【case .6】ぐるぐる迷路と恋心−1
その日リネットは、バクの森の一画でうめき声を上げていた。
「ううううーっ……! も……もうっ……、無理……!! これ以上はとても……息ができ……ない……!! マダム……私、死んじゃいます……」
「まったくもう! これしきの締めつけに音を上げるなんて、だらしないわよっ。リネットちゃん!」
「で……でも〜……! コルセットって……こんなに、苦しいもの……なんですね……。ぐえっ……!」
息も絶え絶えに弱音を吐くリネットに、マダムがあきれたようにため息を吐き出した。
「やれやれ、こんな調子で本番は大丈夫なのかしらね……? せっかくあの唐変木と並んで花嫁姿を披露する、とっておきの晴れ舞台だっていうのに」
「ぶほっ……!! ごほっ……!! マダム、別にこれはあくまでお仕事の一環であって、本当の結婚式なんかじゃなくてですねっ……!!」
ふと見れば、鏡の中に真っ白なドレスを身にまとい真っ赤に顔を染める自分が映っていた。
幾重にも重ねられた上質な絹とレース、その上には窓から差し込む日光をキラキラと反射してきらめく石が散りばめられている。髪もいつになく大人っぽくまとめ上げられ、唇も美しく彩られている。
(まさか私がこんな格好をする日がくるなんて……。ウエディングドレスなんて、一生縁がないと思ってたのに……)
このドレスもメイクも小物類もすべて、マダムが用意してくれたもの。ドレスだって、美の追求に普段から余念がないマダムが自らデザインし一流の職人たちが仕立てたのだから素敵じゃないはずがない。けれどまさかそれを自分が身につけ、ファリアスの隣に立つことになるなんて――。
「ふふっ! とっても似合ってるわよ。リネットちゃん」
「そりゃあマダムの渾身のドレスだもの。素敵に決まってます。けど……」
事の起こりは、少し前にミルジアからファリアス宛てに届いた手紙。バクの森で新たにウエディング事業をおこすに当たって、宣伝代わりにファリアスとリネットの模擬挙式を盛大に行ってみてはどうか、と提案されたのがはじまりだった。
それを聞きつけたローナが『絶対にやるべきよっ! なんなら私も協力するわっ』と話に飛びついたのだ。それに賛同したユイール家の面々やらマダムたちの間で気がつけば話はどんどん進み、あっという間に模擬挙式を執り行うことが決まったのだった。けれど――。
「やっぱり私には、無理ですっ! 皆の前にこんな格好で出るなんて……、私には結婚なんて誰よりも縁遠いのに……!!」
不安と混乱のあまり泣きつくリネットを、マダムが生温い目で見やった。
「リネットちゃん。今は何も考えず、ただあの坊っちゃんの隣で笑ってればいいのよ。いいこと? 花婿と花嫁にとって、結婚式はとても大切な一日なの。大好きな人とこれから幸せになるんだって心を決めて、最初の一歩を歩き出すんだもの」
マダムの手がそっとベールをかけてくれた。その顔は慈愛に満ちていてとてもあたたかい。
「長い人生の先には、とても乗り越えられないと思えるような荒波も待ち受けているかもしれない。闇に覆われて光なんてどこにもないように感じられることだってあるかもしれない。でもこの人とならきっと乗り越えていける。結婚って、そう信じて一歩一歩進むものよ」
「光……」
「えぇ。明日はそんな気持ちで臨むといいわ。そんなリネットちゃんの姿を見たら、きっと皆自分もそうなりたいって心から憧れるはずよ。ここで自分も大好きな人と、幸せな一歩を歩み出したいって」
鏡の中の自分を見つめるその眼差しと言葉に、じんと胸が震えた。
(そっか……。結婚って光を信じて一緒に進んでいくことなんだ……。なんて素敵なんだろう……。バクの森が誰かのそんな大切な一歩踏み出す場所になったら……いいな……)
もちろんいつか自分にもそんな幸せな日が訪れたらいい。けれどそれにはまず、自分の気持ちをファリアスにまっすぐに届けるのが先だ。その覚悟は今の自分にはまだない。それより今は、バクの森が誰かのスタートの場所になれるのならそんなに素敵なことはない。
「はい……! そうですよねっ。私たちの姿を見て皆がバクの森で挙げるウエディングを想像してくれたら、きっと素敵ですもんねっ!! 見てくれたお客さんたちにそう思ってもらえるように、頑張りますっ。私!」
「え……えぇ。が、頑張ってね。……まったくこの子ったら自分のことより人の幸せなんて、ほんと欲がないんだから」
「ん?? 今何か言いました? マダム」
「いいえ、なんでも!」
何やらマダムがごにょごにょと言っていた気もするけれど、まぁいい。今は明日の成功だけを考えよう。だって明日の模擬挙式が成功したら、きっとバクの森はもっともっと幸せあふれる場所になるはず。それはファリアスが思い描いた理想の姿にもまた一歩近づくことになるのだから――。
リネットは覚悟を決め、ぐっと拳を握りしめたのだった。
パンッ! パアアアアァァァンッ!!
晴れ渡った空に浮かぶ、大小さまざまな白黒のバクのバルーン。そして高らかに響く祝いのクラッカーの音。客たちは、突然にはじまったバクの森の広場での挙式に大きな歓声を上げた。
「見てっ! あのドレス、とっても素敵ねぇっ! マダムロザリーのデザインらしいわよ!?」
「ええっ!? いいなぁ。私もマダムがデザインしたドレス着たいっ。憧れちゃうっ」
「ん? あれは確かここを作ったっていうユイール社の御曹司じゃないか? おぉっ、それに花嫁さんは相談所のバクさんじゃないかね! そのふたりが結婚とは、こりゃめでたいっ!!」
「まったくですねぇ、おじいさん。まさかこんな幸せな場に居合わせるだなんて、よかったですねぇ」
これが模擬挙式であることなど知る由もない客たちは、一体何事かと驚きと好奇に目を輝かせ突然にはじまった華やかな挙式を見守っていた。
たくさんの観客の視線を浴びながら、リネットはいつにも増して美麗なファリアスと腕を組み広場をゆっくりと練り歩いた。
「リ……リネット、次はあっちの客たちにもよく見えるようにぐるっと回ってから、次に指輪の交換をするからな!」
「は、はいっ! わかりましたっ」
ヒソヒソと打ち合わせの内容を確認しながら、式を進行していく。
慣れないかかとの高い靴とドレスで歩くだけで精一杯で、とても隣に立つ正装姿のファリアスの姿などを堪能する余裕などない。けれどその方がいいに違いない。もし直視でもしてしまったら、間違いなく挙動不審になるに決まっているし。
そんなふたりを、舞台の袖でマダムとアニタが心配そうな顔で見守っていた。何しろふたりとも緊張と不安とで動きはカチコチ、まるで機械仕掛けのおもちゃのよう。
思わずマダムは声をひそめ、ふたりに向かって指示を出した。
「ちょっと! あんたたち、もうちょっと笑いなさいよっ。新郎新婦がそんな硬い表情をしてたら、ちっとも幸せそうに見えないでしょうがっ。それに唐変木っ。もっとしっかりリネットちゃんの腕を握って見つめなさいっ。最愛の花嫁が隣にいるのよっ!」
けれど実際のところ、ファリアスはちらちらと落ち着かない様子でドレス姿のリネットに表情筋をだらしなく緩めていた。リネットの花嫁姿は妄想をはるかに超える可憐さで、ファリアスに襲いかかる。少しでも気を抜けば鼻血が出かねないほどに。
そしてようやくほんの少し辺りを見渡す余裕の出てきたリネットはと言えば。
(ええっ!? なんでお父様とお母様までいるのっ!? ディルったら今にも泣きそうな顔してるしっ。しかもあっちにはローナ様にホランド様、ギリアム様までっ!! あくまでこれは模擬で仕事なんだからこないでって言っておいたのにっ!!)
注がれる熱い視線に戸惑いを感じつつ、ふと隣のファリアスを見上げ今度は悶絶した。
(ファリアス様、なんて素敵なの……。もとから美麗だけど、こういう格好をすると余計に引き立って……。あぁ、ほら! お客さんたちも皆ポーッと見惚れちゃってるし! うわぁ……どうしよう! なんだかまた緊張してきちゃったっ!!)
恋する乙女としては、できることならば観客のひとりになってじっくりと観察したい気持ちでいっぱいである。けれどこうも密着して隣にいると、自分の気持ちが見透かされそうでとてもではないが直視なんてできない。と考えれば、ベール越しにちらと見るくらいがちょうどいいのかもしれない、なんて思うリネットである。
けれども我慢しきれずもう一度隣を見上げれば、ぱちり、とファリアスと視線がかち合った。
「「……!!」」
これ以上ないほどに真っ赤に染まった顔でしばし見つめ合い、慌ててうつむくふたりの姿。たまらず手に持っていたブーケで顔を覆い隠し頬を染めるリネットと、そんなリネットを見つめ思わず宙を仰ぐファリアス。
ふたりから漂うあまりにも甘酸っぱい空気に観客たちは思わず感嘆のため息をもらし、バクの森は大きな歓声と拍手に包まれたのだった。
その光景を、少し離れた木陰から真剣な眼差しで見つめる青年がいた。顔に悲壮な決意と焦りを浮かべて。
そして翌日青年は、一世一代の覚悟で夢バク相談所の戸を叩いたのだった――。




