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その翌日、リネットは何事もなかったように仕事に励んだ。幸いミルジアはおらず、ファリアスもいつもと変わりない態度で平穏に時は過ぎた。そしてその日の仕事も終わりを迎えた頃、リネットはファリアスにある提案を申し出た。
「ファリアス様! 私、明日から数日お休みをいただきたいんですっ。ほらっ、今はミルジア様がいらっしゃる分私がいなくても仕事は回りますし、ならその間にカインの件を進めておいた方がいいんじゃないかと思うんですっ!」
その瞬間、ファリアスの顔がさも嫌そうに歪んだ。
「それはちょっと困る……! 何も君がひとりで動かなくてもいいだろう。もう少しすればトランも工事がはじまるし、そうすれば仕事も一段落する。そうすればふたりで動けるだろう? もしかして、その……君は……」
言葉を切り、ファリアスはちらとミルジアの机に視線を向けた。
「もしかしてミルジアのことが気になっているのか……? その……何か嫌なことを言われたとか……。ならば何か理由をつけて、今すぐ屋敷にくるのをやめてもらう! そろそろ追い返しても角の立たない頃合いかと思っていたところだし」
「いえ! 決してそんなことはっ!」
リネットは慌てて首をぶんぶんと横に振ってみせた。
「ただ、強力な助っ人が現れたんですよ! あのマダムロザリーが、ライバルであるバレイド社の動向を知るためにカインのことを調べようと思うって言ったら、快く協力を申し出てくれたんですっ。マダムが一緒なら、ファリアス様も安心して送り出してくれると思って!」
その瞬間、ファリアスの体から絶対零度の冷たさが立ち上った。にわかに温度の下がった部屋の空気に、思わずぶるりと体を震わせていると。
「マダム……だと!? ……それこそ絶対にだめだ。絶対に許可できない。どうして私じゃなく、あんなやつに頼み事など……!!」
「……はい!? なんでそんなに不機嫌そうなんです? 別にファリアス様の夢のことはマダムには話してませんよ? そういう約束ですし、ライバル社の動向を探るなんていかにもありそうだし……。何か問題でも??」
とは言え、おそらくとっくにマダムはこちらの事情など知っているに違いない。けれどあえてそれは口に出さずファリアスを説得したのだけれど、ファリアスは頑として首を縦に振らなかった。
「むぅー……。もしかしてファリアス様、マダムが嫌いなんですか? それとも何か因縁でも……? マダムならきっとカインの身辺を探るくらいわけないし、ファリアス様に夢を見せている協力者の居場所だって簡単に突き止めてくれますよ! カインをとっ捕まえれば、ファリアス様だってすぐにでも悪夢から解放されるのに!」
ファリアスは苦虫を噛み潰したような顔でこちらをじっとりと見つめ、もごもごと口ごもった。
「き、嫌いも何もあいつの正体は……、いや、だからその……あいつは君が思っている通りの人間じゃないというか、なんというか……」
「……??」
どうにもはっきりしないファリアスにリネットはしびれを切らし、きっぱりと告げた。
「とにかくっ! 私は一日も早くファリアス様を悪夢から解放したいんですっ! そのためにはすぐにでもカインを調べなきゃっ! ですからファリアス様はその間、ミルジア様と一緒にお仕事を片付けておいてくださいねっ。それじゃあ私はさっそくマダムのところにいってきますっ!!」
そう言ってリネットはファリアスが止めるのも聞かず、マダムのもとへと向かったのだった。
◇◇◇
ファリアスが勢いよく飛び出していったリネットを呆然と見送ったのと同じタイミングで部屋へと入ってきたゴドーに、ファリアスは悶々とした表情で問いかけた。
「なぁ、ゴドー。なぜ私はリネットがマダムロザリーを頼っていると知ってこんなにモヤモヤしているんだ……? なんというか……ひどく嫌な気分なんだ。そもそもあのマダムはただの人畜無害な男なんかじゃないんだぞ……? なのにリネットはあんなにマダムを頼り切りにして……、頼るなら私を頼ればいいだろう? 違うか?」
「……」
「そろそろあの鬱陶しいミルジアを追い出して、リネットと元の平穏な時間をと思っていたところだったのに……。なんでこんなことに……」
「…………」
心底不思議そうな顔でぶつぶつとつぶやくファリアスを、ゴドーは残念そうに見つめ小さくつぶやいた。
「やれやれ……。すっかり一人前になったと思っておりましたが、恋愛に関してはまだまだひよっ子のようですな……」
はたから見れば、ファリアスがリネットを心から信頼し心を預けきっているのは明白だった。それは愛情という名の感情の芽生えであることも。が、いかんせん本人にまだまったくその自覚がないのが問題だった。その上ミルジアまで登場して、少々リネットとファリアスとを取り巻く空気はどんよりと曇りはじめていた。
ミルジアはいわゆる肉食系の女性である。手に入れたいと望んだものはどんな手段を使ってでも必ず手に入れる、そんな野心を燃え滾らせるような強い女性だった。しかもあれほどの美貌と頭脳を併せ持っているのだ。フォーリが溺愛する孫娘の伴侶にファリアスを迎えたいと考えても、なんら不思議ではない。が、どう考えてもファリアスにミルジアは合わない。あの激しい性格も伴侶に求めるものも。
ゴドーは主の真剣に思い悩む様子に目をやり、もう一度嘆息した。
リネットが屋敷にきてからというもの、ファリアスは明らかに変わった。ユイール社の跡継ぎとして一瞬も気を抜かず勉学にも仕事にも励んできたファリアスは、気がつけば孤独だった。人から一線を引かれ、特別視される毎日。決してあたたかな家庭環境とはいえない暮らしの中、いつしか容易に他者に心を開かず人に甘えたり頼ったりといったことができなくなっていた。
悪夢に苦しむようになってからの日々はひどいものだった。もしユイール社の跡継ぎが悪夢にうなされ不眠だなどと世間に知れれば業績に響くから、と秘密を貫き、ひとり苦しみを抱え込んでいた。いつ倒れるともしれないほどに。
それを救ってくれたのがリネットだったのだ。夢食いという不思議な力を持つあの少女がファリアスの前に現れ、苦しみから救い出しつかの間の安眠を与えてくれた。それどころかユイール家のこじれた家族の糸まで解きほぐしてくれた。 そのことが、ゴドーはじめ使用人たちにとってもどれだけ嬉しかったか――。
だからこそ願っていたのだ。いつかゆっくりとふたりが自分の恋心を自覚し、愛に育てていけばいつかきっと幸せな未来が待っているはずだ、と。
けれどこのままでは思いもよらぬすれ違いを生み、せっかくの恋の芽が潰されてしまうかもしれない。
「となれば我々のやるべきことは、ひとつですな……。なんとしてでもこの小さな恋の芽を我々が守ってやらねば……」
ゴトーはそうつぶやき、ぐっと唇を引き結んだ。そして。
「ファリアス様。ひとまず今は目の前の仕事をさっさと片付けなさいませ。そして明日ミルジア様がいらっしゃったらすぐに、今日より仕事の手伝いは不要だとお伝えするのです。そうすればミルジア様も退散せざるを得ないでしょう」
「しかし、そうしたところでリネットはマダムと……」
しょんぼりと肩を落とすファリアスに、ゴドーは語気を強めた。
「だからこそ死ぬ気で仕事を片付けるのですよっ! そしてリネットさんたちに合流するんですっ。マダムたちの様子は使用人の誰かをやって見張らせておきますから。頑張れば、明日の昼前にはリネットさんたちに合流できるかもしれませんっ! 我々にお手伝いできることなら何でもしますからっ」
「リネットを追いかけて合流……!? そ、そうか! そうだなっ。死ぬ気になればミルジアなどいなくとも……! よしっ、ではさっそくやるぞっ!!」
目の前に差した光に、ファリアスは猛然と目の前の仕事を片付けはじめたのだった。




