【case .4】未亡人の自分探し−1
コポコポコポコポ……。カチャリ……。
「あの……それでご主人が病気で亡くなられて以来、眠れずに困っているとのことですが……。愛するご主人がいなくなって、さぞお寂しいのでしょうね……。お気持ちお察しします……。ですが私は夢や眠りに関するお悩みには乗れますが、夫婦関係のあれこれについてはちょっと……」
リネットは目の前の憂鬱そうな顔をした婦人を、ちらと見やった。
年はおそらく五十過ぎ。身なりはきちんと整えられているし、身に着けている服も貴金属も上質、裕福な暮らしぶりに見てとれる。けれどその顔はどうにも沈鬱で、とても幸せそうには見えない。それもそのはず、数か月前に長らく病床にあった伴侶を亡くしたばかりなのだという。
子どももおらず、今はひとりで広いお屋敷で寂しく暮らしているとなれば、眠れない夜が続いているのも十分に理解はできた。
けれどバルデットと名乗るその夫人の相談内容は、夢や眠りとはまったく無関係なものだった。
「別に私は、寂しいからっていう理由で眠れないんじゃありませんわ……。そりゃ確かに長年連れ添ってきた夫がいなくなってまったく平気とは言いませんけど、でも……夫はとてもわがままで横暴な人でしたから、正直に言えばせいせいしてもいるんです。ですから、あなたに相談したいのはあくまで今後の人生をどう過ごしたらいいかってことであって、眠れないことについてなんかじゃありませんわ!」
リネットはもう幾度となく繰り返しているその会話に、そっとため息を吐き出した。
「えーと……ですから何度も申し上げている通り夢や眠りについてのご相談には乗れますが、それ以外のこと……特に夫婦関係や人生にまつわるご相談などは未熟者の私ではとてもお力になれないと……」
なぜかバルデットは、リネットに今後の人生をどう生きればいいか、などという難問を持ちかけてきたのだった。けれどそんなこと、バルデットの半分もまだ生きていないリネットにわかるはずもない。まして恋愛や結婚にいたってはその辺のませた子ども以下の経験値なのだから。
よって先程から何度も繰り返し断っているのだけれど、なぜかバルデットは頑として引き下がらないのだった。
(困ったなぁ……。そういう内容ならむしろモリスンさんとかゴドーさんの方がよっぽど適任だと思うんだけど……。なんならマダムなんか人生経験豊富だし、お茶がてら行ってみたらって勧めてみようかしら……)
バルデッド夫人の結婚生活は、決して幸せとはいえなかったらしい。もともと親の決めた縁談相手でこれという愛もなく、その上夫はバルデッドの意思を無視して上から目線の命令ばかり。ささいな決め事すら自分の自由にならなかったのだとバルデッドは言った。
「おかげで気がついたら私は空っぽになってしまったんですよ……。何をするにしても夫の言いなりになっていたせいか、自分の気持ちや意思みたいなものがわからなくなってしまって……。食べるものも着るものも、自分が何を選べばいいのかさっぱりわからないんです……」
「はぁ……」
「もう夫はいないのに、残りの人生も自分の意思を見失ったままこのまま年を重ねていくのかと思ったら、私の人生一体なんだったのかしらって空しくて、悔しくて!」
リネットは目の前でぷりぷりと怒りをにじませるバルデッドに、ひどく困惑した。
確かにそんな人生を長く送っていれば、後悔も怒りも残るだろう。恨み言のひとつも言いたくなって当然だ。けれどそんなお悩みをここに持ち込まれたとて、一体どうしたらいいのか――。
困り果てたリネットは、おずおずと口を開いた。
「あの……さぞ大変なご苦労をしてこれまで頑張ってこられたのだろうとは思うのですが、あいにく私は結婚どころか恋愛の経験すらなくて、夫婦関係の問題には歯が立たないといいますか……。もしなんなら人生経験豊富な方を紹介いたしますので、その方に話を聞いていただいては……??」
するとバルデッドはそのふっくらとした体をこちらに向けて、にっこりと微笑んだ。そして。
「あら、そんなのわかってますよ! 私があなたにお願いしたいのは、私と一緒に自分を取り戻すためのあれやこれやをしてほしいんですの!」
「はい?? 自分を取り戻すための……あれやこれや??」
「それはね……」
翌日リネットは、ファリアスにひと月の休暇を申し出た。
「……ということでひと月の間、秘書のお仕事をお休みさせてください。相談者の依頼に付き合うのに、ひと月丸々かかりそうなので……」
「それはまたとんでもない依頼が舞い込んだもんだな。山登りに乗馬……、おまけに劇団の裏方仕事の手伝いだと……? 一体その夫人は、どんな残りの人生を思い描いてるんだ? しかもなんで君に同行を?」
「さぁ……。私にもさっぱり。ただ自分が若い頃に好きだったことや、やりたくても夫の反対でできなかったことを片っ端からやってみたいっておっしゃってましたけど」
「……」
バルデットの相談、それはなんとこれまで人生の中でやり損ねてきたさまざまなことをリネットに一緒に体験してもらいたいというものだった。
『ほら、これがその一覧ですわ! まずは手はじめに山登りがしたいわね。若い頃私は女性登山家に憧れていたんですよ。でも両親に反対されてしまって……。でもようやくひとり気ままに生きられるようになったんですもの。この際だから色々とやってみようと思って! あとは馬にも乗りたいし、それから……』
バルデットは、やりたいことを羅列した紙をリネットに手渡した。そこに書かれていたものはどれも驚くべきものばかりで、リネットは顔をひきつらせた。
『あ、あの……私山登りの経験もありませんし、馬にも乗ったことなんてないんですけど……。それにそもそもどうして私に……? もっと経験のある他の方の方が適任なのでは……??』
けれどバルデットはなぜかリネットにこそ頼みたいのだと言って聞かなかった。しばらく押し問答を続けた結果ついに根負けしたリネットは、この先ひと月の間バルデットに付きっきりで一緒に行動することになったのだった。
ファリアスがやれやれとあきれ顔でリネットを見やった。
「まったくこのお人好しめ……。どうせどうしてもと言われて断りきれなかったんだろうが……。まぁ秘書の仕事はなんとでもなるから、こちらのことは気にするな。だがくれぐれも無理はするなよ? 慣れないことをしてけがでもしたら大変だからな」
「わかってます……」
リネットとて、不安がないわけではない。正直に言えばお人好しだから断れなかったというよりは、バルデットの押しの強さに負けたといった方が正しいのだ。けれど一度引き受けた以上は、最後まで付き合うしかない。
リネットは腹をくくり、けれどこの先のひと月を思い思わず深いため息を吐き出したのだった。




