あなたの恋は、何の色?
その日、私は自分が恋に落ちる瞬間を見た――
* * * * * * *
エミリー・キャロウはその日、いつもどおりの一日を送ったと思っていた。
婚約者であるメイナードとデートをした帰り、大通りの側溝に嵌まって動けなくなっているドジな白猫を引っ張り上げて助けてあげた。変わったことといえば、それくらい。
だが翌日、エミリーは自分に異変が生じていることに気づいた。
「えっ、パーシー兄様が?」
「ええ。三年前に結婚してから、別荘で過ごしていたでしょう? でもそろそろ家業を継ぐから、奥さんと子どもを連れて王都に戻ってきたそうなの」
母の言葉に、エミリーの気分は浮ついてしまった。
パーシーは、エミリーの父方の従兄だ。エミリーより五つ年上の彼は優しくて格好いいまるで王子様のような人で、子どもの頃のエミリーは密かに彼に憧れていた。
もちろんそれは子どもの初恋に過ぎず、パーシーが結婚したときには心から祝福した。今のエミリーには婚約者もいるし、パーシーには従兄としてのごく普通の愛情しか抱いていない。
それでも子どもの頃から大好きだった従兄に会えるのは嬉しくて、彼の前に出るのだからとついおしゃれをしてしまった。といっても、金色の髪をきれいにまとめて自分の目と同じ落ち着いたグリーンのドレスに普段より高価なブローチを着けたくらいだが。
そうしてどきどきしながら従兄の待つ応接間に向かい、ドアを開けた。
「こんにちは、パーシー兄様」
「その声は、エミリーか! わあ、すっかり大人になったね!」
「それはそうでしょう。エミリーだってもう、二十歳なのよ」
母が朗らかに言ってパーシーも「確かに」と笑うが……。
(……パーシー兄様、頭に葉っぱがついているわね)
ソファに座る金髪碧眼の従兄パーシーを見るのも久しぶりで、彼もすっかり大人の男性になっている。
昔と変わらない優しそうな眼差しに柔らかい物腰、きちんと整えられた身だしなみなのだが……彼の少し癖のある髪に、緑色の葉っぱがくっついていた。
(兄様らしくないわね)
キャロウ家は、商家だ。パーシーの父が当主で、弟であるエミリーの父はその補佐を行っている。
元々キャロウ家は人柄はいいもののいまいちうだつの上がらない小さな商家だったが、エミリーたちの曾祖父の時代、国王の娘が彼に恋したらしく、周りの反対を押しのけて嫁いできた。
苛烈で敏腕だった王女はおっとりとした曾祖父にぞっこんで、夫の商家を盛り上げようとその才覚を惜しみなくふるった。そうして元王女の才能と曾祖父の人柄のおかげでキャロウ家は一代にして盛り上がり、傍系王族ということもあって平民の中では破格の身分を得るようになった。
とはいえ、曾祖母は身分を捨てて嫁いできたのでエミリーたちに貴族の身分はない。だからか、伯父も父もパーシーたちも身だしなみや言葉遣いなどにはとても厳しかった。「所詮平民だ」などと貴族たちから軽んじられないようにするためだ。
だから、そんなきっちりとした従兄の頭に葉っぱがついているなんて信じられなかった。それなのにパーシー本人は全く気づいていないようだし、母も何も言わない。
(……指摘した方がいいわよね?)
この屋敷の中ならともかく、彼が帰る段階になってもくっついたままだったらパーシーが恥を掻いてしまう。そういうことで、憧れの従兄と世間話をしつつ葉っぱを観察して、もし彼が帰宅するまでの間に葉っぱが落ちなかったらこっそり取ってあげようと思ったのだが。
「そういえば、エミリーも婚約したんだよね? 確か、サリヴァン伯爵家の三男だとか」
「え、ええ。メイナード様とおっしゃるの」
「おめでとう! エミリーはかわいくて優しいいい子だから絶対に、幸せになれるよ」
パーシーが笑顔でそう言った途端、彼の頭にくっついていた葉っぱが揺れ、ぱっと弾けるように数が増えた。
(えっ!?)
エミリーがぎょっと見守る中、一気に数が増えた葉っぱがひらひらと自分の方に飛んできたため、思わず顔の前で手を振ってしまう。だが葉っぱはエミリーの手に触れたはずなのに肌に当たった感触を与えることなく、ふわりとかき消えた。
「ひゃっ!?」
「エミリー?」
「どうかしたのかい?」
母とパーシーに問われたので、エミリーは逆に彼らの方を驚きの眼差しで見てしまう。
「い、今、兄様の方から葉っぱが飛んできて……」
「葉っぱ……?」
母とパーシーは顔を見合わせて、不思議そうな表情になった。
「そんなもの、なかったわよ?」
「窓の外で飛んでいる葉っぱが見えたのかな? 室内には何もないはずだけど」
(うそ……)
信じられない。
なぜなら今もまだ、パーシーの頭の周りに複数の葉っぱが漂っているのだから。
結局パーシーが帰る時間になっても、葉っぱが落ちることはなかった。
彼がエミリーに何か話しかけるたびに葉っぱが増え、それがひらひらとエミリーの方に飛んできては消えていった。それなのに、その葉っぱがエミリー以外の者にも見えた様子はない。
(あの葉っぱ、何だったのかしら……?)
頭に葉っぱをくっつけたままの従兄を見送り、エミリーは考え込んだ。
パーシーが帰る前に、コートを羽織る彼を手伝いつつさりげなく頭の葉っぱに触れようとしたのだが、エミリーの指は緑色の葉っぱを貫通して空振りしてしまった。エミリーの目にしか見えないし、かといってエミリーでも触ることができない、摩訶不思議な葉っぱだった。
(……もしかしてこれって、『魔女のいたずら』だったりする?)
エミリーは、はっとした。
この世には、魔女がいる。
不思議な術を扱う魔女たちは気まぐれで、気分で人に手を貸したり人をからかって遊んだりする。昔は魔女の気まぐれが度を超したことで戦争が起きたり魔女狩りが勃発したりしたが、今は魔女もおとなしく暮らしており、人間の生活に溶け込んで生きている者も少なくないという。
魔女が扱う魔法にはいろいろなものがあり、現代の科学技術や常識で証明できない事象は『魔女のいたずら』のせいであるとされている。実際、人間に協力的な魔女が妙な現象に悩まされる人間の治療をすることもあるが、ほとんどの場合はどこかの魔女に『いたずら』されたせいだという。
今エミリーの身に起きているような超科学的な問題は高確率で、『魔女のいたずら』が原因である。もしそうだったら、王国仕えの魔女のもとに駆け込んで治療を頼むべきだが。
(お抱え魔女の診察料も治療費もすごく高いし、実験台にされる可能性も高いそうなのよね……)
それに、キャロウ家は裕福だが「あの家の娘が魔女に『いたずら』された」と噂される可能性がある。火のないところに煙は立たないのだから、信頼第一の商家の娘として足を掬われかねない行動はできるだけ控えたい。
(今のところ、パーシー兄様の頭に葉っぱがくっついて見えるだけだわ。これ以上変化がないなら放っておいてもいいし、明日になったら治っているかもしれないものね)
『魔女のいたずら』の種類は多岐にわたるが、命に関わるものはほぼないと言われる。それは、魔女が魔法を発動する際に術者が相応の『代償』を払う必要があるからだ。
だからエミリーが『いたずら』をされたとしても、それが重篤なものである確率は限りなく低い。エミリーが死ぬほどの『いたずら』なら、術者もただでは済まないのだから。
(今のところは誰にも言わずに、様子見をすればいいわね……)
「……あっ、エミリー!」
従兄の乗る馬車が見えなくなったのできびすを返したところで、名を呼ばれた。明るい青年の声と共に、軽やかな馬の蹄の音も聞こえてくる。
「……あら、ニコラス!」
「おはよう、エミリー。ちょっと久しぶりだな」
馬に乗って大通りの方からやってきたのは、赤い髪を持つ青年だった。着ているのは王国騎士団の制服である黒のサーコートで、腰には剣の収まった鞘を下げている。
彼の名は、ニコラス。
エミリーが子どもの頃に知り合った、騎士の家系出身の青年だった。
「数ヶ月ぶりくらいかしら? ニコラスはしばらく、郊外勤務だったのよね?」
「そうそう。昨日やっと王都に戻ってこられてさ。田舎の空気も嫌いじゃないけど、俺はやっぱり王都が好きだな!」
エミリーの前まで来て下馬した彼は、からりと笑った。
婚約者であるメイナードのようなクール系でも、パーシーのような王子様系でもない、明るくさっぱりとした性格のニコラス。エミリーより一つ年上の彼とは子どもの頃に一緒に遊んだ幼馴染みで、大きくなってからも顔を合わせたら雑談したりするくらいの仲だった。
なお、彼の頭をちらっと見たが何もなかった。
あの謎葉っぱは、パーシー限定なのだろうか。
「……ニコラスはこれから、お仕事?」
「いや、まずは引っ越し作業だ。昨日は実家で過ごしたけれど今日から城の宿舎住まいになるから、荷物とかを運ばないといけないんだ」
「大変ね。無理はしないで」
「分かってるさ! ……そういやエミリー、婚約したんだよな?」
エミリーがメイナードと婚約したのは、ニコラスが郊外にいる間のことだった。婚約の報告は手紙で済ませていたし、彼から「おめでとう!」という返事と婚約祝いの品ももらっている。
「ええ、サリヴァン伯爵家のメイナード様と」
「すごい相手を捕まえられたな! 改めて、おめでとう! ……もうエミリーも婚約したんだから、これからはあんまりべたべたしないようにする。安心してくれ」
「大丈夫よ、あなたは昔から紳士的じゃない」
エミリーに遠慮しているのかニコラスはやや決まりが悪そうに言うが、とんでもない。
ニコラスは子どもの頃から活発で少しがさつなところもあったがエミリーに優しかったし、不用意に触れたりもしなかった。手袋越しなどではなく彼に直接触れられたのは十歳のとき、足を滑らせて川に落ちそうになって慌てて支えられた出来事が最後かもしれない。
「これからも友だちとして、よろしくね」
「ああ、もちろんだ! ……っと、それこそ、こんなところで立ち話していたら婚約者に悪いな。じゃ、俺は行くよ!」
「ええ。元気でね、ニコラス」
「おまえも、お幸せに!」
ニコラスは笑顔で言うとひらりと馬にまたがり、颯爽と走り去っていった。
その背中は子どもの頃よりずっと大きくなっていて、とても頼もしかった。
ニコラスと会った日の午後、エミリーは友だちと一緒に出かけていた。
エミリーたち王都で暮らす平民の多くは、十歳から十二歳までの間初等学校に通う。これが王国における義務教育で、裕福な家の子は卒業後さらに高等学校や大学に進学する。
エミリーの実家は裕福で子どもの教育にも熱心だったので、初等学校卒業後は女子高等学校に通い、十八歳で卒業した。その頃に知り合った友人たちは同じ年齢でかつ同じくらいの家柄の娘ばかりなので、卒業してからもまめにやりとりをする仲だった。
「エミリー、ほらあそこ! 私の推しの騎士様がいるのよ!」
「ローズは本当に、騎士様好きなのね……」
エミリーは呆れつつも、友人ローズに付き合って城下町にあるカフェのテラス席に陣取り、大通りを馬で闊歩する騎士たちを眺めていた。
ローズはかなりのミーハーで、『推し』の騎士の追っかけをしていた。
今日もカフェでお茶をしながら、ちょうど城下町視察をしていた騎士観察を始めたので、エミリーもやれやれと思いつつ話題に乗っていた。
「そう言うエミリーだって高等学校の頃は、騎士団長のハデス様にぞっこんだったじゃない?」
「ちょっ、ローズ! 昔の話でしょう!」
「別に恥ずかしいことじゃないわよ。青春時代の憧れくらい、婚約者様だって許してくれるでしょう?」
(……どう、なのかしら)
ローズはあっけらかんと言うが、正直よく分からない。
伯爵家の三男坊であるメイナードとは、親同士の話で婚約が成り立った。黒髪につんとした美貌を持つメイナードは知的で、あまり口数は多くない。
二つ年下のエミリーのことを大切にしてくれていると肌で感じるものの、学生時代のエミリーが美貌の騎士に惚れ込んで追っかけのようなことをしていたと知ってどんな反応をするのか、いまいち想像ができなかった。
(少なくとも、怒ったりはしなそうだけど……)
「あっ! 噂をすれば、ハデス様もいるじゃない!」
「そ、そうなの?」
「ほらほら、せっかくだからチラ見だけでもしなさいよ! 見るだけならタダ! 浮気にもなりやしないわ!」
自分の『推し』は別人のはずなのにやけに鼻息の荒いローズに促されて、エミリーは隊列を組んで大通りを進む騎士たちの方を見やった。
十代半ばの頃の自分が憧れていた騎士団長ハデスは、すぐに分かった。ここ数年の間に若き将軍になったという彼は他の騎士たちよりずっと豪華な鎧を着ており、三十代にさしかかって渋さが加えられた美貌は人目を引いたし――
(……ん? あれは……何?)
エミリーは、わりと目がいい方だ。だから、ハデスの銀髪の周りに紫色の物体が飛んでいるのが見えた。ひらひらふわふわと飛ぶ様からして、蝶だろうか。
麗しの将軍閣下の頭の周りに、紫色の蝶が飛んでいる。
人によっては滑稽だろうが、ハデスが美男子だからか蝶が飛んでいてもわりと様にはなってはいるのだが。
(……あれ、パーシー兄様の葉っぱに似ている?)
エミリーが漠然とそう思った直後、ハデスがこちらを見た。カフェテラスから真剣な眼差しで自分を見る目に気づいたのだろうか、彼はエミリーたちが自分のファンだと思ったようで微笑んで軽く手を振り――紫色の蝶が、こちらに飛んできた。
「わっ!?」
「よかったじゃん! 手を振ってもらえるなんて!」
こちらに向かって飛んできた蝶が、ふわっとエミリーの手に当たって消えたため声を上げたが、ローズはその悲鳴を全く違う意味で捉えたようでにこにこ笑っている。
(……やっぱりこの蝶も、他の人には見えていない……?)
どきどきと、心臓が鳴る。学生時代の自分だったら、憧れの騎士団長様に手を振られた喜びで胸がときめいたのだろうが、今は違う。
パーシーの葉っぱと、ハデスの蝶。
これらが『魔女のいたずら』だとしたら、一体どんな意味を表すのだろうか。
ローズと解散したエミリーはその後、もう二人の『被験者』に会うことができた。
一人は、初等学校時代の同級生。運動神経抜群で学校中の女の子たちの憧れだった彼は学校卒業後、実家の手伝いをしていたがそこでポカをかましたらしく、両親から勘当されてしまった。王都から追い出されてから後のことを、エミリーは知らない。
だがそんな彼と、大通りでばったり鉢合わせをした。過去の面影を残しつつもやけに小汚い格好の彼を見て、エミリーはぎょっとした。そんな彼が「あっ、君エミリー!? いやぁ、美人になったね! あのさ、金、持ってる?」と言いながら追いかけてきたので、エミリーは逃げた。
逃げたのだが……彼の頭の上に、黄色い花びらが浮かんでいた。
彼がエミリーに、「なあ、今金がないんだよ! ちょっとでいいから貸してくれよ!」と言いながら走ってくるとき、彼の頭から黄色い花びらが飛んできたため、エミリーはこれまでの人生で一度も出したことのないような悲鳴を上げて全力疾走した。
そして夕方、自邸の前で女子高等学校時代の恩師と出会った。物静かな文系肌といった感じの彼は女子生徒たちからも人気があったし、授業も面白かったのでエミリーは結構好きだった。
そんな彼の頭の周りには、青色の泡が浮かんでいた。シャボン玉のようなそれらはエミリーが彼と立ち話をしている間に増えていき、「婚約おめでとう。これからも健康に過ごすように」と彼が言うと同時にエミリーの方に飛んできて、胸元でふわりと消えていった。
……ということで、四人の男性が『被験者』となったことから、エミリーはある仮説を立てた。
(あれらは私が一度でも好意を抱いた男性の頭の周りに現れて、その色が感情を表している……?)
エミリーが一方的に知っているだけのハデスは、紫色の蝶。
エミリーの恩師は、青色の泡。
エミリーを大切にしてくれる従兄のパーシーは、緑色の葉っぱ。
そしてエミリーを追いかけてきた元同級生は、黄色の花びら。
彼らのエミリーに対する気持ちが、あの幻として現れ飛んできたのではないか。
(もしそうだとしたら、メイナード様は……)
想像するだけで、ぽっと頬が熱くなってきた。
パーシーが緑、元同級生が黄色なら、メイナードはもっと鮮やかな色……ピンクや赤なのではないか。
ピンク色のかわいらしいハートがメイナードの頭の上に浮かんでいる光景を想像するとややシュールだが、それらが自分の方に飛んできてくれると思うと嬉しいような恥ずかしいような気持ちになってくる。
(ど、どうしよう! もう夜だけど、今すぐにメイナード様に会いたい……!)
婚約者であるメイナードからピンクのハートが飛んできたりしたら、エミリーの仮説はほぼ検証されたと言っていい。一体どこの魔女が『いたずら』をしたのかは分からないが、メイナードの気持ちが見える魔法だと思うとときめきで胸がいっぱいになる。
(次のデートは四日後だけど……待てない! 気になりすぎて、寝られそうにないわ!)
何か、メイナードの気持ちを見に行く理由付けになるものはないかと考えながら自邸の廊下を歩いていたエミリーだったが、応接間の前を通ったときに中から父の母の話し声が聞こえてきて……父がこれから、サリヴァン伯爵のもとに話をしに行くと分かった。
「お父様、私も行きたいです!」
この機を逃してなるものか、とエミリーは半開きだった応接間のドアをバァンと開け、父にお願いをした。父は驚き、「ドアを開けるときはもっと静かにしなさい」とエミリーを叱りつつも、「まあ、来るだけなら構わない」と同行を許してくれた。
「そんなにメイナード様に会いたかったのか?」
馬車の中で父に問われたので、浮つく気持ちが見え見えだったのだろうかとエミリーは咳払いした。
「そ、それはもちろん、婚約者様ですもの!」
「そうか。おまえたちが仲よくしているのなら、私も嬉しいよ」
父はそう言って、いかつめの顔を緩めて笑った。
礼法などにはとても厳しい父だが、一人娘のエミリーには何だかんだ言って甘い。あのパーシーでさえ、「叔父上はエミリーのことになると、だいぶ緩くなってしまうよね」と言うくらいだ。
(そうよ! 私たちが仲よくすると、お父様たちの助けになる。……家のためになるわ)
キャロウ家は貴族ではないが、ここの娘として生まれたエミリーにとっての一番の目的は、叔父やパーシー、父たちの助けになる相手と結婚すること。
サリヴァン家は遠縁とはいえ王家の血を継ぐキャロウ家と関わりを持ちたがっており、キャロウ家は貴族との縁組みを望んでいる。父がはっきりと言ったことはないが、そういう相互利益があるからこその政略結婚であると、エミリーは気づいていた。
だが自分とメイナードならきっと、うまくいく。始まりは親が決めた婚約だったとしても、幸せな夫婦になってお互いの実家に利益をもたらすことができる。
そう信じている。
信じていた。
だから。
「こんばんは、サリヴァン伯爵閣下」
「ああ、よく来てくれた、キャロウ殿。……おや、エミリー嬢も来てくれたか」
にこやかに握手を交わす、父とサリヴァン伯爵。
伯爵の背後には、メイナードもおり――
「やあ、エミリー。僕に会いに来てくれたのかな? 嬉しいよ」
穏やかに微笑む婚約者の頭上に、どす黒いとげとげした物体が浮いているなんて、信じられなかった。
「僕に会いたくなって、お父上についてきたんだって? かわいいことをしてくれるね」
それぞれの父親たちが話をしている隣の部屋にて、メイナードが笑顔で言っている。
ソファに優雅に座る彼は、細い指先でティーカップを摘まんでお茶を口に含んだ。その所作はさすが伯爵令息と言いたくなるほど洗練されており、エミリーはそんな上品な婚約者のことが好きだったのだが――
メイナードがエミリーに声をかけると、彼の頭上にある黒いとげとげがぶくぶくと膨らみ、ぺっ、とヘドロのようなものを吐き出した。それが飛んできて、エミリーの頬にべちゃりとぶつかる。
……紫の蝶や緑の葉っぱと同じく、ぶつかったときの感触はない。
それなのに、エミリーは黒い汚泥を頬にぶつけられたに等しい衝撃を受けていた。
笑みを取り繕うので、精一杯だった。
メイナードの言葉に相槌を打ち、やけに酸っぱく感じるお茶を喉に流し込み、泣かないように頑張っただけ自分は偉い、と褒めるしかなかった。
メイナードが何か言うたびに、べちゃべちゃとした黒いものが飛んでくる。それらはエミリーの頬に、胸に、手の甲にぶつかっては消えていく。
何を話したのか、覚えていない。早く父たちの話が終わりますように、とひたすら祈りながら拷問のような時間に耐え、部屋のドアがノックされて父が顔を覗かせるなり立ち上がった。
何も知らない父と伯爵は、「若い娘には、もう遅い時間だな」「早く寝ないと肌つやが悪くなる、とよく妻も言っておりますよ」とのんびりとしている。
そんな年長者たちの言葉に甘えるようにエミリーが帰宅を希望すると、メイナードは笑顔でうなずいた。
「そうだね。夜寝る前に、君に会えてよかったよ。きっと今晩は、いい夢をみられる」
「メイナード様……」
「おやすみ、エミリー。僕のかわいい婚約者」
メイナードは、そう言った。
甘い言葉と同時に、黒いヘドロをエミリーの肩にぶつけながら。
自邸に帰ったエミリーは部屋からメイドたちを出て行かせ、着ていたドレスを乱暴に脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。
紫は、ほぼ無関心。
青は、最低限の親愛。
緑は、穏やかな親愛。
黄色は、好意。
そうだとしたら……黒は、何を表す?
蝶のように優雅でも、泡のように美しくも、葉っぱのように柔らかでも、花びらのように華やかでもない、とげとげした形は、メイナードのどんな気持ちを形容している?
「メイナード様は……私のことが……嫌い……?」
声に出すと、余計にショックを受けてしまう。胸の奥で淀ませるより楽になれると思って吐き出してしまったのに、口に出したことを後悔する。
好かれていると思っていた。
愛されていると思っていた。
あの形がとげとげしさを、色が憎しみの色を、べちゃべちゃと吐き出されたものがその感情のぶつけ具合を示すなら……メイナードは、エミリーを嫌っている。
嫌っているどころか、激しく嫌悪している。
「……違う。そんなの、きっと違う」
枕に顔を押しつけて、エミリーはかすれた声で言う。
だいたい、『魔女のいたずら』なんて何が起こるか分からないものだ。意地悪な魔女がエミリーをからかうために『いたずら』をしたのかもしれない。
あの色の考察だって、エミリーが四人の『被験者』から出した仮説に過ぎない。たまたま、メイナードのときには黒く見えただけ。むしろ、エミリーが勘違いするように魔女が仕掛けた罠だったという可能性も十分にある。
(そう、そうよ。エミリー、しっかりしなさい。私はこれまでずっと、メイナード様の素敵な面を見てきたでしょう?)
大商家の娘も、伯爵令息である彼からすると粗末な小娘だ。
それでも彼はエミリーに優しい言葉を贈り、愛情を注ぎ、たくさんの贈り物をして、何度もデートしてくれた。「結婚したら、ここに住みたい」「子どもは、男女一人ずつほしい」と、未来の話もしてくれた。
(そうよ! これがもし魔女の罠だとしたら、私はメイナード様にとんでもない誤解をしてしまうことになるわ!)
むくりとベッドから起き上がり、真っ暗な壁をにらみつけながらエミリーは自分を叱咤する。
(お父様が結んでくれたこの婚約を、無駄にするわけにはいかないわ! それに私は、メイナード様と一緒になりたいと願っている! 『魔女のいたずら』なんかに負けないわ!)
むしろ、『いたずら』にもめげずにメイナードとの愛を貫き、意地悪な魔女に悔しい思いをさせてやればいい。エミリーになら、できるはずだ。
(頑張るのよ、エミリー! メイナード様を信じるのは、私の役目でしょう!)
目元をごしごしとと拭い、エミリーは気持ちを改めたのだった。
* * * * * * *
翌日以降も、「エミリーが一度でも好意を抱いた男性の頭の周りに、何かが見える」という現象は続いた。滅多に会わないハデスや恩師、迷惑極まりない元同級生はともかく、パーシーとメイナードで確認済みだった。
相変わらずパーシーの頭の周りには葉っぱがあり、メイナードの方には黒いとげとげが浮かんでいる。悪意の塊のような黒いとげとげを改めて見ると体の奥が冷えるような恐怖に襲われるが、「これは、魔女の罠」と自分に言い聞かせて、これまでどおりメイナードと接するようにした。
いや、これまでどおりではない。
以前より、エミリーはメイナードに尽くすようになった。
あのとげとげが魔女の罠だとしても、メイナードからの好感度を上げるのはよいことだ。これまではメイナードにリードしてもらい彼に甘えていたから、これからはエミリーもしっかりメイナードの愛に応えて、尽くせるようになりたいと思った。
そうすればひょっとすると、あの黒いとげとげが変化していくかもしれない。
あの黒色が和らいで紫色になり、青になり緑になり黄色になり――淡く色づくようになるかもしれない。
とげとげも角が取れ、蝶や葉っぱになるかもしれない。最終的に、深い愛情の証しとしてハートになるかもしれない。
……あの黒いとげとげは魔女の罠だ、と自分に言い聞かせているのに、メイナードに尽くせば色が変わるはずと思うなんて、矛盾している。
そうだと分かっていても、エミリーはメイナードのご機嫌を取ろうと努力することしか考えられなかった。
尽くすことは、間違いではないはず。
結婚したら、エミリーはメイナードの妻として彼を支えるべきだ。だから婚約者であるうちから従順であるのは、いいことのはずだ。
……そう信じていたのに。
* * * * * * *
「エミリー? 冗談を言うなよ。あんなの、父上に命じられて仕方なく婚約しているだけさ」
ある日の夜、メイナードに誘われて一緒に行ったパーティーで。
酒が入った様子のメイナードが友人らしき者たちに対して言うのを、聞いてしまった。
メイナードはまさか、ピアノ演奏を聴きに行っているはずのエミリーが部屋の前の廊下におり、自分たちの会話を立ち聞きしているとは露ほども思っていないだろう。
エミリーだって、演奏の合間に手洗いに行った帰りに迷子になり、偶然メイナードたちがいる部屋に来てしまうなんて思ってもいなかった。
「父上は、キャロウ家には王家の血が流れているから大事にしろって言うけれど、曾祖母の代の話だぞ? そんな小娘の体に流れる王家の血なんて、これより薄いに決まっているさ」
室内から、どっと笑い声が上がる。中を見られないので「これ」が何なのか分からないが、おそらく水で薄めた酒か何かのことだろう。
「それにあいつ、本当におもしろみがなくてさぁ。話もつまらないし、僕が話題を振ってもへらへら笑うだけ。それに婚約して半年以上経つのに、まだ抱かせてくれないんだ」
「うわー、それってあれか、貞淑を装っているのか?」
「どうか知らないが、ただただだるいだけだ。まあどうせ、ベッドの上でもぼけーっとしているだけのマグロなんだろうな」
エミリーの目の前が一瞬ぼやけ、とん、と背中が壁にぶつかる。
室内からは、「それは食い甲斐もないよな」「つまんねぇ女」と呆れたような声が聞こえてくる。
「それはメイナードもかわいそうだな。そんな女を妻にするなんて、俺ならお断りだ」
「だがまあ、あの馬鹿具合は悪くない。適当に愛嬌を振りまいておけば、勝手に勘違いしてくれるからな。ベスのことだって、一生気づきやしないさ」
(ベス……?)
かたかた震える両腕を抱きしめるような格好になっていたエミリーは、浅い呼吸を繰り返しながら部屋の方を見やる。
「ああ、あの色っぽい女か! おまえが娼館で見つけたっていう」
「あれは確かに、身請けをする価値がある女だったな」
「おい、まさか僕の恋人に色目を使うつもりか?」
メイナードが凄んだので、男たちは「悪い悪い」「そういうわけじゃないから、安心しろ」とへらへら笑っている。
(娼館? 身請け? ……恋人?)
真面目な両親と倫理と道徳を重んじる女子高等学校によって育てられたエミリーにとって、「娼館」や「身請け」なんて語彙として知っているだけだった。
「そのエリザベス嬢は、これからも別居になるんだろう?」
「あの芋女が正妻として居座るのだから、仕方ない。でも、子どもができなければ正当な理由として離縁できる。子どもができないのをあいつのせいにして離縁して、それからゆっくりベスを迎える準備をするさ」
あ、とエミリーの喉から震える声が漏れた。幸い、部屋の中は大爆笑だったのでその声が聞かれることはなかった。
両手で、口元を押さえた。
喉が震えて、カリカリして、胸が痛くて、吐きそうで、涙が零れるのを堪えられない。
裏切られた、裏切られた、と何度も心の中で叫ぶ。
声に出せない叫びを上げるたびに、息が苦しくなってくる。
(私は……愛されて、いなかった……)
メイナードは、エミリーのことなど愛していなかった。
あの黒いとげとげは紛れもない、メイナードの本心だった。
彼には、よそに愛する女性がいる。
いずれエミリーを追い出して、その女性を呼び寄せるつもりでいる。
ふらふらしながら、エミリーは壁に手を突いて体を支えつつ歩き出す。
メイナードの姿は見えないから、今彼の頭の周りに何色の何が浮かんでいるのかは、分からない。
だが目に見えずとも、黒いどろどろとしたものがエミリーの心を攻撃し、ぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
こんな状態でピアノ演奏中の会場に戻れるわけもなく、だからといってけろっとした顔でメイナードと合流するまで待つこともできず、エミリーはよろめきながら庭に出た。
ここは、王都に居を構える侯爵家の屋敷だ。そこの令嬢はエミリーやメイナードと同じ年頃で、今夜は同世代の令息令嬢たちを招いてのパーティーを開いていたのだった。
本来なら、商家の娘でしかないエミリーでは来ることもできない場所。伯爵令息のメイナードのおまけとして来たここに、エミリーはそもそもふさわしくない。
(帰ろう……)
屋敷までは、メイナードと一緒に来た。帰りも伯爵家の馬車に乗って自宅まで送り届けてもらう予定だったが、もうメイナードの顔も見たくない。
勝手に帰ったと知るとメイナードは心配……しつつ心の中では怒り狂うだろうが、もうどうでもいい、と思えた。
実家には連絡ができないから、馬車を呼ぶこともできない。だがこんなひどい顔で辻馬車に乗る勇気もないし、遠い距離になろうと歩いて帰ろうか……と思っていたのだが。
「……そちらにどなたかいらっしゃいますか?」
ほのかな明かりの灯る庭園で、背後から呼びかけられた。その声に、どろどろに溶けていたエミリーの心臓がぴくんと撥ねる。
この、しっかりとした頼もしい声は。
「……ニコラス?」
「えっ? ……ま、まさか、エミリーか!?」
カンテラの明かりが揺らめきながら近づき、やがてそれを手にした騎士の青年の姿がはっきり見えるようになった。
おそらく、侯爵から依頼されて派遣されたのだろう。普段は黒いサーコート姿のニコラスが、今日はグレーのジャケットを着ている。屋敷の警備のためではあるが見栄えをよくする効果も求められているからか、ジャケットはサーコートよりも若干動きにくそうだがなかなか豪華である。
ニコラスは愕然とした顔でエミリーを見て、カンテラを動かしながらエミリーの姿を上から下までじっくり見てくる。
「その……知らなかった。おまえも来ていたんだな」
「……」
「というか、こんな場所で一人で何をしているんだ? おおよそ、婚約者殿と一緒に――」
ニコラスがそう言った途端、エミリーの足からふっと力が抜けてその場にぐしゃりと倒れ込み――そうになったが、とっさにニコラスが腕を伸ばして抱き留めてくれた。
「エミリー!?」
「……あっ。だ、大丈夫。その、先に一人で帰ることにしたの」
ニコラスを巻き込むまいとエミリーは微笑み、力を振り絞って自力で立ち上がった。
「メイナード様は、まだ中にいるわ。私は、歩いて帰ろうと……」
「疲れているなら、馬車を呼ぼう。……ここからおまえの家まで、どれほど距離があると思っている? 下手すれば夜が明けるぞ」
「冗談が上手ね。大丈夫よ。私、これでも足腰はしっかりしている方だから――」
そう言いながら、ふと考えてしまう。
メイナードが娼館で見初めて身請けしたというエリザベスという女性はきっと、エミリーとは全く違う、しなやかな体を持っているのだろう。
体の起伏に乏しくて、顔も平凡で、面白みのないエミリーと違って、肉感的で美人で甘え上手で――
勝手に想像しておきながら勝手に傷ついてしまい、エミリーは苦笑いを浮かべてニコラスの腕を押しのけた。
メイナードに何と言われようと、今のエミリーはまだ彼の婚約者だ。だから、他の男性の手を取ることがあってはならない。
「……あ、はは。でもやっぱり、ちょっと無理かもしれないわ。ニコラス、もし手が空いているなら馬車の手配をお願いしてもいい? 私、このお屋敷の勝手が分からなくて」
「……」
「ニコラス?」
「おまえ、婚約者に何かされたのか?」
いつも陽気で若干お馬鹿なところもあるニコラスだが、妙に鋭い。
じっとこちらを見下ろすグレーの目に真意を見抜かれたかのような気持ちになり、つい目をそらしてしまう。
「……そんなことないわ。メイナード様はとても優しいもの」
「本当に優しかったら、おまえをこんな夜中に一人で帰らせるわけがないだろう」
「……メイナード様はおしゃべり中だから、先に一人で帰ることにしたの」
「婚約者を放っておくほど、そのおしゃべりとやらに夢中になっているのか? それほど大事なおしゃべりなのか?」
「……その、ほら、メイナード様は、貴族だから……」
ニコラスの追求は容赦ないし、それに対する自分の言い訳はなんとも情けない。エミリーは裏切られた側なのに、裏切った側のメイナードをかばうような発言をしていて、自分でもおかしいと思っている。
……全部、ぶちまけたい。
辛い、苦しい、悲しい、腹が立つ……全部の感情を吐き出して、すっきりしたい。
でも、それはできない。
「私は大丈夫よ。メイナード様の邪魔にはなりたくないし、お部屋にはお友だちがいるみたいだから……」
「……なるほど。じゃあ、いるとしたら四階角のあの部屋か」
今のエミリーの発言で、ニコラスは何かぴんときたようだ。
彼は振り返って侯爵邸をじっと見ていたかと思うと、エミリーをその場に残して歩きだした。
「えっ、ニコラス?」
「馬車の手配は後でちゃんとするから、ちょっと待っていてくれ」
「待って。どこに行くつもり?」
「おまえの婚約者に会いに行く」
ニコラスがこちらを振り返ることなく言うので、エミリーは心臓が止まるかと思った。
「俺は警備兵として派遣されているから、言い訳ならいくらでも思いつく。エミリーは、暖かい場所で待っていてくれ」
「まっ……だめよ!」
このままだとあっという間に姿を消しそうなニコラスに慌てて走り寄り、彼の腕を掴もうとした。だがジャケットに包まれたニコラスの腕はエミリーの想像以上に太くて自分の手では掴みきれず、仕方なくジャケットの皺の部分を引っ張った。
「相手は貴族よ!?」
「エミリー、よく聞け。この世の人間は二種類に分かれる。その基準は貴族か平民かではない。クズか、クズでないかだ」
とんでもない暴論である。
「そして俺は王国騎士団員として、クズに制裁を与える許可を得ている。……安心しろ。何も、問答無用で殴るわけじゃない。おまえの婚約者がクズかクズでないかを確かめるだけだ」
「貴族を殴るのはよくないわ!」
「……その言い方からして、おまえの目から見てもそのメイナードとやらはクズに分類されるということじゃないか?」
こちらを振り返り見たニコラスに言われたので、しまった、とエミリーはほぞをかむ。確かにこれでは、「メイナードはクズだから、ニコラスに制裁されてしまう」と認めたようなものだ。
エミリーの動揺は顔に出ていたようで、それを見たニコラスはまた前を向いて歩きだした。
「……なあ、エミリー。おまえ、もう十分頑張ったんじゃないか?」
「……」
「きっとおまえ一人で、いろいろ抱えていたんだろう。だからこそ、ここではっきりさせるべきなんだ。婚約者がクズかクズでないかを確かめるのは、おまえにとってもいいことだ」
「……」
「……ああ、申し訳ございません。少し、同行していただきたい件があるのですが」
廊下の角を曲がったところで、ニコラスが誰かに声をかけた。慌ててエミリーも見てみるとそこには、ニコラスよりも年上とみられる騎士たちの姿があった。
どうやら彼らはニコラスと顔見知りのようで、「なんだ、ニコラスか」と言い、ニコラスの隣にいるエミリーを見て、何か察したのか真剣な表情になってうなずいた。
「……侯爵邸の治安を守るのが、我々の任務だからな。それに、おまえが野暮用で私たちを引き留めることはない。よかろう、どこに行けばよい?」
「四階隅の部屋へ」
そこはまさに、エミリーが立ち聞きをしてしまった部屋だ。ニコラスは味方も引き連れて、本気で『確認』しに行くつもりのようだ。
「ニコラス……」
「大丈夫。俺に任せておけって」
ニコラスはそう言って微笑み、エミリーの額にこんっと自分の手の甲を軽くぶつけた。うかつに腕や手に触れられないから、という配慮の表れだろう。
……とくん、とエミリーの胸が拍動する。
(……な、何?)
エミリー自身も驚きつつ、ニコラスたちが動き出し彼らについていく必要があったため、それ以上考える余裕はなかった。
エミリーとニコラスは、騎士たちを連れて四階角部屋に向かった。
そこでは相変わらずメイナードたちが談笑しており……しかも酒が回ってきたのか、話の内容が先ほどより悪化していた。
もはや純情な乙女であるエミリーでは聞くに堪えない下世話で下品な話題になっていたため、エミリーは座り込んで両手で耳を塞いでしまった。
ニコラスはそんなエミリーを守るように立ち塞がり、他の騎士たちは表情を険しくして小声でやりとりをしたり、懐から出したメモ帳に何か書き付けたりした。
そしてリーダー格らしい騎士がうなずいたのを合図に、一斉に部屋になだれ込んだ。いきなりの闖入者にメイナードたちは泡を食い逃げ惑ったが、窓際に追い詰められた。
だが彼らは全員貴族だからか次第に余裕の表情になり、「ただ友人たちと会話していただけだ。何が悪い!」と開き直る始末。
……エミリーは廊下で待機するように言われたので、メイナードたちを追い詰めるニコラスがこのときどんな顔をしていたのか知らない。だがニコラスたちは、メイナードたちが侯爵の品位を傷付けるような下品なサロンを開催していたこと、婦女子を侮辱するような発言をしたことなどを咎めた。
パーティーの主催者である侯爵は、今夜招いた令息令嬢たちが健全な交流をすることを希望している。そんな屋敷で下品な話をするなんて、侯爵の怒りに触れて当然のこと。
メイナードたちの中に、侯爵に立ち向かえるほど身分のある者はいなかったようだ。彼らが開き直り強気な態度でいたのは最初だけで、騎士たちに捕らえられる彼らはビイビイ泣きながら許しを請うてきた。
次々に令息たちが部屋から連れ出されるのを、エミリーは廊下の陰でそっと見守っていた。だが最後にとうとうメイナードが出てきて……ニコラスにふん縛られた彼はエミリーをめざとく見つけると、ぎょっと目を開いた。
「エ、エミリー!?」
「メイナード様……」
「……み、見てくれよ! 騎士どもが、僕たちにあらぬ罪を着せているんだ!」
メイナードが瞳に狼狽の色を浮かべたのは一瞬のことで、彼はニコラスにシメられながらも必死にエミリーの方に来ようともがいた。
「僕は仲間たちと一緒に、エミリーの話をしていただけなんだ! それなのにこいつら、僕たちの話を曲解しやがって……」
「おい、何を今さら……」
「エミリー! 君なら僕の言うことを、信じてくれるだろう!?」
必死に弁解するメイナードだが、エミリーは最初彼が何を言っているのか分からなかった。だがすぐに、彼は自分たちの下品な会話がエミリーに聞かれていたのだと気づいていないのだと分かり……乾いた笑いが出そうになった。
好きだった。
この人のことが、好きだった。
黒いとげとげはきっと、魔女の罠なのだと思っていた。
自分は彼に、愛されていると思っていた。
……だが、違った。
この期に及んでもメイナードは責任逃れしようとするし、エミリーにすがろうとするし……そのくせ、相変わらず彼の頭上には黒いとげとげが浮かんでいるのだ。
エミリーのことが嫌いなくせに、擦り寄ろうとしている。
嫌いだけれど助けてほしいからか、とげとげからペッと吐き出された黒いものは普段よりも遠慮がちで、へちゃりとエミリーの胸にぶつかって消えた。
裏切られた。
エミリーはメイナードに裏切られ、さらに尊厳を踏みにじられそうになっている。
それなら。
「……メイナード様」
最後まで、笑ってやる。
「せっかく身請けしたのですから、エリザベスさんとどうかお幸せに」
薄めたワイン以下だろうと王家の血を継ぐ者として、キャロウ家の娘として。
戦いたいと思った。
エミリーの言葉を受けたメイナードは、愕然としている。「えっ」「なんで、えっ?」と意味のない言葉が零れているが、それもそうだろう。先ほどニコラスたちが来てからの会話には、「ベス」が元娼婦であることは出てこなかったのだから。
エミリーが恋人の名前を言い当てたのがどういうことを意味するのか、遅れて気づいたらしいメイナードだが、ニコラスはそんな彼を容赦なくねじり上げ、ずるずると連行していったのだった。
* * * * * * *
エミリーとメイナードの婚約は当然のごとく、白紙になった。
サリヴァン伯爵は息子が婚約者を愚弄しただけでなくよそに女性を囲っていたことにたいそう怒り、絶縁宣言をした。伯爵夫妻は愛に対して潔癖で、またそれはメイナードの二人の兄たちも同じだったらしく、メイナードの言動を許すことができなかったそうだ。
メイナードを勘当した伯爵は、エミリーたちに平謝りした。三男の教育の手を抜いた自分たちの責任である、とのことである。
エミリーも父も、伯爵を必要以上責めるつもりはなかったし、父同士は非常に良好な関係を築いていたそうだ。そのため、婚約解消に関わる処理や金銭問題を全て伯爵家が負担するということで、手打ちとした。
これにより、エミリーやキャロウ家にとって不名誉な噂が流れることはなく、二人の婚約解消問題はひとまず落ち着いたのだった。
* * * * * * *
婚約解消についてのあれこれが一段落した頃、エミリーは王都のとある屋敷を訪問していた。
「あのときは本当にありがとう、ニコラス」
「なに、友だちを守るためだから、当然だろう」
ガーデンチェアに腰掛けて頭を下げるエミリーを窘めるのは、ニコラス。
今日の彼は非番で、休みのところ悪いと思いつつも訪問の許可をもらい、こうしてテラスでお茶をすることになったのだった。
ニコラスの母が在宅だったが、彼女は久しぶりにエミリーを見たことを喜び、「息子から話は聞いているわ。ゆっくりしていってね」とにこにこ笑顔で言ってくれた。
……それはいいのだが、テラスにはあまりに人気がない。給仕のメイドたちはいたが、お茶を淹れ終わると一礼して去ってしまった。
最初こそ、異性と二人きりになるのは……と思ったが、もう自分はフリーの身なのだからそんなこと気にしなくていいのだ、と途中で思い至った。
「それにしても、とんでもない男だったな。本心を隠すのがそれほどまで上手だとは」
「……ええ。私もあの日、話を立ち聞きしなかったら分からなかったと思うわ」
ニコラスも言うように、メイナードの感情を隠す能力は見事だった。
彼は、父親の命令で結ばれたエミリーとの婚約を嫌っており、娼婦上がりの恋人であるエリザベスをよそで囲って寵愛していた。だが彼は社交界でも穏やかでクールな貴公子として有名で、実の両親や兄たちでさえ、メイナードの本性には気づいていなかったそうだ。
あの夜メイナードが談笑していたのは、「そういう仲間」たちだったという。そのためニコラスたちに捕らえられた後、皆も諸々の行動を咎められつるし上げられ、一家の恥として勘当された者も少なくないとか。
今の王国は、国王夫妻が恋愛結婚で年を取ってもなお仲睦まじいこともあってか、愛人を持つことや不貞行為などに嫌悪感を抱く者がかなり多い。だから娼館通いも、結婚・婚約前の遊びとしてならぎりぎり許されるくらいのものであった。
今回叱責を受けた令息たちの中には婚約者持ちもいたが、こんな男のもとに娘を嫁がせるものかと婚約解消が相次ぎ、皆それなりに痛い目に遭ったそうだ。
(まあ立ち聞きもそうだし、始まりは『魔女のいたずら』のせいだけど……)
メイナードには伯爵家勘当の前に最後に一度だけということで会いにいったが、しょぼくれる彼の頭上には相変わらず、しょぼくれた黒いとげとげがあった。
この期に及んでもメイナードはエミリーを嫌っているようで、もはやすがすがしかった。
(やっぱり治療を受けないと、あれは見え続けるのね……)
今のところ何かしらの色と姿が見えるのは、ハデスと恩師とパーシー、そして元同級生だけだ。その中でまめに顔を合わせるとしたらパーシーだけだから、もうパーシー専用の不思議現象ということで受け入れる方が楽かもしれない。
(まあ、私が新しい恋をすれば話は別だけれど)
そんなことを考えながらお茶を飲んでいたエミリーだが、ふと視線を感じたため顔を上げた。
向かいの席には、ニコラスがいる。エミリーより体の大きな彼だが紅茶を飲む姿は上品で、様になっている。メイナードほど洗練されてはいないものの、紅茶を静かに飲み、エミリーが手土産として持ってきたケーキをおいしそうに食べる姿は好感度が高い。
この人が、エミリーの体を、心を、守ってくれたのだ。
「……あの、ニコラス」
「うん?」
「……本当に、ありがとう」
何度目か分からないお礼の言葉がつい口を衝いて出てきてしまったが、ニコラスはそれをからかうことなく朗らかに笑った。
「そんなに礼を言われると俺も照れるけれど、おまえの笑顔が見られるのなら、あのとき張り切ってよかったと思えるな」
「……私も、あのときニコラスに声をかけてもらえて、本当によかったと思っているわ。あなたじゃなかったら私、何もできないまま一人で抱え込んで、だめになってしまっていたわ」
「……そんなことないさ」
ニコラスはケーキ用のフォークを皿に置き、灰色の目でまっすぐエミリーを見つめてきた。
「あのときはそうだったかもしれないけれど、おまえなら絶対にうまく乗り切っていた」
「……私、そんな要領がよくないわよ」
「要領はよくなくても、おまえには度胸がある」
だってさ、とニコラスは笑った。
「あいつに引導を渡したときのおまえ、むちゃくちゃ格好よかったんだから」
「……えっ?」
「あっ、格好いいってのはまずいか? でも、情けなくすがろうとするあいつをバサッと切り捨てたときのエミリーはまぶしくて、すごくきれいで……あいつをふん縛りながらも俺、つい見とれちゃったんだ」
あはは、とニコラスは笑うが――エミリーは、息を呑んだ。
とくん、とくん、と心臓が高鳴っている。
この高鳴りには、覚えがある。あの夜、ニコラスが頼もしい姿を見せてくれたときにも、同じ胸の鼓動を感じた。
エミリーは、ニコラスを見た。
やけに顔が熱くて、呼吸が苦しくて……だが、ちっとも嫌だとは思わない。
――ふわり。
暖かい色が、溢れた。
春の訪れを感じさせるかのような、鮮やかなピンク色。
艶やかで、力強く、どこかあどけない、愛らしい色。
こちらを見つめ返すニコラスの耳の横で、ぽわり、とピンク色が揺れた。
まるで、朝目覚めて伸びをする猫のように。コップの縁からこぼれ落ちるしずくのように。
溢れたピンク色が、可憐な薔薇の花の形になる。
ふわり、ふんわり、とピンク色の花が溢れる。
それは、恋の色。
慎ましくていじらしい初恋の色と、愛情の証しである薔薇の形。
「エミリー?」
ニコラスが、名前を呼ぶ。
それだけで、エミリーの胸は甘くときめく。
ニコラスの顔の横で、薔薇の花がぽんっと弾ける。「エミリー」という言葉に乗せて、こちらに流れてくる。
幻と分かっていても、エミリーは手を差し伸べた。迷うことなくエミリーの手のひらに落ちてきたピンク色の薔薇は、ほろりと溶けて消えていった。
(……私)
知ってしまった。
気づいてしまった。
目覚めてしまった。
(ニコラスのことが、好き……)
その日、私は自分が恋に落ちる瞬間を見た――
* * * * * * *
「……おや、うまくいったようだね」
王都郊外にある、森の奥にて。
アンティークな鏡をのぞき込んでいた女性は満足そうに言い、自分の膝に飛び乗り甘えてきた白猫の喉をそっと撫でた。
「おまえも、見てみるかい? 側溝に嵌まったおまえを助けてくれたお嬢ちゃんが、本当の恋を見つけたみたいだよ」
その声を聞いたからか、猫はぬるんとテーブルの上に乗り、鏡をじっと見つめた。
この猫は、女性の使い魔である。魔女である彼女を支えるよいペットなのだが、いかんせんドジっ子で、昔からよく池に落ちたり罠にかかって動けなくなったりしていた。
そのたびにやれやれと思いつつ魔女が助けてやったのだが、今回は彼女が行く前に親切な人間の女性が助けてくれた。
魔女は、その親切な女性に恩返しをしようと考えた。そして愛用の鏡を使ってその女性の人間関係について占ったところ、とんでもないことが分かった。
彼女には婚約者がいるが、その男は真っ黒黒だったのだ。よくもまあ、あんな真っ黒な腹の内を善人の皮で隠せているものだ、と魔女も感心してしまった。
あの女性の運命の人は、この男ではない。誰かは分からないが……間違いなく別のところに、彼女を世界で一番愛してくれる男性がいる。
だから魔女は、『いたずら』をした。
あの人間の女性が、婚約者の正体に気づけるように。
そして、自分を愛してくれる人と出会えるように。
そうして見守ること、しばらく。
猫がフンフンと匂いを嗅ぐ鏡には、自分の恋の目覚めと相手の男性が自分に寄せる深い愛情の色に戸惑う人間の女性の姿が映っていた。
「用事が済んだら解こうと思ったけれど……もうちょい続けてみようかね」
魔女はふふっと笑い、猫を撫でた。
なんといっても彼女は、魔女だ。
魔女はいたずら好きで……気まぐれなのだから。
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※どうでもいいこぼれ話※
エミリー(笑み)とニコラス(にこっ)で、「笑顔」カップルです!