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「リネットちゃん、これ私が編んだ靴下なの。夜は足元が冷えるでしょう? 良かったら使ってちょうだい」
「今日のおやつは、料理長自慢のコンポートらしいぞ。リネットちゃんが厨房を手伝ってくれるお礼にって、張り切ってたよ!」
「リネットちゃんが高いところのお掃除を手伝ってくれて本当に助かったわぁ。年のせいか、どうにも肩が痛くて……」
「いえっ! そのくらいのお手伝いならいつでもどうぞっ。夜以外は暇を持て余してますし!」
一言で言ってユイールのお屋敷は天国だった。仕事は楽ちん、他の使用人たちは皆ファリアスが幼少の頃から仕えている者たちばかりで、皆リネットを孫のようにかわいがってくれるし。そのお返しにとリネットは、年寄りには厳しい高所作業や力仕事なんかを引き受けて回る日々だ。
唯一問題があるとすれば、ファリアスが自分にだけよそよそしく塩対応過ぎることくらい。そしてあの噂はやっぱり本当だった。ただ、帰宅したファリアスの体からはただの一度も酒や香水の香りも、なんなら食べ物の匂いさえ漂ってきたことがないことが不思議ではあったけれど。
そんなある日のこと、ファリアスを出迎えに出たリネットは異変に気がついた。
「お帰りなさいませ、ファリアス様。何かあたたかいものでもお持ちいたしますか?」
今日は少し肌寒い。もしかしたら夜風で冷えた体をあたためるものを欲しがるかもしれない。けれどファリアスは、首をゆるゆると首を横に振った。
端正な顔立ちに切れ長の涼し気な目元、額にサラリと流れる艶やかな黒髪。人を容易に寄せつけないどこか冷たさを感じる風貌は、思わず見惚れてしまうほど美しく整っている。けれど今それ以上に目を引いているのは顔色の悪さだった。心なしか目にもいつも以上に生気がない。
(いつにも増してくまもひどいし、大丈夫かしら……。なんだか足元もおぼつかないような……)
日に日にやつれていく主にさすがに不安を覚えはじめていた。けれどファリアスはいつものように何の感情も見えない顔で首を横に振った。
「……いや、もう下がっていい。ご苦労だった」
もう用はないと言わんばかりのその態度に、リネットはぐっと言葉をのみ込んだ。
「……はい。では、失礼いたします。おやすみなさいませ、ファリアス様」
仕方なくリネットは部屋をあとにして、寝支度を整え静かにシーツにくるまるとぽつりとつぶやいた。
「日中はずっと仕事で、夜はベッドで寝た形跡もない。お酒や女遊びではなさそうだけど、どうしてあんなにふらふらになるまで出かけるのかしら……。そのうち倒れなければいいんだけど……」
そして、ゆっくりとまぶたを閉じたのだった。
翌日、リネットはふとあることを思いついた。あんなに顔色が悪いのだからきっと疲れが溜まっているに違いない。なにせろくに眠りもせず毎晩出歩いているのだから。ならば何かちょっとしたものをこっそり差し入れしてみよう、と。
「おかえりなさいませ。ファリアス様」
帰宅したファリアスを出迎えたリネットは、命に従いいつも通りすぐに自室へと下がった。サイドテーブルに、ノーマ家特製ドリンクの入ったグラスと『ノーマ家特製の元気の出るドリンクです。よろしければお召し上がりください』というメモと一緒に置いて。
とはいえまだ信用していない新入りメイドの勧めた飲み物なんてあやしんで手をつけないかもしれない、なんて思っていたのだけれど――。
「あっ……! なくなってる……」
翌日空になったグラスを見つけ、リネットは思わずにんまりとした。そしてつい調子に乗り、今度は手製の焼き菓子を置いてみた。家族や友人たちからおいしいと評判ではあるが、涼しげという表現をはるかに通り越して冷徹にも見えるあのファリアスが甘い菓子なんて食べるのかは少々疑問だったけれど。
翌朝、テーブルの上を見たリネットは目を丸くした。
「なくなってる……! 食べたんだわ、ファリアス様……」
なぜだか嬉しくなったリネットは、またしても調子に乗った。ある時は気分がすっきりすると評判のお茶を、またある時はリネット自慢の軽食といった具合に――。そしてやっぱりそれらは、翌朝にはきれいになくなっているのだった。
そんな日が続いたある日のこと。
「……おかえりなさいませ。ファリアス様」
リネットはいつもより少ししょんぼりとした面持ちでファリアスを出迎えた。今日は手伝いや何やらで忙しく差し入れを用意できず、サイドテーブルの上には何も置かれていない。それがなんとも残念で。
「あぁ……」
ぼそりと答えたファリアスの目が、ほんの一瞬ちら、とテーブルの上に向いた。そして、目に見えて眉尻がへにょりと下がったのを見て、リネットは目を瞬いた。
(えっ! 今ファリアス様、ちょっとがっかりしなかった? もしかして毎日楽しみにしてくれてた……とか?)
もしかしたらただの見間違えかもしれない。けれどもしそうだったら――。
それ以来、どこか餌付けのようにも感じられる差し入れはすっかり恒例になった。リネットも何も言わなかったし、ファリアスもこれといった反応は返してくれなかったけれど。そんなやり取りがすっかり楽しみにすらなっていたある日のこと、しとしとと雨の降る晩に事件は起きた。
こんな雨の日にそんなひどい顔色で出かけなくても、と言いたい気持ちをぐっとこらえていつものようにファリアスを送り出したリネットは、玄関の方から聞こえた音に立ち上がった。
なんだか嫌な予感がして慌てて階下へと降りていったリネットが目にしたものは、床にぐったりと倒れ込むファリアスの姿だった。
「ファリアス様っ……⁉ どうなさったのですか?」
慌ててそばへとかけ寄ったリネットは、これはただ事ではないと判断しひとまず誰かを呼ぼうと立ち上がった。けれど何かに引っ張られた気がして、激しくつんのめった。一体何事かと見下ろしてみれば、なんとファリアスが自分のお仕着せを強くつかんでいた。
「えっ⁉ ちょ、ファリアス様っ? えっと、今ゴドーさんを呼んで……」
けれどそれを必死に引き止めるようにファリアスは首を振り、声を絞り出した。
「……んだ。ね……から……くれ」
「えっ? なんですか?」
「……い……。もう……限……界……だ。ベッ……ドに……。眠……い……」
「……眠い? え……?」
「頼……む。支え……て、く……れ……。体がもう……言う……こ、と……を聞かな……いん……だ……」
そう言うとファリアスはもつれる足でゆらりと立ち上がり、階段を昇りはじめたのだった。慌てて追いかけたリネットはその体を支え、ようやくファリアスの自室へとたどり着いた。
「大丈夫ですかっ? もう少しでベッドですから、もうちょっとだけ頑張って……」
そしてそのままスイッチが切れたかのようにベッドに倒れ込むと、あっという間に眠りに落ちてしまったのだった。 その瞬間、リネットは驚くべきことに気がついた。
「……これってもしかして……悪夢の匂い!?」
目の前で苦しげにうめきながら眠りにつくファリアスから匂い立つ、かぎ覚えのある匂い。それは紛れもない悪夢の匂いだった。
「くっ……! ううぅっ……」
(うーん……。苦しそうだなぁ……。夢を食べてしまえばきっと安眠できるとは思うんだけど、でも一切干渉するなって契約だし……。もし破ったら首だって言われてるしなぁ……。でも……)
夢というのはその人の内面の現れだ。他人が簡単に足を踏み入れて良いようなものじゃないし、許可もなく入り込むことなど許されるはずもない。でも果たしてこんなに苦しげにうめき続けているファリアスを、放っておいていいものか。
「……」
遵守しなければ首、けれど目の前で苦しんでいるファリアスを残して自分だけすやすや眠れるかと言われれば、それはやっぱり――。根っからのお人好し一家に生まれついたリネットが、この状況で後者を選べるはずもなかった。
リネットは小さく嘆息すると、ファリアスの夢を食べるためにその中へと入り込んだのだった。