人造人間のセカイ
わたしは泣くことができない。
涙は出る。体に組み込まれた防御機構として、目にゴミが入れば洗い流すために涙腺から水分が放出される。しかし、人間のように感情の高ぶりから泣くということができないのだ。これは、わたしが人造人間だからだ。
わたしの頭脳は生体型のコンピューターであり、プログラミングに従って判断を下す。そこに感情は伴わない。
なので、造物主であるヘレン・ヴィンタイン女史に「こんなときでもあなたは泣いてくれないのね?」と縋りつかれても、その体をそっと抱いて「あなたの身体は血液の十五%を失っています。喋らずに体力を温存すべきです」と、極めて論理的な回答を返した。
女史の身体から流れ出た血液は、床のタイルの隙間をあみだくじのように伝い、部屋の端に設けられた排水溝に吸い込まれていた。おそらく、幾本かのパイプを通って屋外に排出され、数十階分の距離を落下したのち焼けこげた地面に落ちるのだろう。
この世界の住民は、排水の浄化など誰も気にしない。あらゆる土地が長きにわたる戦争で汚れきっているからだ。建物の窓はひび割れ、壁は煤で黒く染まり、川の水はどす黒く濁っている。果てしなく続く兵器工廠は毎秒何十万立方メートルもの煙を吐き出し、国土を汚染し続けているが、それを咎めるものはいない。戦争に勝利することが第一だし、万が一敗北したとしても敵が手に入れるのは汚物まみれの土地になるからだ。
女史の目から涙が零れ落ち、わたしは意識の一部を血液の行く末の考察から彼女に戻した。
彼女がいう。
「ごめんなさい、リーボック。わたしはあなたを生き返らせることができなかった」
わたしは首を振った。
「博士、リーボック・ヴィンタインは死にました。死んだ人間が生き返ることはありません。わたしはリーボック42です」
リーボック・ヴィンタインは、博士の夫であり、わたしの素体となった人物だ。氏は平和運動に身を捧げた詩人だった。つまり、この国においては、極めて反社会的な人物だったといえる。国家警察に逮捕されたさい、細君である博士の嘆願で死こそ免れたが、代わりに激戦地に送られ、ものの三日で遺体となって戻ってきた。
博士は大いに嘆いたあと、その天才的頭脳でもって、ヴィンタイン氏の細胞を土台にリーボックシリーズを作り出した。驚異的な再生能力、運動能力、判断力を備えた、世界初の人造人間だ。
博士にとっては不幸なことに、故ヴィンタイン氏の記憶はいっさい宿らなかったが、兵士としての能力は十二分に備えていた。
かくして、わたしたちは増産され、超兵士として敵軍の兵士を殺しまくった。とくに、このわたし、リーボック42-54287は、顕著な功績をあげ続けた。同じリーボック42のなかでも、他を凌駕する基礎能力を誇り、リーボック43の素体となるべく、博士の研究室に回された。
そして、この日、博士は腹部を撃たれ、血まみれになって研究室に入ってくると、扉をロックした。
博士はわたしの腕の中、自分の頬を伝う涙を指ですくうと、わたしの目元につけた。
「せめて、心だけでもあなたにあげないとね」
感動的な所作だ。しかし、わたしはそれが感動的だということはわかっても、感動することはできない。
「医者のところにいきましょう」と提案すると、博士は拒否して、わたしに首の付け根を見せるよういった。わたしは博士を壁にもたれかけさせると、振り向いてしゃがみ、首元のキーパッドを彼女に向けた。死角なので見えないが、どうなっているかは知ってる。わたしの首筋には発光細胞が埋め込まれており、九桁の小さな数字が浮かび上がっているのだ。
研究室の扉が激しく叩かれた。野太い声の〝将軍〟が「博士!この扉を開けるんだ!リーボックを自由意思など与えてはならん!そいつは我々が戦争に勝利するための最重要兵器なのだぞ!」と叫んだ。
博士はその言葉を無視すると、キーパッドに二十四桁の隠し優先コードを入力し、囁いた。
「あなたへの命令は、あなた自身が出すの」
博士だけが知る隠し優先コードを再入力しない限り、この命令を取り消すことはできない。
そして、博士は二十秒後に失血により昏睡状態に陥り、一分十五秒後に亡くなった。
こうして、わたしは自由を得た。
しかし、それまで自由を得たことのない人造人間が、ある日いきなり「自由」だといわれても、何をすればよいのか。わたしは、その場に立ち尽くし、博士の遺体を眺めていた。
博士が亡くなって五分三秒後、扉の外の男がいった。
「リーボック! この扉を開けろ!」
わたしは言う通りにした。とくに拒否する理由もなかったからだ。
将軍と配下の研究者たちは、わたしが自由意志を得たかどうかを確認しようとしたが、これは彼らにとって難しい作業だった。わたしが彼らの命令に全て従ったからだ。なかには、わたし自身の小指をナイフで切り落とせという命令もあったが、これも拒否しなかった。拒否する理由がないからだ。切り落としてもじきに生えてくるし、痛みも痛みとして分類されるだけで、人間のように苦しむわけではないからだ。
やがて、将軍はわたしに自由意志があろうがなかろうが、どちらでも同じだということに気付いた。重要なのは命令に従うかどうかだけなのだ。
そういうわけで、将軍はわたしを戦線に戻した。戦況は予断をゆるさず、一般兵百人に匹敵するわたしを遊ばせておくほどの余裕はなかったからだ。
わたしはリーボックシリーズの一人として、敵兵を殺し続けた。
そのうち、敵の側もリーボックシリーズを使い始めた。鹵獲した兄弟たちの一人を再プログラミングした上で、増産したのだろう。
百年ほど過ぎた頃には、戦場で見かけるのは敵も味方も全てリーボックシリーズとなった。それどころか、我が国の兵站や後方支援、社会基盤の何もかもがシリーズの人造人間に支えられるようになった。
戦争に勝つためには、社会全体を強化せねばならない。そして、そのためには人間よりわたしたちに任せた方が効率的なのだ。
さらに二百年が過ぎた頃には、社会から人間の姿は消え失せていた。作戦の一環で敵国に潜入した際も、目にしたのはわたしたちの姿だけだった。
こちらにもあちらにも、人間はもうただの一人も残っていない。それでも、わたしの兄弟たちは、プログラムに従って新しい兄弟たちを生み出し、プログラムし、戦場に送り出した。
人がいなくなってから十六年後、わたしは戦場を離れる決断をした。
とくに意味はない。
強いて言うなら、戦争はすでに終結したと判断したのだ。双方に人間が残っていない以上、両者とも敗北だ。
わたしは従うべき命令を失ったが、記憶を振り返れば、もう一つ残っていた。
博士はわたしに泣いて欲しかった。わたしに心を与えようとしていたのだ。その希望は、一種の命令といえなくもない。そして、拒否する理由もない。
わたしは国境付近の飛行基地で上を見上げた。
ドッグファイトを繰り広げる戦闘機たちの彼方、三万キロメートルの高みで、超構造体の〝天井〟の輝きがゆっくりと薄れている。まもなく夜に切り替わるのだ。
その天井の一部に、一足早く暗くなっている丸い領域がある。直径十キロの〝穴〟だ。
穴の向こうに何があるのかはわからない。
かつて人間の学者たちは、この世界と同じような世界が広がっていると考え、何十という探検隊を送り込んだが、一人として帰ってくるものはいなかった。
穴の向こうには〝無〟がある。
次元の裂け目がある。
毒物に埋め尽くされている。
さまざまな説が唱えられたが、わたしはやはり何かしらの知的生命が住んでいるのだろうと思う。わたしに心を教えてくれるかもしれない何かが。
わたしは最新鋭機のコクピットに乗り込み、エンジンを始動させた。