美のセカイ
あたしが生まれたのは、この階層世界のずっとずっと上の方だ。
いまいる階層に落ちてきたときに頭を打ったせいか、元いた階層がどんなところだったかはほとんど記憶にない。ただ、とても清潔で、きれいで、父さん母さんと幸せに暮らしていたことだけは覚えている。
あたしのはっきりした記憶は、白い〝繭〟から這い出したところから始まる。ふわふわした繭は大きく、直径が十メートルはありそうな球体だった。これが、あたしの身体を落下時の致命的な衝撃から守ったのだ。記憶の一部までは守れなかったみたいだけど。
〝繭〟といった物の名前や、一般的科学的知識は覚えている。たとえば、この世界が、階層構造になっていること、各階層を貫く大穴があいていることもわかる。それに、あたし自身がとても長命な人種であり、病気等に耐性を備えているのも知っている。
でも、父さんや母さんの顔や名前は思い出せない。
繭から這い出したあたしは、海辺の真っ白な砂浜に立ち、エメラルドグリーンの波に足を洗われながら、ずっと高みにある〝天井〟の穴を見つめた。
そもそも、どうして落ちたんだろう。
あたしは繭を振り返った。これは一種のパラシュートだ。これにくるまっていたということは、あたし自身もしくは、親が意図的にあたしを落としたのかもしれない。
故郷で何かが起こり、脱出してきた?
あるいは、レジャー中の事故?
子供特有の馬鹿な冒険心?
落ちた理由がどうあれは、あたしは戻りたかった。
理由なんてない。帰るべき場所、いるべき世界があるのだから、そこを目指すのは当たり前だ。
と、いきなり横から話しかけられた。
「なんて美しい顔だ」
気づけば、この世界の住人たちがあたしの周りに集まっていた。男も女もみんな裸だ。この素敵なヌーディストビーチで日光浴を楽しんでいるときに、空からお邪魔してしまったらしい。
あたしに話しかけてきた男性は、彫像のようにたくましい身体に、これまた彫像のように整った頭をのせていた。彼はあたしに顔を寄せると、もう一度つぶやいた。
「なんて完璧な顔立ちなんだ」
「あら、その、ありがとうございます。ところで、ここがどこか教えていただけますか?」
「ここ? ここは〝黄金肌海岸〟だ。この世界でもっとも美しく肌を焼いてくれる浜辺だよ。天井の超構造体から放たれる光の具合が完璧でね。オイルを塗って、寝転がって、有機野菜スムージーを飲みながら一週間ほどすごせば、夢のような肌色になれるのさ」
「なるほど、それじゃあ、上の階層に移動するにはどうしたらいいでしょうか?」
「上ぇ?」男が素っ頓狂な声を上げた。「あそこは醜い連中が過ごす、醜い世界だ。君のような美少女がいくところじゃない」
「でも、行かなくちゃいけないんです」
金色の髪を陽光に煌めかせたゴージャスな女性が、悲しげに頭を振る。
「あなた、せっかくそれだけの素材に生まれついたのだから、分別を身につけないと」
「うわ!」当然、別の男が叫んだ。「救急車だ! みな気づかないのか!? この子はサンオイルも日焼け止めも塗ってないぞ! この素晴らしい肌に焼きムラができる!」
金髪の女性が悲鳴をあげた。
「この子、頭がおかしいんだわ」
最初の男が「人権保護センターに連絡するんだ! すぐにこの子の心をあるべき姿に矯正しないと、取り返しがつかなくなるぞ!」といいながら、あたしの肩を掴んだ。
とても優しい触り方だ。あざひとつ付きそうにない。それでいて力は強く、あたしは動けなくなった。
五分とたたないうちに、黄緑色の救急車が砂浜に乗り付け、あたしは降りてきた二人の男の手で、金網付きの後部座席に放り込まれた。
連れていかれたのは、美術館のようなところだった。
真っ白な床に、優美な曲線を描く波打つ壁、ガラス張りの天井から降り注ぐ柔らかな光が、立ち並ぶ〝裸像〟に降り注いでいる。
裸像の数は、五十体ほどだろうか。いずれも二十代前半から後半ほどの男女をモチーフにしており、美麗で、いまにも動き出さんばかりにいきいきとしていた。
あたしは、裸像に取り囲まれた円陣に放り込まれた。一種の脳波干渉フィールドだ。円内に閉じ込めた生物の脳に干渉して、円の縁に近づくほど、脳から筋肉への指示を妨害する。
外に出ようと試してみたところ、三歩と進まないうちに足が生まれたての子鹿のように震えだしたので、あわてて円の中央にはい進んだ。
中央には先客がいた。
無愛想な男性だ。鍛え上げられた肉体に、精悍な顔立ちをしているが、驚いたことにその肌も髪の毛も、さらには瞳までが真っ白だった。十中、八、九の確率で、この人は人造人間だ。人造人間を作る世界は少なくないが、どの世界の製造者も、人間そっくりでありながら、明らかに人間ではない外見にしようとする。
真っ白な人造人間のなかで、色を感じるのは蒼い腰履きだけだった。
彼は円陣の中央で正座し、周囲の裸像を眺めていた。
あたしが目の前にいるのに、まるで関心を示さない。
「こんにちわ」こちらから声をかけた。「あなたも、あいつらに捕まったの?」
彼は、目線を裸像に向けたまま答えた。
「見ての通りだ。見てわかることを、わざわざ口に出して尋ねる人種は珍しい。少なくとも、この階層の人間は違う。君も別の階層から来たようだな」
「ええ。あなたは、どこの世界から来たの?」
「百二十五階層下の人民共和国からだ」
「百二十五!? 何十年かけたらここまで上がってこれるの?」
「二千三百七十六年と四ヶ月だ。途中、真空の大階層があってそこを通過するだけで千六十三年かかった。そういう君はどこから来たんだ?」
「わからない。たぶん上の階層だと思うけど。気づいたら、ここにいたの。ここはいったいなんなの?」
「下層三世界から連続する〝美しい国〟の最上階層だ。〝美しい国〟は文字通り美を至上の論理としている。美しい人間は、この最上層世界でその美しさに磨きをかけ続けるだけの日々を送る。下の階層の人間は上を夢見ながら油に塗れて働き続ける。もっとも、上の人間も楽ではないがな。人間は老化すれば必然的に美的観点からは衰えがくる。彼らがこの階層に住めるだけの美を保てるのはせいぜいが三十代中盤まで。それを過ぎれば、下の階層に追い落とされ、死ぬ間際にはほとんどの人間が、汚染物質だらけのスラムで息を引き取ることになる。例外は、我々の周りにいる連中だけだ」
あたしは周囲の裸像をまじまじと見つめた。
「像じゃなくて、人間なの? 遺体を保存してるわけ?」
「遺体ではない。かといって生きているわけでもない。彼らはこの世界でもっとも美しい人間として選ばれ、その美を永久に保つために〝時間〟を止められたんだ。いや、自ら望んで止めてもらったというべきか。彼らは、時間停止に必要とされるエネルギーが供給され続ける限り、何千年、何万年でもこのまま停止し続け、鑑賞者たちに褒め称えられる。そして、この世界が崩壊するときに、ようやく時間の檻から解放される」
「何考えてんの、この人たち」
呟きに、人造人間がぴくりと反応した。ようやくわたしという存在に興味を惹かれたらしく、じっとこちらを見つめてくる。
「君も、彼らが何を考えているのかわからないのか?」
「わかるわけないでしょ」
「そうか。じつをいうと、わたしもわからない。彼らはわたしが己の美を理解しないのは精神的奇形だからであり、ここに閉じ込めて、至高の美を見つめ続ければ、精神は治癒し、わたしも人の心を得られるだろうといった。しかし、あきらかに人間である君もわたし同様に理解できないとなれば、これは、この世界の住民特有の心理状態に由来するといえるだろう」
人造人間が立ち上がった。
「では、わたしは失礼する。留まる意味はなくなった」
「どうやって? 脳波妨害フィールドがあるのよ」
「脳波の波長を変えれば済むことだ」彼はいいながら、自分の首筋を見せた。九桁のキーパッドのようなものが表皮に描かれている。「コードを打ち込めば事足りる。では、失礼」
「ちょっと待ってよ! わたしも連れて行って!」
人造人間が首を捻る。
「なぜだ? わたしがここから逃げ出せば、当然、彼らはわたしを追う。君がいれば逃げ切れる可能性は下がる。連れて行くのは合理的ではない」
「同じ被害者じゃない」
「わたしは己の意志でここに留まっていたのだから、被害など受けていない。ゆえに君に同質性を感じることはない。ではお元気で」
あたしは彼の背中に飛びかかると、首筋にしがみつき、キーパッドを出鱈目に押した。なにかが起こると期待したわけではないけれど、押さなければ何も起こらないのは確実だからだ。
そして、幸運が舞い降りた。
人造人間はその場にひざまづくと「認証しました。ご命令をどうぞ」と言い出したのだ。
出鱈目にした番号が、たまたま彼に設定された暗証番号と一致したらしい。百万回打ち直しても、こんな奇跡は二度と起こらないだろう。
ともかくも彼は命令を待っている。
あたしは咳払いしていった。
「あたしを生まれ故郷の階層に連れて行って」
「承知しました」彼は頷いて立ち上がると「なんてことをするんだ」といって、あたしを見下ろした。
あたしは素直に頭を下げた。
「ごめん。でも、あたしも必死なの。なんとしても家に帰りたいから」
彼は何もいわず、自分のキーパッドを押すと、わたしを肩に担ぎ上げ、そのままスタスタと円陣から出て、まっすぐに建物の玄関を目指した。すごい早足だ。
あたしは揺られながら繰り返した。
「ほんとごめん! 怒らないでっていっても無理だろうけど、ほんとごめん」
「怒ってはいない」彼は冷静な口調だった。「君を家に届けなければ命令が解除されないなら、さっさと届けてしまうのが合理的だと判断するまでだ」
玄関扉を前にしたところで、施設の管理者たちがわらわらと湧き出してきた。
みな美男美女で、手には先端に球体のついた肩たたき棒のようなのものを手にしている。
一人の美男子がいう。
「あなたたちは何故、己の美を理解しようとしないのか。白い人よ、あなたの肌はいっぺんの曇りもない白大理石だ。歪み一つ、シミ一つ、黒子も傷もない。その均整の取れた肉体は力感にあふれ、衰えることを知らない。少女よ、君がどこから来たのかは知らないが、人の外見に関する美に新しい要素を付け加えるのは間違いない。際立った特徴はないが、何もかもが究極的に普通であることは、美なのだ」
「褒めてくれてありがとう。でも、あたしは家に帰りたいの」
「わたしも、もう君たちの世界に用はない。次に向かう」人造人間があたしを揺らした。「この少女とともに」
美男子がよろめいた。
「次? まさか、上の地獄に向かうつもりなのか? 馬鹿な。そんな真似をさせるわけにはいかない。君たちほどの美が失われるのを許すわけにはいかない」
彼の隣にいた美女が頷く。
「そうよ。この人たちを失うくらいなら、ここで〝停める〟方がいいわ。そうすれば、彼らの美を永久に保ってあげられるもの」
人々が急に殺気立った。どうやら、わたしたちをここの裸像の一つに加えようというらしい。
わたしは小声でいった。
「人造人間さん。どうにかできそう?」
「戦えという意味なら、どうにかできない。わたし一人が彼らを殺すことは容易だが、わたしは君を保護し、君の故郷に連れて行かねばならない。現在の条件で戦闘になれば、君が傷つけられるおそれがある。彼らが持っている武器は、脳波を停止させる類のものだ。肉体的には無傷でも、脳波が止まれば、君という存在は危うくなる」
「じゃ、どうすればいいの?」
「ここは価値観に訴えて解決すべきだ」
彼はそういうと、自分の右耳を引きちぎった。ミルクのように真っ白な血液が吹き出し、あたしの顔にかかる。
悲鳴があがった。あたしではなく、取り囲んでいる人々の悲鳴だ。男も女も、その大半が人造人間から目を背け、頭を抱え、己の体を抱きしめて震えている。
さきほどまで口上を述べていた美男子は、胎児のように丸まって「美が、美が」と呟いていた。
どうにか立っている男三人は武器をこちらに向けたが、人造人間がわたしの耳に触れると、あわてて引き下がった。
「では失礼する」
人造人間はあたしを抱えたまま一礼すると、落ち着いた足取りで建物を出た。
彼は、あたしを地面におろし、ちぎれた耳を傷口に押しつけた。十秒ほどしてから手を離すと、耳は何事もなかったかのようにくっついていた。
「どうなってるの?」と、あたし。
「わたしは兵士として製造された」説明はそれだけだった。
彼は、駐車場に停まっていた優美なフォルムの観光用飛行船に勝手に乗り込んだ。この美世界には犯罪という概念がないのか、扉には鍵はかかってなかったし、反重力エンジンもボタン一つで点火した。
飛行船はふわりと浮かび、天井の穴目がけて舞い上がった。さきほどの美術館が、あっという間に小さくなる。
「このまま上の世界に行くの?」あたしは窓に顔を貼り付けながら訊いた。どこまでも広がるエメラルド色の海に、銀冠の山脈、雲にかかる虹は五本もある。完璧すぎる美の風景、何もかもが人工的に演出された産物なんだろうという気がした。
人造人間は操縦桿を小刻みに動かしながら頷いた。
「この美世界は文明レベルが高い。この操縦室も完璧に気密されている。〝穴〟の高度は一万メートルを超えているが問題はないはずだ。少女、君は問題があると考えるか?」
「ないけど。それより、少女っていうのはやめてよ。あたしには名前があるんだから。あたしはーー」
ーー名前が出てこなかった。
自分の名前まで忘れているらしい。
人造人間が呆れたようにいう。
「驚いたな。自分の名前を知らない人間と会うのは二百二年ぶりだ」
「仕方ないじゃない。覚えてないんだもん。で、そういうあなたはなんて名前なのよ」
「四十二だ」
「え?」
「四十二だ。正確にはリーボックシリーズ四十二型識別番号1257だが、わたしの世界の数千万の人間はすべてわたしと同じシリーズなので〝リーボック〟は個体を識別する名称として機能しない。一方、四十二型は生産数が少なく、一万体少々しかいない。だから、周囲のリーボックたちは、わたしを四十二と呼んだ」
「そんな無機質な名前でいいの?」
「いいも悪いもない。名前とは他者が決めるものだ。名無しの君が忘れた君の名も、赤ん坊の君が付けたのではなく、君の父や母が付けたものだろう? さて、そうなるといまの君の名はわたしがつけるべきだろう。ナナシノキミでどうだろうか」
「そのままじゃない! ろくに考えてすらない!」
四十二が首を捻った。
「わたしの脳のクロック数は、一般的な人類型生命の六十八倍ある。さきほど二秒ほど考えたが、君に置き換えれば二分以上考えたということだ」
「ぜんぜん足りないわよ」
「いまで十秒以上考えた。つまり、十分考えたことになる。その上で名付けよう。君はいまからナナシだ」