その傘屋は紫陽花を喰らう。
一説によれば、合衆国の実験の失敗。あるいは戦争で使われた兵器の汚染。人を溶かす病原菌。真実を知るものはとうに死に絶えた。確かなのは、毒雨が今もシェルターの外で止まないという事実。
雨は生物を溶かす。人を浴びればたちまち皮膚が爛れ、やがて溶けて死んでしまう。人々は巨大な傘のようなシェルターで町を覆い、そこで生活を送っていた。物流もままならない。シェルターが崩れれば住民は溶けて消えるだろう。一体どれだけの人類が残っているのか誰も知らない。明日、隣町のシェルターが潰れていてもおかしくはない。
酒はいい。体を溶かさずに脳だけ溶かしてくれる。賭博はいい。溶けた脳が沸騰しそうになる。煙草はやめとけ。やたらと高いし、せっかく茹だった脳が冷えてしまう。
今日も人々はシェルターの中で笑い合う。それを傍目に、傘屋のジョンは煙草を燻らせた。
これはそんな世界を旅する、傘屋と少女の物語。
身の丈に合わないほど大きな傘を差した男が、雨の中を歩いている。
外套を脱ぎ捨て、守衛の窓口の小さなベルを鳴らすが、窓口には誰も現れない。
「おぅい! 今日は誰だ? エディか、ケニーか?」
大声で問うと、顔のただれた老人が震えながら窓口に顔を出す。
「エディか。ようやくサマビルでの雨漏り工が一段落ついて帰って来たんだ。俺は傘屋のジョン」
「……あぁ」
「なあ、聞いてる?」
「……あぁ!? サマビルが何だって?」
「あのね」
ジョンは一つため息をついて、エディが手に持っていたバインダーを奪い取る。記入欄に必要事項を書いていく。
「手続き全部ここに俺が書いとくぞ」
「……あぁ!? 雨漏りが何だって?」
ジョンは無言で名簿を突き返した。
「……湿気てやがる」
ベンチに座ったジョンは、いくら擦っても火がつかないマッチを灰皿に捨てた。咥えたままの煙草を持て余し、ガジガジと噛んで意味もなく上下に動かしてみる。
街を覆う半透明のシェルターを呆と眺めていると、不意に声がかけられた。
「よう。今日も辛気臭い顔してやがんな」
「あぁ? ……って、トッドか」
彼はジョンの隣に座る。
「なんだ、仕事がうまくいかなかったのか?」
「雨漏り工がうまく行かなかったら今頃大惨事だろう。単純にマッチが湿気てただけだ」
「お前外にマッチ持ち出すのやめろよ。そりゃ湿気るに決まってるぜ」
「仕事終わりには一服したいんだ、俺は。何か用か。そっちはずいぶんと上機嫌だが。あとマッチくれ」
「マッチなんて持ってる訳ねぇだろう。実は久しぶりに博打に勝ってな。傘屋なんてやってるお前に恵んでやろうって優しい俺は思ったわけよ。つーことで飲みに付き合え」
暖色の明かりの下、顔を赤らめた酔っぱらいがジョッキを片手に騒いでいた。テレビでは格闘技とは名ばかりの殴り合いが放送されている。
「で、今日はどこに行ったんだ」
彼らを横目にしたり顔で、トッドは問う。
「サマビルだサマビル」
「またか。あそこもう駄目なんじゃないか。シェルターの整備が追いついてない」
「ああ、近いうちに浸水するだろうな」
「シェルターの骨が崩れなきゃいいけどな。お前ももう、あそこに行くのはやめたほうがいい」
「……そう言ったってな、雨漏り工でもやらなきゃ、傘屋は儲からん」
「なら傘屋をやめたらいい。誰も困らねえよ。傘屋が無くなったって。どうせ誰も客なんて来ないだろ」
テレビから流れる歓声が盛り上がり、バーの客もそれに応じて叫び声に近い歓声をあげる。画面の中の二人の男は、互いに顔を真っ赤に腫れ上がらせていた。
「……いたよ」
「あ? 何が」
「客が来たんだ。先週のことだ」
「傘屋に来る酔狂な奴がいたのか?」
「あぁ」
ジョンは奇妙な男のことを思い出しながら、ポツポツと語りだした。
開店の準備をしていると、店のすぐ外にフードを被った男が座り込んでいた。
「酔っぱらいか?」
フードを被った背の高い男は、のっそりと立ち上がる。
「……ここで傘を売っていると聞いた」
「あ、あぁ、そうだが、何がご入用で」
ジョンが聞くと、フードの男はポケットから紙幣を取り出し、ジョンに渡す。
「これで買えるだけ、大きな傘をくれ」
その手の中には、合わせて500ドル。
「……お客さん。傘買ったことないだろ」
「何か問題だったか」
「傘は大きければいいわけじゃない。背丈にあった大きさじゃないと取り回しが悪い。金を使うべきは骨の数だ」
カウンターの後ろに回り、並べてある在庫をガサゴソと探す。
「いくら大きくても骨の数が少なければ、すぐに毒雨で溶けて穴が開く。だから大きさは体に合わせて、出先までの距離に応じた骨の数の傘を買うんだ。お客さんはどこまで?」
「……どことは決めてない」
「なに?」
ジョンはフードの男を振り返った。フードの中、うつむいた顔はよく見えない。
「行けるだけ、遠くまで」
「……お客さんはでかいから、150サイズになるだろう。その大きさで500ドルで買える傘って言ったら、正直骨の数も普通の奴だな。精々16本ってところか」
また在庫に目を戻し、ジョンは一つ大きい傘を取り出す。
「だがこれだと、サマビルとかブルクリンとかの隣町ならともかく、遠出となると心もとない」
「それでいい」
フードの男は、ジョンが手に持っている傘に手を伸ばした。
「傘屋の君が500ドルでそれを選んだ。なら私は、それで良い」
男はそのまま、シェルターの出口の方向へと歩いていった。
「まあ、変な男だったな」
そう話を締めるジョンに、トッドは大きくため息をつく。
「自殺志願者だな。いるよなたまに。全部投げ出して、毒雨の中突っ走っていく奴。それで? ぼったくったんだろ?」
「あ?」
ジョンは片眉を上げてトッドを睨む。
「儲けが少ない傘屋にとっちゃ、いいカモだろう? どうせそいつは、死んでも遠くに行ってみたいっていう刹那主義者だ。良い傘をくれてやる義理もない。それにそんな奴に限って、シェルターの外に出たことがないんだ」
「……まぁな。フードに隠れて顔はよく見えなかったが、肌が爛れている様子は無かった」
「一度でも外に出て、雨で爛れたやつが、シェルターの外で死にたいなんて思うか。そんなボンボンに傘の良し悪しなんて分からない。適当なボロ傘渡して、500ドルでパーッと遊んだらいい」
「店で一番いい傘をやったよ」
「は、何だって?」
トッドは呆れたような顔になり、やがて天を仰いだ。
「お前、正気か? 赤字も赤字だろ。なんでそんな馬鹿な真似したんだ」
「……さぁな」
ジョンは目線を彷徨わせ、最終的にテレビを見た。画面の中で顎に拳を食らった男が仰向けに倒れ、バーは怒号のごとき歓声に包まれた。
ジョンはシャッターを開け、在庫にある傘をいくつか取り出し、手入れを始める。すると店の外から声をかけられた。
「傘屋って、ここで合ってる?」
「ん? もうすぐ開けるが、何用で?」
そこに立っていたのは、一人の少女だった。薄紫色の髪が特徴的な彼女は、腰に手を当てジョンに聞く。
「私はレンシア。兄であるハイドの行方を探しているの」
「……ハイド? すまんが、知らない名前だ」
「数日前に傘屋を訪れていたはずよ」
傘屋に来る客など数えるほどもいない。心当たりは一人しかいなかった。
「ああ……あの男の妹さん?」
「ええ」
レンシアは毅然とした態度で、店内に入る。
「寂れた店ね」
「悪いが、君のお兄さんがどこに行ったか、俺は知らない」
「兄は学者だった。毒雨の秘密を解き明かすために外に出たのよ。だから私は探しに行く」
「探しに行くって……シェルターの外まで?」
うなずくレンシアを、ジョンはジロリと見た。
「随分ときれいな肌だな」
「だから何?」
「シェルターの外に出たことのないお嬢様ってことだ。知らないだろ。外がどんなに過酷か」
当たれば皮膚が爛れる雨粒。足を突っ込めば二度とまともに歩けなくなる水溜り。風が吹けば横殴りの雨にやられ体が溶けてしまう。傘の扱いと歩き方を知らなければ、隣町まで行くことすら叶わないだろう。
だがレンシアは、ニヤリとジョンに笑いかけた。
「知ってる。だからあなたに頼みに来たの。一緒に兄を探してくれないかしら」
「……はぁ?」
「悪いけどあなたのこと、少し調べさせてもらったわ。昨日のバーでの会話も聞いてた。隣町まで雨漏りを直しに行っているらしいじゃない。あなたの同伴って形ならシェルターの外に出られるでしょ。傘屋さん。私についてきてくれる?」
しばらく唖然としたジョンは、正気を疑いながらレンシアを見た。
「何言ってんだ。馬鹿じゃないのか」
「ねぇ傘屋さん。なんであなたは傘屋をやっているの? 何で自殺志願者にしか見えない兄に、一番いい傘をあげたの? あなたのお友達は、みんなシェルターの中にいれば幸せだなんて言ってたけれど、私はそうは思わない」
「……さぁな」
「私は行くわ。そしてきっとこのままだと、無謀な私には死ぬでしょう。そしてあなたはグズグズに溶けた私を外で見つけるの」
ジョンは片眉を上げた。思わず笑いが溢れる。
「……ただの馬鹿なお嬢さんかと思えば、とんだ大馬鹿だ。棘どころか毒持ちじゃないか」
「兄の背を押した責任を持ってくださらない? 傘屋のジョン」
「責任ね……」
レンシアの問いに曖昧に答えながら、ジョンは店の中へと戻っていった。
しばらく待てど、彼は姿を表さない。もう一人で行こうか、とシェルターの外に目を向けた時、彼女の視界を何かが塞いだ。
「お前の兄はもう少し現実的だったぜ。はい、これとこれ」
「きゃっ」
彼女に投げられたのは、長靴とフードのついた丈の長い外套だった。ジョンは火のついた煙草を手に、煙を吐いた。
「それがあれば、多少雨にかかっても大丈夫だ。お前の兄は自前で用意していた」
「ついてきてくれるの?」
まっすぐ聞いてくるレンシアに、ジョンは頬をかいた。
「……隣町までだ。探すんなら一回の外出じゃ足りん。町をいくつか繋いで、その都度傘を買うしかない。傘の目利きとか、外の歩き方とか、そういうのを教えてやる」
そこまで言って、ジョンは咳払いする。
「だがそこまでだ。そっから先は一人でいけよ」
「とりあえずはそれでいいわ……ありがとう。でもいいのかしら?」
「毒をくらわば皿までってな」
「……どういう意味?」
「責任を取るって話だよ。さっさと行くぞ。今日の守衛はケニーだといいが」
歩き始めたジョンの後ろを、レンシアが小さい歩幅で早歩きに追いかける。
シェルターに叩きつけられる雨粒は、止む気配がない。