魔術とその社会実装について
魔術とその社会実装について、適当な法螺をついてみました。書いてあることは大概嘘です。
Inter City Balistic Magic。略して、ICBM。
中世ヨーロッパでは余り発達せず、中国や古代ローマといったある程度国家機構が備わった国々でのみ運用された痕跡が見受けられる。ただそれにした所で射程100kmを越える魔法が見受けられることは極めて稀であり、精々が50~60kmほどでしかなかったのは特筆に値する。通信技術が未発達であったことが要因の一つとしてあげられるが、近年の研究により王権側にとって魔法使いたちが大きすぎる権力を持つのを嫌ったという側面も否定できないという面も見えてきたのは興味深い。
ICBMは中国の南宋の時代に早くも発見される。南宋は元の圧迫に苦しみ抜いた挙句、射程100kmの特大射程砲を開発した。一説には時の皇帝から「何かいい案はないのか」と問われた側近が、
「魔術によって大砲の射程を伸ばしてみては如何でしょうか」
などと適当に喋り、現場の大反対を押し切ってそのまま採用した所、意外に上手く行ってしまったともされる。現場連中はいつの時代も枯れた技術を好むものであるからして、
『過剰に長細い砲身を作り、魔術によって初速を早める』
などという馬鹿げたアイデアが毛嫌いされるのも無理からぬことであった。だがこれも皇帝ーというよりも国家権力ーにとっては必然というべき帰結である。考えてみよ、一騎当千の魔術師などという存在は、為政者の側からして潜在的な敵以外の何物でもない。例えば唐の太宗は就任早々に導術士とされた士官500名を生き埋めにしたとされるし、秦の始皇帝に至っては儒者共々に帝国内に居る全ての術者(どうやら中国での魔法使いの呼び方は術者ないし導術士らしい)を根絶やしにしようとした。突出した個人的暴力など天下の安寧秩序にとっては有害無益という事なのだろうが、当の魔法使い達にとっては災難でしかない。案の定という事か、漢の高祖、劉邦は楚漢戦争において魔法使いを大変に重宝したという史実はなんとも歴史の皮肉を感じさせる。とはいえ、その高祖劉邦も漢帝国成立後は徐々に魔法使いを殺戮していく所からして、権力者は誰しも同じような行動を取るものだと感じさせる。では民主主義で回していた古代ギリシャにおいてはどうだったのかといえば、やはり任期1,2年の国家元首として選挙で選ばれた魔法使いは戦争が終わるや否や罷免される事がしばしばであったし、古代ギリシャ世界において、度々見受けられた陶片追放の対象者は、その八割がたが魔法使いであったという研究結果も出てきている。
それではローマ帝国ではどうだったか?ローマ帝国でも事情は同じ、カエサルがガリアで異民族を相手に八面六臂の大活躍をする際、魔法使いは大変にもてはやされた。ガリア戦記にも記載されているライン川に架橋した大規模な橋の工事は、皆が知っての通りたったの1日(実際には夜の間に終わったから半日というべきか)で終わってしまった。後に「ライン川の一夜橋」という成句が成るほどに、当時のガリア人は驚愕した筈であり(何しろ昨晩まで渡れなかった川に橋が掛かってしまっているのだ!)、ガリアからの凱旋の後でカエサルが公共事業において魔法使いを異常ままでに使役したのも、この時の記憶ゆえと言われてきた。そう、筆者は今、敢えて過去形を使った。実は近年の研究により、カエサルも魔法使い達の反乱を恐れていたとする木簡が大量に発見されつつある。例えば「魔法使いの舌には蜜が塗られている。けれども連中の腹には刃がある」という評価は、これまで魔法使いを大量殺戮した事で知られるアウグスティヌス帝の言葉とされてきたが、実はカエサルが常日頃から使っていたことが判明した。平原における戦いでは10000人を相手にしても数人程度の魔法使いが互角に戦ったという記録は、洋の東西を問わない。であれば、平和な時代に魔法使いが粛清されてしまうのもむべなうかな。
だがそれでも動力といえば人力と家畜くらいしか頼れるものがない時代、著しい体力消耗の対価とはいえ、100tもの巨石を何mも持ち上げたり、岩を切り裂いたりできる魔法使いは公共事業の担い手としては欠かすことができない存在であり、古代の大帝国(それもアケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス大王のマケドニアなど)を通じて彼らが出てこない事はなかった。
けれども中世に入ると魔法使いは姿を消してしまうのである。これは何故か?
一説には旧大陸にいた魔法使いの生き残りたちは、先を争うようにアメリカ大陸を目指したという説も浮上している。なるほど、ナスカの地上絵を描いたのは、魔法によって空中浮遊した指揮官によるものだという考えは魅力的だし、インカ帝国のマチュピチュ遺跡に見られるような巨石文明も魔法使いの存在を考えれば、簡単に説明が付いてしまうというものだ。太平洋の島々に時折見受けられる巨大な石の遺跡群(イースター島のモアイ像はその典型例といえよう)も、いやあれは魔法使いの仕業ですから、と言えれば凄く説明がラクではある。だがこの説明は、現在の考古学者の間では棄却されている。何故なら魔法使いを育成するには、ある程度の農業生産性の高さと識字率が必要不可欠だからである。
秦帝国にせよ、古代ローマにせよ、当時としては驚異的な人口大国であった。統一直後の秦で3000万人、古代ローマの人口は紀元14年で4500万人、最盛期の紀元164年では6140万人とされる。これらの数字がどれほど凱旋性があるのか、筆者は専門家ではないので資料を信じるしかないにせよ、当時これほどの人口を抱えていた領域は全世界を見渡しても存在していなかったのは事実だろう。そしてこれらの国々においておや、最盛期でも魔法使いの数は数十人を越えなかったとされる。
ー数千人ではない!数十人である!
魔法使いを一人育成するには最低でも10年以上の月日を要したとされ、天才と言われる「ガリアのヨーゼフ」(A.D 10 ~ A.D 70)にしてから魔導学校として有名なギリシャはロードス島の学院を卒業するのに8年掛かっている。当時の魔導教育は、暗唱に重きが置かれていた。その為教科書によって自宅での独学が出来ず、後進への教育方法も徒弟制じみたものにならざるを得なかったという事情が大きい。そして何より、魔法使いは半人前では何の役にも立たないのである!だから余程裕福な家の次男坊か、ないしは経済的に働かずとも済む連中が魔法使いを志願することとなる。古代においてこれらの条件を満たすとなると、現役の魔法使いの数が精々数十人というのも納得がいこうというものだ。
そういった理由により、大人口を抱えられる帝国が崩壊するや否や魔法使いは暫くの間歴史から姿を消すこととなる。
最近のインカ帝国の研究では、かの帝国最盛期に魔法使いが居たのではないか、という説が浮上してきている。最盛期のインカ帝国は2000万もの人口を抱え、農業生産性が高かったことを鑑みるに、今後も検討に値すると筆者は考える。
中世ヨーロッパにおけるキリスト教の興隆、そして三国志の時代を経てからの五胡十六国時代ともなれば、魔法使いを育成する余裕など両方の地域になくなっていた。ヨーロッパ地域において魔術が再度見直され始めるのは、ナポレオン=ボナパルトの登場を待たねばならない。
ナポレオン一世の伝説的な活躍について、今更私如きが紙面を割くこともなかろう。ヨーロッパ統合を最初に成し遂げたのは彼を於いて他にはいない。何しろ伝説的なワーテルローの戦いにおける圧倒的な勝利、対ロシア遠征をすんでの所で踏みとどまり外交交渉によって、ウクライナと白ロシアを衛星国としてしまった外交手腕(人によっては恫喝外交ともいう)は余人をもっては代えがたいものだった。だが彼はそこまで革新的な男ではなかった。やはりナポレオンの成功は、ブルボン朝における魔導士育成にも負っているのである。ブルボン朝最後の国王、ルイ16世の時代、パリ近郊にある「王立魔道学校」では年間20人の魔導士を輩出していた。同じ時代、ライバルであるイギリスにおいては、年に4,5人魔導士を育成するのが精々であり、他の諸国、例えばプロイセン王国やらロマノフ朝ロシアに至っては、自前での魔導士育成など夢のまた夢の状態。当時ヨーロッパで3000万の人口を誇り、尚且つ識字率ヨーロッパ随一であったフランスにして初めて可能な芸当であった。
この年間20人ずつ増えていく魔導士を、全て砲兵隊に配属した所がナポレオンの天才足る所以である。ここで私が冒頭に申し上げたICBMの登場となる。ICBMの登場によって、イギリス占領があっけなく成功してしまった事は世界史稀に見る奇跡とされる。
しかし何故、大陸軍を作り上げた大ナポレオンがこのような新兵器に頼ろうとしたのか?先ほど筆者は「ナポレオンはそこまで革新的な男ではなかった」と書いたことと矛盾しはしないか?だが矛盾しないのだ。彼の構想、実現しようとする一切合切は前人未踏、ないしは2000年以上試みられたことのない事柄であった。全ヨーロッパの軍事統一、アルプスを越えての遠征などはまさしくそうだろう。だがこういった事業を達成する為に為される個々の要素技術において、彼は枯れた技術を好んだ。彼は、というよりも、職業軍人であれば未成熟な新規の技術などに頼ろうとはしない。では?ICBMは?これは未成熟な新規技術そのものではないのか?それとも枯れた技術の組み合わせと言えるのか?
然り、言える。
まずブルボン朝フランスは、当時から陸軍国として有名であり、その名声を主に担っていたのは砲兵隊である。圧倒的な長距離射程によって、フランス軍唯一の弱点であった艦隊の弱さを克服したいとする考え方は、百年戦争の頃からフランス軍人の妄想として存在していた。ある意味でアドルフ・ヒトラーがヴェルナー・フォン・ブラウン博士に命じて作らせたV2ロケットなどは、ナポレオンによるロンドン砲(ドーバー海峡のこちら側からロンドンをいつでも破壊できることから、当時この様に呼ばれた。命名者はナポレオン一世その人とされる)の末裔に過ぎない。
またロンドン砲を支える周辺要素技術においても、フランス王国は抜きんでていた。その一つが腕木通信である。
見晴らしの良い場所に建てられた塔へ回転可能な木を渡す。そして左右それぞれの先端部へ、これまた回転可能な小さな木を取り付ける。これら3本の木は、紐を使うことで様々な角度に回転できる。そしてAからZまでのアルファベット、1から9までの数字を表現することが出来るのだ。1km~1.5km間隔ほどの間隔を空けて建てられた塔により、必要な情報が次々と中継される仕組みである。夜間には腕木の端や関節部に明りを灯して情報を伝達することも出来る。雨の日には視界不良によって、情報が伝わりづらくなる事が欠点であった。現代を生きる我々であれば、このような面倒な仕掛けを作らなくとも、二進符号を用いてしまえば良いように思えるが、当時は未だコンピューターという概念が存在しない時代である。原始的な方法ではあるものの、1分に80km以上で信号伝達されるという、実際、1793年7月、パリ近郊3地点25kmの間で実施された公開実験では、28語を11分で伝送している。また1819年の記録によると、フランス国内を縦断する551kmの通信路(パリ=ブレスト間)を、8分で情報伝達したという。尚、この腕木通信最大の欠点は、やはり要員を常時常駐させねばならない事、悪天候時の視界不良によって通信が途絶してしまうことが上げられる。更に全中継地点へ人間を常時駐在させることによる人件費は財政を圧迫したが、それよりもロンドン砲の運用を可能するという利便性が上回った。100kmの射程を持つ超長距離射程砲。そんなものを配下の帝国元帥に委ねる訳にはいかない。委ねた瞬間、その元帥が帝国最強の存在となる。軍事独裁であるボナパルト朝において、そんな事は許されない。だからして、運用は常にパリの裁可が必要となる。その為の腕木通信網だった。
この腕木通信網には19世紀初頭のSF作家が魅せられた模様であり、取り分けロシア帝国においてその傾向が明らかである。プーシキンの「来るべき世界」では、世界中に腕木通信網が張り巡らされた世界において、日本の将軍と中国の皇帝が朝鮮半島の領有権を巡って激しく論争を繰り広げる未来が描かれており、ある意味で日清戦争を予言していると言えなくもない。対称的にアメリカ合衆国の小説家、例えばアービングなどは「自由とその代償」において、様々な選挙の候補者が腕木通信を用いて有権者へ売り込みを掛けるというこれもSNSを選挙に用いた今日の光景を先取していると言えなくもない未来を描写している。
イギリスとアイルランドという二つの島を占領できた事によって圧倒的な工業力をも手にしたナポレオン=ボナパルト。では何故彼の帝国は、彼の死を待たずして崩壊してしまったのか?歴史家の見解の一致する所、結局ナポレオンによるヨーロッパ帝国は、「勤勉なるナポレオン一世と、彼の大陸軍(別けてもICBM)、そして腕木通信」に依存し過ぎていた。結局その広大なる領土の自重に耐えきれずして滅亡してしまったのだ。けれども肝心のICBMを支える魔導士はそんな急に人数を増やすことは出来ない。1792年のバスティーユ襲撃の際、年間20人ほどだった魔導士学院の卒業生の数は、その後ナポレオン一世戴冠式の時代においても、年間30人、栄光のワーテルローの戦いにおいて漸く年間50人に達するかどうかであった。この程度の人数で、ヨーロッパ全域をICBMの射程で覆うというには無理がある。よって常に反乱の絶えることのないスペインの首都マドリード、ドーバー海峡を隔てたイギリスの首都ロンドン、バルト海に面したロシア帝国の首都サンクトペテルブルク。これら三つの首都を常に射程に収めておくのが関の山だった。20世紀後半になって出現したICBM(但しこちらはInterContinentBalisticMissileであり、そもそも魔法ではない)が、文字通り世界全体を射程範囲に収めてしまった事とは著しい対称を為している。
ロシア帝国の、いや世界を代表する小説家トルストイ。彼がクリミア戦争に従軍していたのは有名であり、その際の経験は後に短編集「セヴァストポリ物語」として結実することになる。「セヴァストポリ物語」においては、自国の領土内部に鉄道すら通っていない状況が赤裸々に描かれている。そういった状況下においても、
「魔術という封建制・後進性の塊と腕木通信という科学技術との奇妙なキメラ」
であるICBMさえあれば西洋の艦隊など鎧袖一触。トルストイの小説にはそのような楽観的な物の見方が見て取れる。19世紀後半の作家には見られなかった態度だ。19世紀半ばとなると、産業革命による近代化の進んだ国においては魔術師の居場所が段々と小さなものとなっていった。他方、近代化に乗り遅れた国々においては、未だに魔法使いが戦場の花形であった。彼らが最後に大活躍したのが、クリミア戦争だった。ご存知の通り、オスマン=トルコ帝国、フランス共和国、イギリス、オーストリア=ハンガリー帝国、サルデーニャ王国の間で繰り広げられた激闘である。この戦争では、クリミア半島のセバストポリ要塞に設置された沿岸砲が活躍した。沿岸砲部隊と沖合に浮かぶ戦艦とが激突した場合、第一次世界大戦までは沿岸砲部隊が優勢に立つとされる。魔術によって射程を伸ばされていれば、尚のことである。
この戦争は、「この時代に限っていえばロシア帝国の勝利。しかし長い目でみた場合には、ロシア帝国の敗北」と言われる所以になった戦争だ。つまり外国の艦隊をご自慢の沿岸砲部隊(そしてその砲の初速は、勿論魔法によって増速されている)によって撃滅することが出来たはいいものの、戦争への勝利が近代化の遅れを覆い隠してしまった事をもって、19世紀末にロマノフ朝が倒れたことの遠因とする学説もチラホラと聞く。果たしてクリミア戦争にロシア帝国が大敗していれば、その後の近代化への努力がすんなりと進んでいったのか?歴史にIFはないとはいえ、筆者は基本的な筋書きは変らないのではないかと思っている。土台農奴制に基づいた古臭い帝国だったのだ。そんな体制が寧ろ19世紀末まで残った方が奇跡といえる。
魔法使いが最後の煌めきを戦史に残したのは、意外にもアメリカ南北戦争とされる。北部連邦と南部連合との激闘は当初の1年以内という見立てを通り越し、10年以上の長きに及ぶ戦闘へと発展した。これは一重にアメリカ南部州における貴族制度にあるとされる。黒人奴隷を大量に使役することで成り立つ南部連合は、封建制度の根強く残る土地であった。取り分け羽振りの良い大地主は2,3人の魔法使いを抱えている事がステータスとされており、黒人奴隷たちの反逆への抑止力、手っ取り早く言えば用心棒として働いていたという側面が否定できない。科学では説明の付かぬ超常の力によって無惨に焼き殺されたり、バラバラ死体にされてしまう黒人奴隷を謳ったゴスペルは枚挙にいとまがない。他方、今日のアメリカ合衆国において、オカルト現象を支持する層はほぼ例外なく白人である。未だに南北戦争は尾を引いているのだ。戦後の南部を再興する上で公共事業をこなす際、陸軍工兵隊は旧南軍の魔導士達を雇ったのは有名な話である。
時代は下って1960~80年代に掛けて、独立したてのアジア=アフリカ諸国でも魔法使いは活躍した。チェ=ゲバラが
『魔法を使えるという事は、革命を起こせるという事だ』
といった名セリフは余りにも有名であるし、エンクルマによる
『近代化とは、社会主義権力に足すことの魔法のことである!」
という後の時代になっては何を考えているのか解らない台詞も当時の時代背景を鑑みれば納得がいく。近代化に伴って必要となる工場や港湾設備、鉄道などを整備するには大量の元資本が必要となるが、独立仕立ての植民地にそんなものはない。なので魔法使いを酷使しつつ、人海戦術で資本蓄積に励むこととなる。
ベトナム戦争におけるホーチミンルートの建設や、タンザニアとザンジバルを結ぶ鉄道の建設現場などでよく見られた光景である。現場には中国やキューバの技術者が多数派遣されており、当時は共産主義諸国同士の麗しい協力などと言われた。現在では強制労働として否定的に扱われている。