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公式企画

仔狸の願い

作者: 夏月七葉

 木洩れ日がちらちらと差す様は涼やかで、汗ばむような気温を忘れてしまいそうだ。

 昼下がりの心地良い気持ちで、仔狸の秋陽(あきび)は木陰でうとうとと舟を漕いでいた。


 すると突然、耳を劈くような泣き声が辺りに響いた。その中でとても眠れたものではなく、秋陽は仕方なく声のする方へ向かった。


 人里から少し離れた山の中に、打ち捨てられた廃神社がある。朽ちかけた社の前、雨風に晒された石畳の上に小さな影が蹲っていた。

 それは幼い少女らしく、わんわんと声を上げて泣いている。


 こんなところで何をしているというのだろう。親はいないのだろうか。

 秋陽は周囲に気を配ってみたが、彼女の親どころか他の人間の気配もない。

 溜め息を吐いた秋陽は、少女と同じ頃の歳の少年に化けると、彼女の前に立った。


「こんなところで何をしてるんだ?」

「……?」


 少女は顔を上げ、涙に濡れた瞳をぱちくりとさせる。しかしすぐにまた俯くと、顔を擦りながら口を開いた。


「あ、あのね……あそんでたら、まよっちゃったの……」


 しゃくり上げながらそう言う少女に、秋陽は再び息を吐く。


「それじゃ、おれが村まで送ってやる」

「ほんとに……?」


 秋陽が手を差し出すと、少女は飛びつくようにそれを握った。


   *


 秋陽は人間が嫌いだった。

 人間は断りもなく山に分け入って、我が物顔で狩りをしたり木々を切り倒したりする。そこに棲む生き物のことなど、構いやしない。


 母からも、人間には気をつけるように口を酸っぱくして言われていた。

 そんな母も、数年前に人間の狩人に撃たれてしまった。人間は仇のようなものだ。好きになれるわけがない。


 あの少女を助けたのは、ただ五月蠅かったからだ。あのまま自分の塒の近くで泣き続けられたら、堪ったものではない。

 それに、大嫌いな人間と同じように誰かを見殺しにしたくはなかった。きっとあのままだったら、山の動物に食われるか、山を彷徨った挙句力尽きて死んでいただろう。

 だから助けたに過ぎない。


 村に送る道中、少女は自分の名を瑞穂(みずほ)といった。

 秋陽の手を握る力は弱々しく、ずっと不安そうな顔をしていた。見知らぬ人間についていくのは少々怖いが、頼る相手が秋陽しかいないから仕方なく、といったところだろうか。


 別れ際、瑞穂にはもう山には来るなと言った。だというのに――。


「あきび! あきび、いる?」


 かれこれ数分、廃神社の境内で秋陽を呼び続けている。あれから数日しか経っていないのに、もう秋陽の言ったことを忘れたのだろうか。

 秋陽は渋々、また少年の姿に化けると瑞穂の前に歩いていった。秋陽を見た途端、彼女はぱあっと笑顔を浮かべる。


「あ、よかった。いた」

「もうここへは来るなって言っただろ」

「うん。でも、またあきびにあいたかったから」


 その日から毎日、瑞穂は廃神社に通ってくるようになった。その度に秋陽を呼ぶので、仕方なく出ていく。

 そして、あれをやろうこれをやろうと瑞穂が遊びを勝手に始めて秋陽を巻き込むのだ。秋陽は明らかに顔に出して嫌々付き合うのだが、陽が暮れ始めると彼女は満足そうに帰っていく。


 そんな毎日の中、気になることがあった。

 基本、瑞穂は元気に声を上げて遊ぶのだが、その最中にふと瞳の奥に空虚な色を見せる時があるのだ。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの笑顔でその色を消し去るので、敢えて訊くようなことはしなかった。


 月日が経ち、時折風に冷気が混じるのを感じ始めた頃。秋陽は瑞穂の身体が徐々に痩せ細っていっていることに気がついた。

 以前までは数時間駆け回ってもさして疲れる様子はなかったのに、今は数分も走れば肩で息をしているのが見て取れる。

 人間の暮らし向きもそう楽ではないのだろう。他の動物達だって、それは同じだ。そう思って、秋陽はあまり気にも留めていなかった。


   *


 そんなある日、瑞穂がぴたりと廃神社に来なくなった。

 最初は静かで良いと思っていたが、五日経っても姿を現さないと気にならない方がおかしかった。


 母の言葉もあり、村にはあまり近づかないようにしているのだが、こっそり様子を見にいくことにした。

 決して、瑞穂を心配しているのではない。いつもあったことがなくなったから、落ち着かないだけだ。

 そう思いながら仔狸の姿のまま潜り込んだ村は、最初に瑞穂を送り届けた時に遠目に見た様子とそう変わらないように感じた。


 物陰に隠れつつ、ちらほらと外に出ている村人の会話を盗み聞く。

 そこから分かったことは、村全体が困窮しているということだった。今までも碌な生活はできていなかったのに、今年は輪をかけて畑や稲の実りが悪く、流行り病も蔓延しているという。


「それにしても瑞穂ちゃん、大丈夫かねぇ」


 知った名前を聞いて、秋陽はそっと壮年の女二人が立つ傍に向かった。薪が積み重なった山の陰に入り込む。


「あの家は、瑞穂ちゃんだけが流行り病に罹ったんでしょう」

「ええ、それにあそこの畑は一段と実りが悪かったからねぇ。栄養もそう摂れないんじゃないかい」

「元々が楽な暮らしじゃないからねぇ……まだ小さいから碌に仕事もできなくて、食い扶持ばっかり持っていくって夫婦が漏らしてたのを聞いたよ。これ幸いに、あの子を見殺しにするんじゃ――」

「滅多なことを言うもんじゃないよ。……しかし、どうにか助けてやりたいけどねぇ。あたし等も自分達のことで手一杯だからさ」


 秋陽は陰から飛び出した。

 彼女達が話していたのは、あくまでも想像だろう。しかし、近くで見ている者がそう思うのなら、真実もそう遠くないところにある可能性が高い。

 秋陽は村人の会話から瑞穂の家の場所を知り、そこへ行ってみることにした。


 その家は村の端に位置して、周囲のそれよりもおんぼろだった。

 今にも崩れ落ちそうな建物の中から男女の声がして、秋陽は隙間の空いた、もうただの木板にしか見えない壁に近づいた。


「そろそろ、くたばってもおかしくないんだがなぁ」

「意外としぶといねぇ。ずっと食事も摂っていないっていうのに」

「病に罹ってるんだ。近い内に押っ死ぬだろうよ」


 おそらく、中にいるのは瑞穂の両親だろう。彼女が病に罹ってから、食事も与えていないらしい。


 秋陽は地面を掻くように前脚を握り込んだ。

 本当に彼等は瑞穂の両親なのだろうか。瑞穂のことを娘と思ってはいないのだろうか。

 子どもにとって、頼れるのは周囲の大人だけだ。両親などその最たるもので、一番に心を通わせ、最も信頼する相手である。


 秋陽の母親は、自分自身より秋陽を大切にしてくれる狸だった。それこそ、自分を犠牲にしてでも我が子を守ってくれようとしていた。

 あの温かさは、何物にも代え難い。幾ら探しても、他には見つけられないものだ。

 だというのに、この両親からは冷たさしか感じない。真冬の雪より氷柱より冷たくて、固くて、何をしても溶けることがないように思える。


(――人間め)


 沸々と、胸の中が熱くなる。言い様のない感情が腹の底で蜷局を巻いているようだ。

 家の中に飛び込んでいって、あの二人を殴ってやりたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。大人の人間と仔狸の自分とでは、力の差があり過ぎる。ここで返り討ちにでもされたら、母親に面目が立たない。


 秋陽は爆発しそうな感情をどうにか押し込めて、家の隣に建つ小さな小屋に向かった。農具を仕舞う物置小屋らしいのだが、そこに瑞穂がいるとあの二人が言っていたのだ。


 戸すらない入り口から薄暗い中を覗くと、酷い有様だった。

 壁は大小隙間だらけで、崩れかけの屋根は穴から空がよく見える。


 農具が散乱した中央に薄い布団が敷かれ、そこに瑞穂が横たわっていた。

 時折布団が震え、咳の音が響く。


「……あれ……なんで、ここにいるの……?」


 虚ろな瞳に捉えられて、はっとする。秋陽は自分でも分からない内に、少年に化けて布団の脇に立っていた。


 瑞穂の顔は赤くて、黒目勝ちの瞳が涙に潤む。熱が高いのだろう。どこかぼんやりとしているのに、意識ははっきりと秋陽に向いていることが判った。

 布団から出た腕は力なく伏し、最後に見た時より細かった。


「…………大丈夫か?」


 明らかに〝大丈夫〟ではないだろう。そうと解っているのに、尋ねずにはいられなかった。

 すると何故か、瑞穂はふわりと笑った。


「うん、だいじょーぶ……げんきになったら、またいっしょに、あそぼーね……」


 今までにない、元気を欠いた声。それを聞いた瞬間、胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなった。

 その場にいるのが堪えられなくなった秋陽は、瑞穂の言葉に応えることなく小屋を飛び出した。


 外に出るなり仔狸に戻り、山に向かって走る。小さな影が物凄い勢いで駆けるのを村人達が悲鳴を上げて見ていたが、そんなものに構う余裕はなかった。


 今になって、ようやく分かる。

 最初に瑞穂に声をかけたのは、泣き声が五月蠅かったからではなかった。

 泣いていた姿が、昔の自分と重なったからだ。

 ――母親を失ったばかりの頃の自分に。


 あの頃は、寄る辺もなく、只管に不安で淋しくて、これからどうしたら良いのかも判らなくて、毎日泣きじゃくるしかできなかった。

 宙に浮いたように不安定で不確かなあの感覚は、今思い出しても酷く苦しくて辛い。


 瑞穂もまた、両親に頼ることは叶わず、寧ろ邪魔者扱いされていたのだ。辛くないわけがない。

 あの時は山で遊んでいて迷ったと言っていたが、それも真実ではないのだろう。

 両親に山へ捨てられたか、世を儚んで自ら死に場所を探しに山へ分け入ったか。

 しかし、何れにしても瑞穂は秋陽に連れられて素直に村へ帰った。

 あの時の彼女は、不安げに縋るような目で秋陽を見ていた。帰りたいのに帰りたくない――そんな気持ちがあったのだろう。


 その目を、秋陽は無意識に見ないようにしていた。見たくなかったのだ。あの頃の自分を見ている気持ちになって、手を差し伸べてしまいそうだったから。

 瑞穂が山に通うようになってからもそうしていたのに、いつの間にか情が移ってしまったらしい。


 秋陽は山に戻ると、そのまま駆けずり回って木の実や茸を集めた。いつも自分が食べるのに採っていて群生地も知っているので、大した時間をかけずにある程度を集めることができた。

 そして村に取って返し、少しずつそれを瑞穂に食べさせた。数日かけてそれを繰り返すと、瑞穂の顔色が徐々に良くなっていった。


 どうやら、床に臥してから食べ物は口にしていなかったが、水だけは屋根の穴から落ちてくる雨水で凌いでいたらしい。

 秋陽がここに来る数日前に雨が降ったのが幸いしたようだ。それがなかったら、今頃どうなっていたか分からない。


 しかしながら、こうして食べ物は持ってきてやれるが、病を治す薬は手に入れることができない。

 良くなったとはいえ、熱と咳はあまり落ち着く様子がなかった。きっとこれ以上は、人間の薬がなければ快復は難しい。


 それより先はどうすることもできなくなって、秋陽は廃神社の社に毎日手を合わせるようになった。

 神なんてこれまで意識したこともないし、こんな打ち捨てられた社に神が宿っているとも思えないが、そうする以外にできることがもう見つからなかった。


(どうか――どうか、あの子を救ってください。おれができることなら、何でもします)


   *


 それから、数週間。

 すっかり快復した瑞穂は、廃神社へと赴いていた。


「あきび! あきび、いないの?」


 大きな声で、繰り返し呼ぶ。しかし、喉が嗄れるまで呼び続けても、一向にその姿は出てこなかった。


 瑞穂が諦めて山を下っていく後ろ姿を、秋陽は草叢から見ていた。完全に見えなくなるまで、ただじっと見つめていた。


 瑞穂が快復したと同時に、秋陽は人に化けることができなくなった。化ける時の感覚はしっかりと覚えていて、記憶をなぞるように身体に力を入れるが、何度やっても仔狸のまま姿が変わらなかった。

 もしかしたら、秋陽の人に化ける能力と引き換えに、神が瑞穂の病を治してくれたのかもしれない。神なぞ信じる以前に意識すらしていなかったのに、そんな風に思った。


 秋陽が瑞穂の前に現れる時は、必ず人の姿をしていた。仔狸のまま出ていっても瑞穂は分からないだろうし、怖がらせるかもしれない。

 だからもう、瑞穂に顔を合わせることはできないのだ。


 殺風景な廃神社の境内。

 色褪せた鳥居越しに、夜空の満月を見上げた。


(ああ――こんなにも、情を感じていたのか)


 ほろりと雫が頬を伝う。それは眩しい月光のせいだと自分に言い聞かせて、流れるままに任せることにした。


   *


 早朝。店の掃除を終えた瑞穂は、ふうと息を吐いた。

 整頓された広い店内は静けさに満ちているが、後数刻もして開店すると様々な客で賑やかになる。

 江戸の大通りに面する大店だ。瑞穂は現在、ここで働いていた。この店に来て、もう五年になる。


 五年前、瑞穂は両親に女衒に売られた。本来ならそのまま遊郭に売り払われるのだが、目的地に着く前に自力で逃げ出した。

 しかしそうしたところで行く当てもなく、途方に暮れていたところを、ここの主人に拾われたのだ。そして、奉公人と共に働くことを条件に店に置いてもらえることになった。


 両親が自分を愛していないことは、物心ついた時から解っていた。

 だから、売られたことに対して然程動揺も衝撃も受けていない。もうあの村に戻る気も毛頭ない。


 ただ一つだけ、気懸りはあった。

 村を離れる数ヶ月前、一人の少年と出会った。

 彼は不思議な人で、毎日会いにいく瑞穂を嫌そうにしながらも、遊びに付き合ってくれていた。

 けれど、瑞穂が流行り病に罹った後、彼はもう姿を現さなくなってしまった。


 病で苦しむ実の娘を両親は捨て置いたのに、彼は助けてくれた。

 熱で朦朧としていたからはっきりとは覚えていないのだが、温かな気配がずっと傍にいてくれた感覚があったのだ。


 願わくば、今一度彼と会って礼を言いたい。その気持ちだけは、胸の奥底にずっと灯っている。

 しかし正直なところ、彼の顔もよく覚えていないのだ。それに覚えていたとしても、瑞穂一人の力ではきっと探し出すのは難しい。


 ぼんやりと昔の記憶に浸っていると、通りに面した戸が叩かれた。

 まだ開店には随分と早いので無視していたが、矢鱈しつこく叩いてくる。


 文句の一つでも言ってやろうと勢いよく戸を開けた瑞穂は、そこに立っていた人物を見上げて言葉を失った。


 彼の顔は覚えていない。

 けれど、すぐに判った。


 目尻に涙を浮かべ、瑞穂は微笑む。


「――また、会えた」

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