第1章 月明かりの誓い
――わたくしが、この世界で生きていこうと決めたのは。
あの人が、剣を抜いてわたくしを守ってくださった、あの夜のことでございますの。
目を覚ましたとき、わたくしは侯爵家の令嬢になっておりました。
光あふれる天蓋付きのベッド、肌に優しいシーツ、窓から差し込む春の陽射し――
でもそこには、前の世界のものは何ひとつなくて。
事故だったはずですわ。……わたくし、きっと死んだのでしょうね。
なのにどうして、こんな物語のような世界に転生してしまったのか――
誰に話すこともできず、ただ「レティシア・エルノア・ルクレティア」として、
貴族として、娘として、微笑む日々が始まりました。
舞踏会、刺繍、ピアノ、詩の朗読、社交界の規範。
“淑女たるもの”と教えられたことを、すべて覚え、こなすだけの毎日。
……そんなわたくしの前に、現れたのが彼――
騎士団きっての剣士、カイル・グランベル。
無口で不器用、そして真面目。
けれど、どんなときもわたくしを守る剣を持ち、誰よりも正しくあろうとする彼の姿に、
気づけば、胸が熱くなるのを止められなくなっていましたの。
“お嬢様”としてのレティシアではなく、
“ただの女”としてのわたくしの心を、たった一人で目覚めさせた人。
……あれから、幾度も夢を見ますの。
彼の手が、わたくしを引き寄せて、
唇が、そっと名前を呼ぶ――そんな夢を。
けれどそれは、決して許されないこと。
騎士と姫は、身分が違うのですもの。
だから、せめて。
この想いが報われることなどなくとも。
わたくしは願うのです。
――この月夜に、ただ一言だけでも。
「貴女を愛している」と、彼の声で、聞かせてほしいと。
───
第1章 月夜の再会
――夜の帳が王都ルクセリアを包み込む頃、わたくしはそっと宮殿の庭園へと忍び出ましたの。
誰にも邪魔されない、あの月明かりの下で、心の内を整理したくて。
「また、こんなところでお会いするとは」
背後から聞こえた低い声に、わたくしは振り返りました。
銀の甲冑を纏った彼――カイル・グランベルがそこに立っていました。
「お忍びがお好きなようですね、レティシア様」
照れ隠しのように軽く笑いながらも、その瞳は真剣そのもの。
わたくしはわずかに微笑んで答えました。
「月がとても綺麗でしたの。どうしても、傍で眺めたくて」
カイルは少しだけ目を細めて、言いました。
「ならば、これからは私がいつでもお付き合いいたしましょう」
その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなりました。
わたくしの心の中にひっそりと芽生えた想いを、彼は知っているのかもしれません。
でもまだ、それを口にする勇気はないようで――。
「レティシア様、ご存じの通り、私は騎士としての務めを全うせねばなりません。けれど――」
カイルは一瞬言葉を詰まらせて、そっとわたくしの手を握りました。
「あなたを守ることだけは、誓います」
その強いまなざしに、わたくしはそっと微笑み返しました。
「ありがとう、カイル。わたくしも貴方を信じておりますわ」
月明かりの下、ふたりの影が静かに重なり合い――
わたくしの心は、確かな温もりで満たされたのでございます。
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「……レティシア様」
カイルの手が、わたくしの指先をぎゅっと握り直す。
その声は、いつもより少しだけ震えていました。
「カイル?」
わたくしは驚いて、彼の顔を見つめる。
騎士である彼が、こんなに感情を表すことは滅多になく、わたくしの胸は少し高鳴りました。
「言いたいことが、たくさんあるのです」
彼の瞳は真剣そのもので、月明かりがその深さを映し出していました。
「けれど、身分の差が……」
言葉を詰まらせる彼に、わたくしは静かに微笑みました。
「わかっておりますわ、カイル。身分など関係ありません。わたくしは、あなたの心を信じたいのです」
そう言うと、彼の手を強く握り返し、そっと目を閉じました。
「だったら、伝えます」
彼は息を呑み、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めました。
「レティシア、君を守るためなら、命など惜しくはない。誰にも渡したくないのだ」
その言葉に、わたくしの頬が熱く染まりました。
「わたくしも、あなたを……」
そう言いかけて、胸がきゅんと締めつけられました。
そう、これが恋なのですわね。
静かな庭園に、ふたりだけの時間が流れていきました。
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カイルはしばらく黙ったまま、遠くを見つめるように目を細めました。
わたくしはそっと彼の肩に手を置き、そっと呼びかけます。
「どうかしましたか?」
彼は小さく息をつき、胸の内を打ち明けてくれました。
「私は、騎士団の中でも家柄が良いわけではない。
だからこそ、君のような侯爵令嬢を守ることが、どれほど自分にとって大きな試練か分かっている」
カイルの言葉は重く、でも誠実そのものでした。
「時には、身分の差に引け目を感じてしまうこともある。
それが、私の弱さであり、葛藤です」
わたくしは彼の手を握り返し、優しく笑いました。
「身分など、ただの紙切れですわ。大切なのは、心の中の誠意と愛情」
「そう言っていただけると、救われます」
カイルの瞳に、少しだけ安堵の色が浮かびました。
「わたくしは、あなたのことを信じていますわ」
そう告げると、彼はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにわたくしを見つめました。
「ありがとう、レティシア。君がそう言ってくれるだけで、私はどんな困難にも立ち向かえる気がする」
その瞬間、わたくしの胸は激しく鼓動し、思わず顔が熱くなりました。
「……これからも、どうか傍にいてくださいませ」
わたくしの願いは、月の光に乗って、彼に届いたことでしょう。
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カイルはゆっくりとわたくしの手を取り、柔らかな月光の下で見つめ返してくれました。
その瞳には決意と優しさが溢れていて、まるでわたくしだけを見ているようでしたの。
「レティシア、君に誓おう。どんな困難があっても、必ず君を守り抜くと」
彼の声は低く、確かな響きを持っていました。
その言葉に、わたくしは心からの感謝と愛しさを込めて微笑み返しました。
「ありがとうございます、カイル。わたくしも、あなたの傍にいることを誓いますわ」
そっと視線を合わせると、自然とふたりの距離は縮まっていきました。
冷たい夜風も、まるで祝福するかのように優しく包み込んでくれて。
彼の頬に触れたわたくしの手が、ほんの少し震えたことに気づきましたの。
「……カイル、どうか、このまま時が止まってほしいと願っても、許してくださいます?」
わたくしの甘い囁きに、彼は少しだけ照れたように笑いました。
「もちろんだ、レティシア。君の願いは、僕の願いでもある」
そう言うと、彼はそっとわたくしの額に触れ、優しいキスを落としました。
わたくしの心は高鳴り、全身が暖かい幸福に包まれました。
それは、きっとこれから続くふたりの未来への、最初の約束。
「騎士さま、どうか月夜に誓って――わたくしだけを、お守りくださいませ」
わたくしの言葉に、彼は力強く頷き返しました。
夜空の月は、ふたりの誓いを静かに照らし続けていました。
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