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 それから数時間がたち、ファリアスは猛烈に後悔していた。事態を考えればこれが最善の道だったとはわかっている。が、それでも何か他の方法はなかったのかと考えずにはいられなかった。


「オボエェェェェェッ……‼ うぐっ! ウボェェェェッ……‼」


 絶え間なく繰り返す波。べっとりと髪をベタつかせる潮風。凍えるほど冷たい夜風に吹かれながら、甲板から頭を突き出す。


「ははははっ! 大丈夫かいっ? 兄ちゃん! おっと、あんまり体を乗り出すなよ? 海に落っこちでもしたらさすがに命がないからな! あっはっはっはっ‼」


 船長の威勢のよい野太い声に、よろよろと顔を上げる。


「バイランドまでは……うぷっ! あと……どのく……どのくらいかか……る……?」


 弱々しい声に、船長はしばし考えこみ答えた。


「そうさなぁ……、全速力でかっ飛ばして、あと六時間であんたの想い人が乗ってる船に追いつくかどうか、といったところかな」

「……六……時間……」


 絶望的な返事に、ファリアスは甲板の上にだらりと寝っ転がった。

 ふと疲れた体を投げ出して目を開いて見れば、頭上には見たこともないほど満天の星空が広がっていた。どこまでも広がる濃紺の闇に数えきれないほどの星が瞬き、ちっぽけで無力な自分を見下ろしていた。その壮大な輝きに思わず吐き気も忘れ見入った。


「リネット……。君も……見ているか……。まもなく追いつく……。きっと追いついてみせるから……。待っていてくれ、リネット。必ず君を……君を絶対に救い出してみせるから……。だから待っていてくれ……」


 不意に視界が歪んでいく。それが自分の涙のせいだと気がついた時には、もう目の端から雫が伝い落ちていた。


「なんで……泣いてるんだ……。私は……。いい年をして……情けない……」


 なぜ自分が泣いているのかもわからないまま、ただ流れるに任せていた。どうせこんな大海原の上、誰も見てはいない。この船に乗っているのはあの船長と、オットーの仕事仲間だというデルゲンという大男。そして幾人かの船夫だけだ。


 無性に会いたかった。リネットの快活で太陽のように輝く笑顔が見たかった。誰かを特別に思うというのは、こんなにも感情を激しく揺り動かすものかと驚く。リネットが自分をどう思っているのか、この先も雇用主と秘書としての関係以上にはなり得ないのかなんてこと、今はどうだって良かった。


(リネットが無事ならそれでいい……。ただ無事で、そばで笑っていてくれたらそれだけでいいんだ……。リネット……。君のことが……大切でたまらないんだ……。君に……会いたい……)


 バイランドへと船はひた走る。リネットの乗った船を追いかけて、リネットを助けたい一心で涙を流すファリアスを乗せて夜の海を全速力で走るのだった。


 しばらくして目を開けてみれば、すっかり吐き気は治まっていた。多少はましな気分で甲板に出てみれば、ほんの少し空の色が夜から朝へと変わりはじめていた。


「おっ? ずいぶん顔色が良くなりましたね。ファリアスさん。これでもどうぞ。すっきりしますよ」


 そう言ってデルゲンが手渡してくれたのは、一杯の果実水だった。酸味のある果汁がたっぷり入ったそれは、まだ少しぼんやりとしていた意識をすっきりと目覚めさせてくれた。


「……あと数時間でリネットちゃんの乗った船に追いつくはずですよ。ただあちらはとんでもない大船ですからね。乗り移るなんてことはもちろんできませんが……。でも港でもしかしたら追いつけるかもしれません」

「そうか……。ありがとう。デルゲン。まだ礼を言っていなかったな。君がいなかったら、きっと今頃まだ屋敷でじりじりとしていたはずだ。本当にありがとう」


 ばたばたと乗り込んで間もなく気持ち悪さに襲われ意識が飛んでいたせいですっかり礼が遅くなったことを詫びれば、デルゲンが笑った。


「いやぁ、こっちこそいつどうやって恩を返そうかと思ってましたからね。それに礼なら船長に頼みます。あの人は実に気のいい海の男でね。出会った時はどうなるかと思ったが、今ではこの縁に感謝しているくらいで……。人生というのは、どこにどんな運命の出会いが転がっているかわからんものです」


 デルゲンは夜空を見上げ、続けた。


「大切な人との縁は、光みたいなもんですよ。希望も喜びもなくした先でやっと見つけた一筋の光みたいな、ね。私にとっての光は、愛する家族や船長、オットーたちだった。そのおかげで今もこうして生きているんですから……。その人たちのためなら、なんだってしますとも!」

「……光、か。あぁ……、本当にそうだな……」


 脳裏にリネットが浮かんだ。それを見透かしたように、デルゲンが微笑んで続けた。


「……きっとあなたにとっては、リネットちゃんがそうなんでしょう? なら、命に代えても守りきらなくちゃいけませんね」


 デルゲンのそのあたたかな声に、無言でうなずいた。


 何度も何度も自分の身を削るようにして悪夢を食べてくれ、心の奥底にずっと隠し続けてきた寂しさや苦しみまでその光とあたたかさで救い上げてくれたリネット。すこんと突き抜けたようなあの笑顔で周囲全部を明るく照らし出し、気づけば皆リネットのとりこになっていた。もちろん自分もそのひとりだった。今はもう、リネットがそばにいない生活など考えられない。


「不思議だな……。この私がこんな気持ちになるなど……。誰にも関心もなく、ただ淡々と仕事だけをして人生を過ごしていくもんだとばかり……。でも今は……」


 頭上に瞬く満天の星に、視界がにじんだ。


「あぁ、その通りだよ……。リネットが大切なんだ……。だから絶対に守り抜きたいんだ……。だから必ず連れ戻す……! 必ず無事に……、リネットを……‼」


 そう固く決意して、リネットの待つ海の向こうを強いまなざしで見つめたのだった。


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