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 ラスコトールの意識世界は、静寂に満ちた水の中のようだった。

 まるで深海の底のような冷え冷えとした静かな空間に、時折水の泡が弾ける音だけが響く。


(なんだか沼の中……みたいな。なんて暗くて寒いんだろう……)


 リネットは暗い水の中を、身を震わせながらゆっくりと進んだ。


(意識の中を探れば、ラスコトールがベイラのお母さんを殺した証拠か何かを見つけられるかと思ったんだけど、一体どう探せば……。証拠があれば、ベイラだってきっと目を覚ましてくれるかと思うんだけど……)


 しばらく進んだ先に、突然それは現れた。


 藻のようなものに全体を覆われた長方形の大きな箱が、暗がりの中にぽつんと置かれていた。よく見れば、それは棺だった。しかも蓋がわずかに開いている。


(ど……どうしよう……? 棺ってことは、中に入っているのは……)


 おそるおそる中をのぞき込めば、水にぐっしょりと濡れた少女の亡骸が横たわっていた。

 思わず声にならない悲鳴を上げ後ずさる。


 その瞬間、すでに物言わぬ少女の口から水の泡がコポリ、コポリ……とあふれ出した。


(……!?)


 リネットは、その泡の中にラスコトールの思念の欠片――遠い日の過去の記憶を見たのだった。



『姉さんっ‼ 誰か……! 誰かっ、姉さんが……! 助けてっ‼』


 緑が生い茂る森の中、小さな水辺に立つほっそりとした少女とまだ幼い少年の姿。

 少女が何事かをわめきながら少年の方へ手を伸ばした。その直後――。


『……っ!?』


 少女が手を前方に不自然に伸ばしたままバランスを崩し、水の中へと倒れ込んだ。辺りに水音が響き、少年が叫ぶ。


『誰か……! 助けてっ、姉さんが……、水に……!!』


 水中へとずぶずぶと沈んでいく少女に、必死に手を伸ばし助け出そうとする小さな少年。けれどしばらくすると少年の顔つきが変わった。仄暗い色をにじませたその目で少年は少女をじっと見つめ、そして――。


 ぐっ……!


 少年の手が今にも水底へと沈み込まんとする少女の頭に伸びた。手で頭を押さえつけられ、少女が苦しげにゴボゴボと声にならない叫びを上げる。その口の中にどんどん水草や藻とともに水が流れ込んでいき、そして――。


『ゴボッ……! カハッ……!! 助けっ……!! ……っ!!』


 しばらく手足を激しくばたつかせもがいていた少女の体からふっと力が抜けた。そして、驚愕と絶望に目を大きく見開いたまま暗い水の底へとのみ込まれていったのだった。


 それを少年はただじっと見ていた。どこかその顔に安堵の色を浮かべて――。


 場面が、どこかの家の中へと切り替わった。

 すすり泣く大人たちの中で、あの少年が真っ黒な服に身を包み立っていた。


『なぜ……なぜあの子がこんな姿に……! あんなにかわいらしい大事なあの子が……死んでしまったなど……。ふっ……うぅ……‼ ラスコトール! お前が……お前が身代わりになればよかったのだっ。あの子の代わりに、お前が……‼』

『あなたがあの子を助けてくれていたら、あの子は死なずに済んだかもしれないのに……! どうしてあの子だけが……‼ どうしてあなただけが助かったのっ! ラスコトール‼』


 冷たい躯となった娘の体をかき抱き、両親が泣き叫ぶ。

 それをただ黙って聞きながら、色のない表情で立ち尽くす少年の姿。


 娘の死に絶望するあまり両親は何度も何度も繰り返す。なぜこの子がこんな冷たい水の中で死なねばならなかったのか。なぜ死んだのがお前ではなく姉なのだ、と――。


 リネットは悟った。

 これは幼い日のラスコトールの身に実際に起きた出来事なのだ、と。


 水の中に、幼いラスコトールの心の声が響く。


『僕じゃない……! 僕が殺したんじゃないっ! 姉さんが悪いんだ……。姉さんが僕を殺そうとしたから……僕は姉さんから逃げようと……!!』

『姉さんが先に僕を殺そうとしたんだ……。僕は逃げただけだ……。なのにどうして……! 僕のせいじゃないのに……。僕のせいじゃ……』


 コポコポコポコポ……。ゴボッ……!!


 暗い水の中に、泡が弾ける音が響く。


 リネットには、水の中に少女が落ちていくその間際、少女はラスコトールの首を絞めようとしていたように見えた。幼い弟、ラスコトールを殺そうとしていたように。

 ラスコトールの心の声が真実ならば、ラスコトールは自分を殺そうとする姉を排除したのかもしれない。その結果、殺してしまったのかもしれない。


 姉と弟に何が起きていたのか、なぜそんな歪な姉弟関係だったのかはわからない。けれど両親の言葉を聞くに、おそらくラスコトールは両親からろくに愛情を受けずに育ったのだろう。両親は姉だけを愛し、ラスコトールは愛されなかった。


 もしかしたらその歪んだ家族関係が、ラスコトールの心を大きく歪ませてしまったのかもしれなかった。そして大人になったラスコトールは、おそろしいほどの支配欲と歪んだ愛情への渇望を抱いた悪魔に生まれ変わってしまったのだ。

 

 リネットは、モフモフの体をぶるりと震わせた。


 きっとラスコトールが心の歪みを正せる日は、もうこない。これほどの暗い闇に覆われた世界で生きてきてしまっては、もはや自分の力も及ばない。そう思った。


(……でも、もうこれ以上ラスコトールの好きにさせるわけにはいかない。なんとしても……なんとしても、ここで悪夢を終わらせなきゃ……! そのためには何か証拠を……。ベイラがどうあっても真実を信じざるを得ないような、証拠を……!!)


 その時だった。水中に響いていた少年の幼い声が、次第に現在のラスコトールの声へと変わった。


『姉さん……。どうして僕を殺そうとしたんだ……。僕は悪くない……。僕のせいじゃないんだ……。そうだ……。私は悪くない……。あれもレイナルドも、すべて私のものだ……』

『なぜ私から逃げ出そうとする……? なぜだ……なぜ……。許さん……。絶対に失うわけにはいかぬのだ……。お前もレイナルドも……。手を離したらきっといなくなってしまう……。姉のように……きっと……。だから……』


 またも場面が切り替わった。

 目の前に、まだ少女だった頃のベイラがいた。苦しげに息を吐きながら横たわる母親らしき女性のかたわらにとりすがり、泣き叫ぶ。


『お母さんっ……! お母さん……、ごめんなさい……。どうしても治療費が払えないの……。本当は薬を買うはずだったのに……お金が足りなくて……。一体どうしたら……。このままじゃお母さんが……!』


 自分を責めるベイラの手を、母が力なく握る。けれどその顔は、今にも命の火が消え入りそうに見えた。

 そこにラスコトールが現れたのだ。ラスコトールが泣きむせぶベイラの手を握り、優しく語りかける。


『このまま放っておけば、君の母親は苦しみ抜いて死ぬ。けれどもし君が私に忠実に仕えると約束してくれるなら、私が君のお母さんを助けてあげよう』

『え……? 助けて……?』

『あぁ。私ならば力になってやれる。たとえ病が治らなくても穏やかな生をまっとうできるくらいに、苦しみを取り除いてあげられるのだ。そうはさせてやりたくはないかね……?』


 ラスコトールのその申し出に、ベイラの目に希望が宿った。


『……その代わり、君のその魔力を私のために使うんだ。いいね? ベイラ……』


 差し出された手を、ベイラは涙を浮かべ取った。その目に信頼の色をにじませて。


 けれどリネットは、次の場面でラスコトールのおそろしい所業を見たのだった。


 ラスコトールが、病室で眠るベイラの母親を無言で見下ろしていた。次の瞬間――。


『……ぐっ!? ……っ!!』


 ベイラの母親の口元を、ラスコトールが抑え込んだのだ。突然息ができなくなった母親が顔を恐怖と驚きに歪めていると、ラスコトールはその腕に薬を打ち込んだのだった。


 ベイラの母親の顔が苦痛に歪んだ。わずかにラスコトールの手が口元から外れ、母親のか細い声がこぼれ落ちた。


『ベイラ、私の光……。私の……大切な娘……。ベイラ……』


 そうつぶやいたきり、ベイラの母親は体を一度大きく震わせそして動かなくなった。


 リネットは目の前に目まぐるしく映し出された光景たちに、言葉を失った。

 ラスコトールがベイラを味方に引き入れるまでにしてきたこと、そのすべてを理解した。


 と同時に、なぜかリネットの頭の中にベイラの母親の思念が流れ込んできたのだった。


(これは……ベイラのお母さんの言葉……? もしかしてこれを、ベイラに伝えてほしいって言ってるの……?)


 それはもしかしたら、ラスコトールに殺されたベイラの母親の強い思念だったのかもしれない。どうしても娘に伝えてほしいと願う、母親の強い思い。それが今ここにいるリネットに届いたのかもしれなかった。


 その奇跡に、リネットは覚悟を決めた。


(……わかったわ。必ずこの言葉をベイラに伝える……! これを伝えたら、ベイラだってきっとわかってくれるはずよ……! これが真実なんだって……。お母さんを殺したのがラスコトールで、ずっと利用されてきたんだってこと! そうと決まったらすぐに戻らなきゃ! 戻って、ベイラに今すぐお母さんの残したこの言葉を伝えてあげなくちゃ!!)


 リネットは全速力で暗い水をかき分け、急ぎラスコトールの闇の世界から現実へと戻ったのだった。


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