水底の約束 - Azure Promise -
水底の約束 - Azure Promise -
海辺の町に住む高校生、ユウは、どこか満たされない日常を送っていた。日中は海の家の手伝いをしたり、ライフガードとして観光客の安全を見守ったりするが、彼の世界は、波の音も、空の青も、すべてが同じ色に見える、そんな退屈な毎日だった。**昼は波と戯れ、サーフィンのボードを抱えて海を駆ける。夜になれば、自室でアコースティックギターを爪弾き、漠然とした寂しさを音に変えていた。**しかし、ある夏の午後、いつものように波と戯れ、サーフィンを終えて帰路につこうとしたその時、ありふれた景色が、微かに、しかし確かにその輝きを変えた。波の音が、いつもよりずっと深く、遠い場所から響いてくるように感じたのだ。ふと、目を凝らした先に、陽炎のように揺らめく青い光を見た。光の中に、少女がいた。
吸い込まれそうな深い青の瞳、月光を宿したような白い肌。アオイと名乗るその少女の周りには、常に微かな青い光と、消えては生まれる水滴がきらめいていた。彼女は微笑んだが、そのまなざしはユウの心を深く捉え、まるで忘れかけていた夢の続きを見ているかのような、抗いがたい引力があった。ユウは気づけば、その青い光に導かれるように、少女に手を伸ばしていた。 「触れないで…」
アオイの声は、潮騒のように優しく、しかし確かな拒絶を含んでいた。その瞬間、彼女の白い肌が、水に溶けるように透き通り、ユウの手は空を切った。驚きと戸惑い、それでもユウは、その儚い美しさに心を奪われた。アオイは、自分が人間とは異なる存在、遥か水底の王国から来た水の精霊だと告げた。一時的に地上に姿を変えているが、長くは留まれないこと、そして人間に触れることだけでなく、陽の光に長く身を晒すことも禁じられた、悲しき掟があることを、その透き通るような瞳で語った。「あなたに触れたら、私は…消えてしまうの。それに、この身体は、あまり長く陽の下にはいられないから…」。その言葉は、ユウの胸に深く刻まれた。
それから、二人は秘密の時間を共有するようになった。日中の眩しい陽射しを避け、人気の少ない陰を選んだり、あるいは、星が降る夜、水平線に朝日が昇る瞬間といった、光の弱い時間帯にひっそりと会った。ユウはアオイの隣で、彼女が紡ぐ水底の物語に耳を傾けた。深海の宮殿の輝き、魚たちの歌声、そして、ユウだけに見せる水底に咲く「蒼穹の花」の幻影。時折、アオイは切なげに、地上では決して聞くことのできない「水底のうた」を口ずさんだ。それは、深く冷たい海の底から響くような旋律で、ユウの心を震わせた。**ユウは、アオイの透き通る歌声に合わせて、さりげなくギターのコードを奏で、時には柔らかくハミングでコーラスを重ねた。触れることのできないアオイと、音で心が通い合う瞬間だった。**彼女は、「最近、水底の奥深くでも、ほんの少しずつ、水の温かさが変わってきているの…昔はこんなことなかったのに」と、不安げに呟くこともあった。ユウにとって、アオイと過ごす時間は日常から切り離された「特別な」ものとなった。アオイが微笑むたび、彼の心は温かい光に満たされ、その忘れられないまなざしは、ユウの心に深く焼き付いた。
ある夕暮れ、ユウはアオイに小さなガラスの小瓶を差し出した。中には、キラキラと輝く海岸の海水が満たされている。 「これ、アオイに似てるから」 アオイがそっと小瓶に触れると、中の水が突然、鮮やかな青い光を放ち、まるで命を宿したかのように揺らめいた。そして、アオイの指先から、きらめく青い雫がこぼれ落ち、小瓶の中の水と響き合うように溶けていく。 「私の気持ちみたい…」アオイはそう呟き、はにかんだ。ユウの中で、アオイへの募る想いは青い雫となり、光の中で揺れるように、切なくも美しく輝きを増していった。
しかし、別れの時は容赦なく訪れた。地上での時間が刻々と過ぎ、時に降り注ぐ陽光がアオイの身体を蝕むにつれ、アオイの体は次第に透明度を増していく。まるで故郷の海が熱を帯びるように、彼女の身体を構成する水滴も、その本質を変え始めているかのようだった。肌を覆う青い光は弱まり、微かに息をするたびに、彼女の唇からこぼれる水滴さえも、陽の光に当たるとはらはらと消えていくのが見えた。ユウは、彼女を失う恐怖に震えながらも、どうすることもできない自身の無力さを噛み締めた。
最期の夜、月が海面に青い道をかける中、二人は海岸にいた。アオイは、水底の世界への帰還が迫っていること、そして、二人の別れが避けられない運命であることを、絞り出すような声で告げた。 「ねえ、ユウ。もし私が消えても…夜空の一番輝くあの星が、私の故郷なの。そこに、私の存在を感じてくれる?」 アオイはそう言いながら、ユウの顔に、透き通るような自身の指先をそっと近づけた。触れることはない、しかし確かにそこに存在する温かい吐息。ユウは、その温かさを胸いっぱいに吸い込んだ。それは、「近くに感じる君の呼吸」でありながら、「触れそうでまだ遠い」、永遠の距離だった。
「ユウ、ありがとう。あなたと出会えて、私は…水底では感じることのできなかった、たくさんの温かさを知ったわ」 アオイは、透明な涙を浮かべながら、最後の微笑みをユウに向けた。ユウはただ、その忘れられないまなざしを、心に深く焼き付けることしかできなかった。
そして、別れの瞬間は、思いがけない形で訪れた。海岸で開催されていた夏の終わりを告げるイベントで、ユウは意を決してステージに上がった。ギターを抱え、夜空の下で、アオイと二人で密かに育んできた「水底のうた」を歌い始めた。ユウの歌声は、アオイの澄んだ旋律と響き合い、観客の心を捉えた。歌の終盤、アオイがユウの隣に、淡い青い光を纏って現れた。その姿は誰もが視認できるものではなく、ユウの目にだけ映る、幻のような存在だった。二人のハーモニーが最高潮に達し、歌が終わりを告げる。スポットライトが静かに消え、ステージが闇に包まれた、その瞬間――アオイの身体は、無数の青い水滴となり、光の中で揺らめきながら、静かに、まるで海の泡のように、夜の海へと溶けていった。
潮の満ち引きと共に、彼女の存在は、世界から消え去った。
アオイが消えた後も、ユウは一人、波打ち際に立ち尽くしていた。寄せては返す波の音は、アオイの優しい囁きのようだ。空を見上げると、月明かりの下、アオイが指さした一番星が、ひときわ強く青い光を放っている。
日常は、再び「見慣れた」ものに戻った。しかし、ユウにとって、その青い海も、澄んだ空も、もはやありふれたものではなかった。アオイとの出会いは、彼の世界を永遠に変えてしまったのだ。胸の奥には、彼女との約束、そして彼女が教えてくれた「幻想の世界」の記憶が、深く刻み込まれていた。それは、心の中で静かに輝く青い雫となり、ユウが生きる限り、光の中で揺れ続けるだろう。海を眺めるたび、ユウは水底の王国に想いを馳せ、心の中で「君を想う時間 (とき)」を大切に育んでいく。いつか、彼もまた、その青い光に導かれ、水底の世界へと還る日が来ることを信じて。