吉田のドッペルゲンガー :約3000文字
おれは深く息を吸い込み、長いため息を吐き出した。肺の奥にかすかに残っていた煙草の煙まで一緒に押し出され、白い筋となって揺らめきながら空気に溶けていった。
まさか、あいつが死ぬとはな――。
おれは頭上を見上げ、目を細めた。空は厚い雲に一面覆われ、鉛を薄く引き伸ばしたような濁った色をしている。それでも雨は降らないらしく、午後の日差しが雲に鈍く滲み、しばらく見上げていると目にじんと沁みた。
おれは視線を落とした。
足元には白い砂利が一面に敷き詰められていた。粒は大きめで、石と石の隙間にビニールの切れ端や枯れ葉が挟まっていた。おれは靴先で何とはなしに小石を転がし、もう一度深いため息をついた。
高校時代の友人――吉田。事故とはいえ、二十代で死ぬなんてあまりにも早すぎる。
ついさっき顔を合わせた吉田の両親の姿が脳裏に浮かんだ。あの憔悴しきった様子。母親は血の気を失った青白い顔で、目元だけは擦れたように赤く、伏し目がちに参列者に頭を下げ続けていた。
父親は笑顔を見せていたが、それが無理に作ったものだということは明らかだった。二人とも参列者に挨拶を返すたびに、ふっと力が抜けたように俯いていた。
居たたまれなくなったおれは、逃げるように葬儀場の外の喫煙所までやって来たのだった。
いっそこのまま帰ってしまおうか。そんな考えがふと頭をよぎったが、さすがにそういうわけにもいかない。社会人としてどうこう以前に、友人の葬式だ。
戻るなら早いほうがいい。式が始まってから戻れば、別の意味で居心地が悪くなる――。
「……うおっ!」
おれは思わず声を上げ、後ずさりした。靴の裏で砂利が鳴り、踵がわずかにもつれた。
これは……現実だよな……。
おれは何度も瞬きを繰り返し、目を凝らした。
信じられない。顔を上げた瞬間、目の前に一人の男が立っていた。それは――死んだはずの吉田だった。
「幻覚……か?」
おれは視線を落とし、指の間に挟んだ煙草に目をやった。
火種の先から細い煙がかすかに立ち昇り、風に揺られて形を崩していた。いつも吸っている銘柄だ。昨日だって同じものを吸っていた。変な薬が混じっているはずがない。じゃあ何だ。ストレスか。おれは吉田の死にそこまで参っていたというのか。
そんなことを考えながら、おれはおそるおそるもう一度顔を上げた。
吉田はまだそこにいた。
ぼんやりと立ち尽くしたまま、おれをじっと見つめている。そして、やつはゆっくりと首を横に振った。
「幻覚じゃない……ってことか。じゃあ生きていたのか?」
口にしたが、自分でも違うと分かっていた。ああ、葬儀場にいる全員がおれを騙しているなどありえない。
それに、目の前の吉田はどこか存在そのものが薄く見えた。確かにそこに立っているはずなのに、まるで映像を見ているかのようで、生きた人間特有の重みや気配を感じられない。いつふっと丸ごと消えても不思議ではないような感覚があった。
そして何より――吉田が着ているのは死装束だった。
「幽霊……だな」
おれは小さく呟いた。これ以外にない。むしろ納得だ。何か未練があって成仏できないとか、そういう話なのだろう。……いや、単純に火葬前だからか。最後の別れを言いに来たのだ。
だが、おれでいいのか。もっと他に親しいやつがいただろう。確かに高校時代は仲が良かったほうだが、卒業してからは年に一回会うか会わないかといった程度だった。大学やバイト先にはおれより付き合いの深かった友人がいるはずだ。
それとも、おれ以外には見えていないのか。もし他の人間にも見えるなら、今すぐ親御さんを呼んできたほうが――。
「違う」
ふいに吉田が口を開いた。
「え、違う……?」
おれは思わず目を瞬かせ、ぽつりと訊ねた。
吉田は静かに頷いた。
「じゃあ……なんなんだ?」
「……俺は……ドッペルゲンガーだ」
わずかな沈黙が流れたあと、吉田は感情の起伏をほとんど感じさせない声で、そう答えた。
「ドッペルゲンガー……って、あの? 自分そっくりの化け物とか、魂が分離した状態だとか……それにたしか、会うと死ぬとかいう……あっ」
おれははっと息を呑んだ。
「じゃあ、まさかお前のせいで吉田は……!」
そうか。吉田はこいつに追われていたのだ。
街中で遭遇し、吉田は本能的に一歩後ずさった。するとドッペルゲンガーは一歩距離を詰めてきた。吉田がまた一歩下がると、相手はまた一歩前へ。吉田は後ずさりを続け、やがて踵を返して逃げ出した。だが相手は無表情で音もなく淡々と、けれど確実に追い込んできた。そして吉田は――逃げ惑った末に事故に遭った。
自分とまったく同じ姿の男が追いかけてくるのだ。その恐怖は計り知れない。
吉田の怯える姿が脳裏に鮮明に浮かび、おれはドッペルゲンガーを睨みつけた。
「違う」
「え?」
「俺と会う前に、勝手に死んだんだ」
「そ、そうか……」
「ああ……」
妙な沈黙が落ちた。おれは指先の煙草に視線を落とし、意味もなく持ち替えた。
「それで……どうしてここにいるんだ?」
おれは煙草を一口吸い込み、煙を吐き出してから尋ねた。
「成り代われるはずだったんだ……」
吉田のドッペルゲンガーは煙の向こうでわずかに目を伏せた。
「吉田と……? ああ、そういえばそんな話だったな」
ドッペルゲンガーは本人と入れ替わり、その人間の人生そのものを奪い取る。成り代わられたほうは消え、周囲は誰一人その事実に気づかない。そんな怪談めいた話を昔どこかで聞いた覚えがあった。
「でも吉田は……」
「ああ……。普通に事故で死んだらしいな」
吉田のドッペルゲンガーはそう言うと、力なく俯いた。
……いや、なんだかやり切れない気分だ。棺の中の吉田も今頃こんな顔をしているのだろうか。まさか本人と対面するより先に顔を見ることになるとは、なんとも奇妙な話だ。
だが不思議と嫌な気はしなかった。顔が同じだからだろうか、おれは自然とこいつに同情していた。
「俺ももうすぐ消える……わかるんだ……」
吉田のドッペルゲンガーは低く言った。声がかすかに震えており、その響きが先ほどの吉田の両親のものと重なり、鼻の奥がつんとした。あきらめたくはない、でも受け入れるしかない。そんな感情が滲んでいた。
「他の人にも見えるのか……?」
おれは尋ねた。
「そうだ。幽霊のふりをしてみんなの前に出ればいい。直接別れも言えるし、みんなだって嬉しいだろう」
おれはそう提案した。だが、吉田のドッペルゲンガーは俯いたまま小さく首を横に振った。
「たぶん、お前にしか見えていない」
「そうか……」
おれは短く答え、煙草を指先で軽く弾いた。灰が崩れ、細かな粒となって砂利の上に散った。
「じゃあ……おれに何かできることはあるか?」
そう尋ねると、吉田のドッペルゲンガーはゆっくり顔を上げた。
「何か……してくれるのか?」
「ああ」
おれは肩をすくめた。
「お前も吉田みたいなもんだしな。顔も似てるし」
冗談めかして言うと、吉田のドッペルゲンガーはわずかに口元を緩めた。その笑みは少しぎこちなかったが、本物の照れ笑いによく似ていた。
「消えるまでの間、どこか遊びに行くか。高校の頃みたいにさ。カラオケとかゲーセンとか」
結局、葬儀場を抜け出すことになるが、まあいいだろう。おれにとっても妙な形ではあるが供養になる気がした。
放課後に立ち寄ったゲームセンターやカラオケ。たまにちょっと足を延ばしてバッティングセンター、ボウリング。ファミレスやカレー屋で夕食――そんな高校時代の記憶が次々と蘇り、胸の奥に懐かしさがじんわりと広がっていった。
「ありがとう……やっぱりお前もいいやつだな」
吉田のドッペルゲンガーはそう言って、おれの両手を握った。
「ははは、大げさだな」
「だから俺も、お前のために何かしたいと思ったんだ」
「そんなのいいって――ん?」
ふいに肩を叩かれ、おれは振り返った。
そこには、おれとそっくりな男――おれのドッペルゲンガーが立っていた。




