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ようやくパーティも終盤に差しかかった頃、リネットは会場に漂う特徴的な匂いに気がついた。
(この匂いってまさか……!? それにこの気配は……! え、え、ええええっ!?)
鼻腔に感じるその匂いと気配に激しく動揺して、辺りをきょろきょろと見渡す。その様子に気がついたファリアスがいぶかしげに声をかけた。
「……どうかしたのか? リネット」
「それが……なぜかこの会場から、ファリアス様の夢と同じ匂いと気配がするんですっ」
「なんだと……!?」
「実は私ずっと不思議に思ってたんです。おかしいんですよ、あの夢! なんでファリアス様の夢の中に他人の気配がするんだろうって……。だから、もしかしたらあの悪夢は誰かがファリアス様に嫌がらせをしようと無理やりに見せているのかもって……」
「ということは、その犯人がここにきているかもしれない、ということか……?」
リネットはこくりとうなずいた。
にわかに緊迫した空気の中、ファリアスが声をひそめた。
「その気配と匂いの方向は分かるか?」
「うーん……。香水や食べものの匂いなんかと混ざって、はっきりとは……。もっと近づけばわかるとは思うんですけど」
けれど次の瞬間ぶわりと匂いが濃くなったのに気がつき、反射的に振り返った。その視線の先にいたのは――。
「やぁ、ファリアス。俺たち同級生の中で君が一番の成功者に違いないな。まったくうらやましいよ、君が」
「君は……バレイド社のゲイン、いやカインだったか……」
ユイール社と同業のライバル企業、バレイド社の跡取り御曹司カインがそこに立っていた。 バレイド社は創業以来売り上げ人気ともにユイール社に次ぐ万年二位のライバル企業で、ユイール社に対して昔から並々ならぬ対抗心を燃やしていると聞く。
ファリアスの顔に走った鋭い色に気づくふうもなく、カインは顔をひきつらせ苦笑した。
「ひどいな、ファリアス。学術院でともに学んだ仲なのに名前を間違えるなよ。……まぁ、いいさ。にしても噂の割に随分元気そうじゃないか。毎晩町を遊び歩き過ぎて今にも倒れそうだって聞いて、心配していたんだぞ?」
「……ほぅ?」
(まさかこの人が、犯人……!? 自らあの噂を口にするなんて、いかにもあやしいしっ! だったら今すぐとっ捕まえて、悪夢を見せるのをやめさせなきゃ……。あ、でもこんなところで証拠もなく問い詰めたら、せっかく隠してきた秘密が皆にバレちゃうし……。くぅぅっ……!!)
リネットは歯噛みした。
仮にもファリアスは、オットー家の経済危機を救ってくれた恩人である。そのファリアスを長く苦しめてきた男をこのまま見過ごすわけにはいかない。けれど明白な証拠があるわけでもないし、下手に騒がれでもしたらファリアスの名前に傷がつきかねない。
さてどうしてくれようかとカインをにらみつけたリネットは、ふと隣からどす黒い恐ろしい空気が立ち昇っているのに気つき、びくりと肩を震わせた。
「ひっ……!?」
(ファリアス様から黒いオーラが……!! こわいっ! 美麗過ぎる人が怒ってる姿ってこわ過ぎっ!!)
思わず小さな悲鳴を上げたリネットの隣で、ファリアスは不意になぜか突然さもめまいでも起こしたかのように額の辺りを押さえてみせた。
(へ……!? なななな、何……? どうしたのっ?)
するとファリアスはいかにも具合が悪そうに、ぼそぼそとカインの反応を探るようにつぶやいた。
「そうか……。やはりお前も噂を聞いたんだな……。実はここだけの話、近頃体の調子がおかしいんだ。心労のせいだろうか……? 今は必死に平気な振りを保ってはいるが、このままでは心身ともに参ってしまって仕事にも影響が出かねないと心配しているんだが……」
そのわざとらしい芝居がかった行動に、リネットは理解した。あの悪夢が本当にカインの仕業かどうかを確かめるために、反応を確かめてみるつもりであるらしい。
瞬間、カインの目がキラリと輝いた。
「そ、そうなのかっ。やっぱりそうか! そうだと思ったよ。くくっ! ざまぁみろっ」
(……っ!? 今のって……もしや自白っ!?)
反射的にカインの口からこぼれた小さなつぶやきに、リネットは目を丸くしてファリアスと顔を見合わせた。
「……やっぱり? やっぱりはどういう意味だ? カイン」
鋭い声で問いただしたファリアスに、カインははっと口を押さえると慌てて言い直した。
「い、いや! なんでもない! そんなこと言ってない! お前の聞き間違いだよっ。……まぁお前も色々と重圧とか心配もあるだろうしな。早くよくなるといいな。友人として心から心配しているよ! ……じ、じゃあ俺は他に挨拶に回るところがあるから、またなっ!」
そう言い残し、逃げるようにけれどどこか軽やかな足取りで去っていった。その後ろ姿を憎々しげに見送り、リネットはファリアスに問いかけた。
「……ファリアス様?」
「なんだ?」
「ファリアス様はどんな武器にします? 私は入手しやすいすりこぎ棒にしようかと思ってるんですけど、逃亡された時を考えて飛び道具もあった方がいいと思うんですよね」
ファリアスの眉間に深い皴が寄った。
「君は一体何の話をしている……?」
「決まってるじゃないですか。カインが犯人だってはっきりしたことですし、とっ捕まえてやめさせなきゃ! でもきっと簡単には認めないだろうし、もしも暴れでもしたら大変ですからね。でもいくら正当防衛とはいっても刃物はさすがに物騒だし、やっぱりここは飛び道具の方が……」
たかが眠り、されど眠りである。夢食いバクとしても、カインの悪行は許しがたい。となれば一日も早くカインを吊し上げて、二度とこんな真似をしないように約束させなければ――。
当然だと言わんばかりの顔でファリアスを見やれば、なぜか頭上から深いため息が降ってきた。
「また君はそんな突拍子もないことを……。君にそんな危ない真似をさせるわけがないだろう。いくらお人好しとは言え、自ら危険なことに首を突っ込むな! この無鉄砲バクめ」
苦々しい顔でじろりとにらみつけるファリアスに、リネットは口を尖らせた。
「む……無鉄砲バクとはなんですかっ! バクとしては悪夢の後始末だって仕事のうちですし、これでもファリアス様の専属バクなんですし……」
けれどファリアスは長いため息を吐き出すと、ゆるゆるとあきれたように首を横に振った。
「私には、雇用主として君の身の安全を図る義務がある。あいつの処理は私がやる。だから君は大人しくしていてくれ……」
「そんなぁ……。ファリアス様、過保護じゃありません?? 私だってこう見えて立派な大人だし力にも自信あるんですから、心配無用ですっ」
けれどファリアスは頑として首を縦に振らなかった。
「私をどこぞの子に甘い馬鹿親のように言うのはよせ! そう言えばこの前ゴドーも言っていたぞ。君が皆の仕事を手伝ってくれるのはありがたいが、もう少し自分の休憩もしっかり取ってくれないと心配だ、と……。夢だって放っておけば毎日でも食べるなどと言い出すし……。そのうち倒れるぞっ!? いくらなんでもお人好しが過ぎる!」
「そんなぁ……!」
いつしかカインへの怒りなどそっちのけでぎゃあぎゃあと言い合いをはじめたリネットとファリアスを、招待客が驚きの顔で見つめていた。ともすると冷淡すら映るファリアスが、こんなにも表情豊かに楽しげに話すなど実に珍しいことだったから。
周囲のそんな驚きなど知る由もなく、パーティの夜はにぎやかに更けていくのだった。