで、アリシアは数日前の庭園を思い出した。そのせいでアリシアは少しだけ顔を赤くした。
隣にいるローゼンが、その変化に気づいたらしい。
二人の視線が合う。
数日前と同じことを思い出したのだと分かったのか、ローゼンの口元が自然に緩んだ。
広間が静まり返った。
クラリッサだけではない。近くにいた令嬢たちも夫人たちも、これまで「笑わない王太子」と呼ばれてきたローゼンの顔を見ている。本人は周囲から注目されていることなど気に留めていないらしく、少し恥ずかしそうにしているアリシアへ柔らかな笑みを向けたままだった。
やがてローゼンはクラリッサへ向き直った。先ほどまで浮かべていた笑みは消えたものの、アリシアの前で一度見せたものをなかったことにはできない。
「誰が、僕はアリシアに笑いかけないと言った?」
クラリッサは何も答えられなかった。
彼女が根拠としていたものが、目の前で崩れていた。ローゼンが笑わないから愛されていない。婚約解消について話しているからアリシアを捨てようとしている。そのどちらも、クラリッサが自分に都合よく繋ぎ合わせたものだった。
「それから、僕たちの婚約を崩れかけていると周囲に話しているそうだな」
ローゼンの言葉に、クラリッサの顔色が変わった。近くにいた令嬢の何人かが気まずそうに視線を逸らしたことで、誰に話していたのかまで分かってしまったらしい。
「王太子の婚約は、僕とアリシアだけの問題ではない。王家とレインフォート公爵家の関係にも関わる。それを自分の推測だけで崩れかけていると広める意味を、侯爵令嬢である君が理解していないとは思いたくない。それにアリシアは僕に……」
「待って待って!それは無しよ。まだ言わないで!!」
何を続けようとしているのか察した瞬間、アリシアは慌ててローゼンの言葉を遮った。数日前、どうしても彼を笑わせたくて、最後にはやけになって頬へ口づけたことなど、これだけ大勢の貴族が集まっている場所で知られるのは勘弁して欲しかった。思い出しただけでも顔が熱くなる出来事を本人の口から披露されようものなら、しばらく夜会へ出られなくなるのはクラリッサではなく自分の方である。
突然大きな声を出したアリシアへ、周囲の視線が一斉に集まった。アリシアはそこで自分が余計に注目を集めてしまったことに気づいたものの、もう遅い。ローゼンは口を閉じてこちらを見ており、その表情には先ほどクラリッサへ向けていた冷たさが欠片も残っていなかった。
「言ってはいけないのか?嬉しかったのだぞ?」
「嬉しかったのは良かったけど……言ってはダメよ!」
「婚約状況について説明するには、分かりやすいと思ったんだが」
「もう!いいから!絶対に言ったらダメ!」
アリシアが小さな声で訴えるほど、ローゼンの口元が僅かに緩んでいく。その変化を目の前で見てしまったクラリッサは、何を言われかけたのかまでは分からなくとも、二人の間に自分の知らない出来事があることだけは理解したらしい。先ほどまで婚約解消を確信していた顔から余裕が失われ、扇を握る指にも力が入っていた。
周囲にいた貴族たちも同じだった。王太子が何を言いかけたのかと興味を向ける者はいたものの、それ以上に目を引いたのは、ローゼンがアリシアの反応を見て楽しそうにしていることだった。笑わないことで有名な王太子が、婚約者に言葉を止められて怒るどころか、その様子を面白がっている。
「殿下……?」
クラリッサが戸惑ったようにローゼンを呼んだ。
ローゼンはようやくアリシアから視線を外した。先ほどまで浮かんでいた柔らかな表情は薄れ、クラリッサへ向ける顔は普段の落ち着いたものへ戻っている。
「本人から許可が出なかったから、これ以上は言わない。だが、僕たちの関係を君に心配してもらう必要がないことくらいは分かっただろう」
クラリッサは返す言葉を失った。崩れかけた婚約に縋っているのだと笑った相手は、王太子本人の言葉を慌てて止められるほど近い場所にいる。しかもローゼンはそれを咎めるどころか、アリシアの意思を当然のように尊重している。
何よりクラリッサが根拠としていた「笑わない」という話は、もう使えなかった。先ほどローゼンがアリシアへ笑いかけるところを、この場にいる全員が見ている。今もアリシアへ視線を戻したローゼンの口元には僅かな笑みが残っており、それは他の誰へ向けているものとも違っていた。
「今後、根拠のない話を僕やアリシアの名前を使って広めることはやめてもらいたい。今日のことについては、ベルモント侯爵にも王家から話をする」
その言葉で、クラリッサの顔色が変わった。個人的な嫌味で済むと思っていたのかもしれないが、王太子と公爵令嬢の婚約について事実ではない話を広めた以上、何もなかったことにはできない。周囲には彼女から同じ話を聞いていた令嬢たちまでいるため、今さら自分は言っていないと逃れることも難しかった。
クラリッサは唇を引き結び、深く頭を下げた。先ほどまでアリシアへ向けていた優越感はすっかり消えている。そのまま周囲から集まる視線に耐えきれなくなったように広間の端へ下がっていく姿を、アリシアは追いかけなかったのだった。
◇
後日、ベルモント侯爵家には王家から正式な注意が入ることになった。クラリッサ自身も一定期間、王宮で開かれる催しへの参加を認められなくなり、彼女が周囲へ語っていた婚約解消の話も本人の思い込みだったことが広く知られるようになった。
何より彼女にとって堪えたのは、自分こそローゼンを理解していると思っていたにもかかわらず、彼がアリシアへ向ける笑顔を一度も見たことがなかったことなのかもしれない。
◇
ある日の事、あの事件から大分経った後の事であった。
王宮ではその夜、国外から訪れた使節を歓迎するための夜会が開かれていた。大広間では楽団の演奏が続き、着飾った貴族たちが談笑しながら行き交っている。アリシアもローゼンの婚約者として何人もの客へ挨拶をしていたが、二時間も経つ頃にはさすがに疲れを感じ始め、休憩を兼ねて大広間に面したバルコニーへ出ることにした。
外へ出ると、夜の冷たい空気が火照った頬に触れた。欄干の向こうには王都の灯りが広がり、背後から聞こえてくる音楽も分厚い扉を隔てたことで随分と遠く感じられる。アリシアが欄干へ手を置いて息をついていると、少し遅れて扉が開き、夜会で別の貴族と話していたはずのローゼンが姿を見せた。
「貴方まで来てしまって大丈夫なの?」
「少しくらいなら問題ない。それに、君がいなくなったから探しに来た」
以前のローゼンなら、そんなことを何でもないように口にすることはなかっただろう。あの一件から時間が経つにつれ、彼は少しずつ自分の気持ちを言葉にするようになっていた。相変わらず人前では表情が乏しく、社交界では未だに笑わない王太子と呼ばれているものの、アリシアの前では以前より遥かによく笑う。
ローゼンはアリシアの隣まで来ると、欄干の向こうへ広がる王都へ視線を向けた。二人きりで過ごすことにもすっかり慣れ、会話が途切れても以前のような気まずさはない。アリシアも彼の隣に立ったまま夜風を受け、しばらく遠くから聞こえる音楽へ耳を傾けていた。
「そういえば、最近は本当によく笑うようになったわね」
「そうか?」
「少なくとも私の前ではね。最初の頃なんて、何をしても全然笑ってくれなかったもの。あのときは随分苦労したのよ」
あの日のことを思い出しながらアリシアが笑うと、ローゼンはこちらへ顔を向けた。面白い話をいくつも用意し、好物まで持ち出して、それでも駄目だった末に、やけになって彼の頬へ口づけた。今となっては懐かしく思えるものの、あの行動だけは思い返すたびに恥ずかしくなる。
「最後には、君から口づけまでされたな」
「……それは忘れていいのよ」
「そうか?嬉しかったのに何故だ?」
「そんなの恥ずかしいからに決まっているでしょう。あのときはどうしても貴方を笑わせたくて、私も少しおかしくなっていたの」
アリシアは誤魔化すように王都へ視線を戻した。もう随分前のことなのに、話題にされれば当時の感触まで思い出してしまう。頬へ触れただけの短い口づけだったとはいえ、自分から男性にしたのは当然ながら初めてだった。
隣にいたローゼンが一歩近づいたことに気づき、アリシアは再び彼を見た。思っていた以上に距離が近くなっており、あと少し動けば身体が触れそうなほどだった。
「なら、やり直そうか」
意味を理解するより早く、ローゼンの手がアリシアの頬へ添えられた。逃げる必要などないはずなのに、急に近づいてきた顔を見て身体が固まる。ローゼンはそんなアリシアを見つめたまま僅かに顔を傾け、ゆっくりと距離を縮めた。
唇に、柔らかな感触が触れた。
ほんの短い口づけだった。
それでもアリシアにとっては、以前自分が勢いだけでローゼンの頬へしたものとは全く違った。唇が離れてからも何が起きたのか理解するまで少し時間がかかり、目の前にいるローゼンを見上げたまま動けなくなる。
「……どうして」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。ローゼンはアリシアの頬から手を離さず、珍しく少し困ったように目を細めた。
「君だけがしたままなのは、不公平だと思っていた」
「だからって、普通は頬でしょう?」
「同じ場所では面白くないと思って」
そんな理由で唇へ口づけられたのかと思えば文句のひとつも言いたくなるのに、アリシアの頬は熱くなるばかりだった。何か言い返そうとしても上手く言葉が出てこず、結局ローゼンの胸元を軽く押すくらいしかできない。
その反応を見たローゼンが笑った。
以前はどれだけ頑張っても見ることのできなかった笑顔が、今ではアリシアのすぐ目の前にある。その原因が自分であることにも、もう疑う余地はなかった。
「……ずるいわ」
「何が?」
「私ばかり恥ずかしがっているもの。これはこれで不公平よ」
アリシアが不満そうに見上げると、ローゼンは一瞬考えるように黙った。それから僅かに身を屈め、今度は先ほどより近い場所でアリシアを見る。
「僕もかなり緊張していたよ」
「全然そう見えないわ。貴方は笑わない風に見えるし、緊張してないようにも見えるのよ」
「アリシア。僕を笑わせるのは良いが、恥ずかしめようとするのは辞めて欲しい。せめてやるなら家でだ」
アリシアは一瞬、何を言われたのか分からずローゼンを見つめた。恥ずかしめるつもりなど最初からないうえに、家でなら構わないという条件まで付けられている。随分前には何を考えているのか分からない人だと思っていたのに、最近ではむしろ、真面目な顔で時々妙なことを言う人なのではないかと思い始めていた。
「家なら恥ずかしめてもいいの?」
「二人きりなら、まだ耐えられる」
「そこは嫌だと言うところでしょう」
思わず笑ってしまったアリシアにつられるように、ローゼンの口元も緩んだ。その顔を見ていると、初めて笑わせようと必死になっていた頃が随分昔のことのように思えてくる。あれほど見ることが難しかった笑顔なのに、今ではアリシアが笑えば、ローゼンまで当たり前のように笑うようになっていた。
「やっぱり、貴方は笑っている方がいいわ。笑顔の男は良い男よ」
そういい、アリシアはまた笑った。ローゼンもそんな彼女を見て笑い、夜会の灯りが漏れるバルコニーで二人の笑い声が重なるのだった。




