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そんな折、リネットに父から急な呼び出しがかかった。
「リネット!! 急いで戻ってきておくれーっ! 大変なことが起きたんだっ!!」
父からの知らせに一体何事かと慌ててノーマ家へと舞い戻ったリネットがそこで見たもの、それは――。
「お父様っ!! 一体どうしたのっ!? とんでもないことって……??」
「おおっ!! リネット! 来てくれたのかいっ! どうだっ、見てくれ! やっぱり私の思いは間違ってなかったよっ」
興奮した様子で涙をほろほろと流しながらそうむせび泣く父の隣に視線を向ければ、そこには見覚えのない浅黒い日に焼けたマッチョな中年男が立っていた。
「ええっと、どちら様……?」
「やぁ、リネットちゃん! すっかりきれいな大人の女性になっちゃって、驚いたな! 久しぶりにこうして生きて会えて嬉しいよ……!」
男はリネットを見ると、口をにかっと開いて白い歯をのぞかせた。そして感極まったように涙を流したのだった。
おいおいと泣くマッチョに困惑を隠しきれず、母へとすがるように視線を向ければ母も父と同じように目に涙を浮かべていた。どうやら父も母も既知の人物であるらしい。がリネットにはとんと覚えがない。
「そうか……そうか。私がいない間にこんなにきれいになって……。うん、うん。くうぅぅぅっ……! たった一年の間にまさかこんなに様変わりしているとは……! 」
一年ぶりということは、以前にも会ったことがあるということだ。ということは父の仕事仲間のひとりに違いない。けれどこんなに筋肉隆々の強そうな人物が果たしていただろうか、と首を傾げた。
「いやぁ、でも一番変わったのはお前だけどなぁ! 何しろ体なんかひょろひょろだったのに、今じゃ一回りも大きくなりおって! 最初見た時は間違いなく知らん客がきたと思ったからなぁ! まったく驚いたよ! あっはっはっは!」
「いやぁ、自分でもまさかあんな過酷な漁仕事ができるなんて思ってもなかったからなぁ! どでかい船に手荷物ひとつで乗せられて、一年は陸地に戻れないと言われた時には絶望したもんだが……はっはっはっはっ!」
そう言って父と男が親しげに肩を抱き合い、にかっと歯を見せて笑いながらリズミカルにうなずいたのだった。その仕草に、ふとある人物の記憶とがカチリ、と重なった。
「も、もしかしてあなたは……デルゲンさん!⁉ お父様と一緒に仕事をしてた、よく家にも花を持って遊びに来てくれてた、デルゲンさんっ⁉」
よく見れば、その目の形も笑い方も記憶の中のデルゲンと重なる。そう――、ノーマ家が借金生活に追われる原因を作った張本人、デルゲンという人物と。
「え……?? でもデルゲンさんってお父様よりもずっと体が細くて色も白くて、こんなに日焼けしたマッチョな人なんかじゃ……。それにどうして今になって……」
リネットの脳裏に、一年前の出来事がよみがえった。
『デルゲンが……夜逃げしたそうだ。生まれたばかりの子と妻に借金を残して……』
父からその知らせを聞いた時、絶対に何かの間違いだと思った。だってあの家族思いの心優しいデルゲンがそんなことするわけないって思ったから。けれど、その後デルゲンが新事業のためにと多額の融資をある金貸しに頼んでいたことが判明したのだった。
『そんな……そんな馬鹿なこと、あいつがするわけないっ。確かに事業に金が必要だったのは確かだが、そんな無茶な借り入れをするような考えなしな男では……! それに苦しめるとわかっていて、大切な家族を残してひとり逃げ出すなど……』
父はそう言って何度もその金貸し業者にかけあったけれど、デルゲンの姿はどこにもなく身の回りのものを持ち出した形跡があった。それをみれば、自らの意思で家を出ていったことは疑いようもなかった。
当然残された家族に、借金の責は及ぶ。けれどその頃デルゲンの子は生まれたばかりで病弱で、妻も産後の肥立ちが悪かった。それを不憫に思った父は代わりに借金を返済すると申し出たのだった。
そのデルゲンが一年の時をへて、目の前に現れたのだ。
信じられない気持ちで目の前の日に焼けた大男を見やれば、デルゲンは首をゆっくりと横に振った。
「違うんだ……。あれは……あれは逃げたんじゃないんだ。私はただ金貸しに騙されただけなんだ。……聞いてくれるか? あの時何が起こってこんなことになってしまったのか……」
そう言ってデルゲンは、この一年にあったすべてを語り出したのだった。
一年前のある時、デルゲンはある金貸しに事業資金の借金を申し入れた。とは言っても、決して無謀な借り入れなどではなかった。けれど生まれたばかりの我が子が病気になり、返済に苦慮していた時、その金貸しがある話を持ちかけたのだ。『たったの三ヶ月、とあるところで働けば借金を全額返済できる』と。
思い詰めていたデルゲンは、ついにそれに飛びついてしまった。そしてデルゲンは金貸しの指示通り、身の回りの最低限のものだけを持って指定の場所へと向かったのだが――。
「そこで出された茶を飲んだら、強い眠気に襲われてね。次に目を覚ましたら、そこはすでに出港済みの船の中だったんだ……」
デルゲンの握りしめた拳がふるり、と震えた。
「……陸地には一年戻らないと知って、絶望したよ。お前は給料前払いで漁師としてこの船に乗せられたんだと聞いた時には……」
それは、金貸しが考えた姑息な罠だった。
金貸しは、危険な海域での一年間の漁仕事にデルゲンを騙して送り込んたのだ。ほんの幾ばくかの紹介料と前払いの給料欲しさに。さらに借金額もごまかし、残された家族にとんでもない額の借金を背負わせようとしたのだった。
「それからはもう、生きるのに必死だったよ……。眠ることすら難しい大揺れの船の中で、何度生きることをあきらめそうになったか……」
けれど厳しいながらも海の仕事をするうち、ひょろひょろだった白い貧相な体は気がつけば硬い筋肉に覆われ、たくましい海の男になっていた。そして一年の航海をへて、命からがら戻ってきたのだった。けれど家へと戻ってみれば妻子の姿はなく、何か事情を知らないかと慌ててノーマ家へとかけ込んでみれば――。
「船の報酬も払われていないどころか借金まで増えていて……。しかもそれをオットーが肩代わりしてくれたというじゃないか……。それを聞いて私は……」
真相を聞き、怒りに体が震えた。
こんなにひどい話があるだろうか。金をこれでもかと二重三重に搾り取られ、危うく命まで失いかけたのだ。
「ひどい……。ひどすぎる……! 下手をしたらデルゲンさんは海で死んでしまっていたかもしれないのに……」
思わず叫んだリネットに、デルゲンは乾いた笑いを浮かべ首を振った。
「きっとあの金貸しの男は、私が無事に帰ってくるなんて思ってなかったんだろう。いかにも弱そうな私を送り込んだのは、死人に口なしを狙ったんだろうよ」
すると、父も怒りに震えながらうなずいた。
「おそらくデルゲンの言う通りだろう……。もし送り込んだ男が生きて帰ったら、どんな報復をされるか知れないからな……!」
そしてデルゲンは拳を握りしめ、ぐっとくぐもった声を振り絞った。
「家族を苦しめると知っていたら、そんな仕事を引き受けるものか……! それに君たちにも申し訳なくて……。本当にすまない……! どうか……どうか許しておくれ……‼ うおおおおおおんっ」
デルゲンの切なくやるせないむせび泣きがノーマ家に響き渡る。それにつられるように、私たちもあまりの悔しさとやるせなさにすすり泣いた。けれどそれと同時に、腹の底からメラメラと怒りが込み上げて腹が立って仕方がなかった。今すぐにでもその金貸しのもとに、すりこぎ棒片手に殴り込みに行きたいくらい。そしてそれは、皆同じ気持ちだった。
けれど父は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を乱暴に手で拭うと。
「……だがな、デルゲン! 何よりも私はお前がこうして無事に帰ってきてくれたことが嬉しい! よく……、よく生きて帰ってきてくれた‼ さぁっ! 後のことはまた皆で考えようっ。今はともかく再会を祝おうじゃないかっ! なぁっ、デルゲン‼」
そして父はほうぼうに声をかけ、デルゲンの無事な帰宅を喜ぶかつての仲間たちを呼び集めた。そしてにぎやかな祝宴がはじまったのだった。
ノーマ家はそれはもう飲めや歌えの大騒ぎで、悔し泣きはいつしか嬉し泣きに変わっていた。男たちはおおいに飲み笑い、がっしりと肩を抱き合いまた泣きむせぶ。それを、母が涙を拭いながら見つめ微笑み、ディルはずっと友人の無実を信じていたお人好しの父親を誇らしげに見つめていた。
ただただ嬉しかった。お人好しな父の思いが報われたことも、デルゲンがこうして無事に戻ってきてくれたことも。
「お父様はずっと信じていたの。誰に何を言われてもお人好しだって笑われても、きっと帰ってくるって。……その通りになったわね! デルゲンさん、本当におかえりなさい……!」
デルゲンが戻ってきてくれたことも、父の思いが報われたこともとても嬉しく、そんな父のことが心から誇らしかった。
「リネットちゃん……‼ ううっ……。ありがとうっ……! 本当に……ありがとうっ‼ オットー……、奥さん……。リネットちゃんも……、ディル坊も……」
むせび泣くデルゲンの背中をぽんぽんと叩きながら、リネットは思った。この家族の元に生まれてこれて、超がつくほどのお人好し一家に生まれることができて本当に良かったと。そしてこの日、デルゲンとの一年ぶりの再会をおおいに楽しみ心ゆくまで語り合ったのだった。
翌日、リネットはファリアスに休みを申し出た。そして、ノーマ家とデルゲン、そしてデルゲンの帰りを心から喜んでくれた仲間たちとともに、金貸しの元へと殴り込んだのだった。




