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愛している人に愛されない苦しみを知ってもらおうとした結果

作者: よしゆき






 カティとトビアスは許嫁だ。親戚で家が隣で、幼い頃からしょっちゅう顔を合わせていた。

 カティは五歳年上のトビアスを「お兄様」と呼んで、兄のように慕っていた。成長するにつれ彼への気持ちは恋へと変化し、将来は彼と結婚できるのだと思うと嬉しくて堪らなかった。物腰が柔らかく端正で甘い風貌のトビアスはカティの理想の王子様だった。

 互いの親が盛り上がって勝手に二人を許嫁にしたのだが、カティはトビアスと結婚できることを心から喜んでいた。

 けれど、そんな風に思っていたのはカティだけだった。

 トビアスは決して、カティとの結婚を望んでいたわけではなかったのだ。

 トビアスはいつもカティに優しかった。カティを可愛がってはくれた。確かにカティに好意を抱いてはいた。

 しかしそれは、家族愛でしかなかったのだ。幼い頃から一緒に過ごしてきたせいか、彼にとってカティは妹のような存在で恋愛対象ではなかった。

 トビアスが同年代や年上の大人びた女性とデートをしている姿を見て、自分が彼に女として見られていないのだと気づいた。

 美しい女性と親しげに腕を組んで歩き、キスを交わすトビアスを、カティはただ見ていることしかできなかった。

 カティとトビアスは許嫁で、彼の行為は浮気になるのだが、それを責めることはできなかった。

 なにもトビアスは堂々と浮気をしているわけではない。ちゃんと隠れて女性と会っている。カティが彼の後をつけ回して、そんなことをするからそんな場面に遭遇してしまったのだ。幼い頃からトビアスの背中を追い回していたカティは、成長しても彼を見かければすぐに追いかけてしまう。

 そして現実を思い知らされたのだ。

 カティはトビアスが大好きで、トビアスもカティを好きでいてくれていると思っていた。それはとんだ思い違いだった。

 だからカティは努力した。彼に女として見てもらえるように。化粧をして、大人っぽい衣服を選んで身につけるようになった。言動にも気を付けた。トビアスの好みの女性に寄せ、子供っぽい口調や仕草を直した。

 けれど、それでも彼はカティを妹のようにしか見てくれなかった。デートはしても、抱き締めてはくれない。他の女性にはするのに、カティにはキスをしてくれない。トビアスのカティを見る瞳は、浮気相手を見つめる瞳とはまるで違った。

 それでも、トビアスはカティとの結婚を拒むことはなかった。というよりも、できなかったのだろう。二人の両親もカティも結婚に乗り気だったから。

 カティとトビアスの関係は少しも進展することはなく、そのまま結婚することになった。

 夫婦になれば、さすがに変わると思っていた。女として見てもらえると。

 けれど、そうはならなかった。

 カティとトビアスの寝室は別々で、彼がカティを抱くことはなかった。

 大切にはしてくれている。彼は変わらず優しくて、カティに冷たく当たることはない。

 しかし、女として愛されることはなかった。

 トビアスはカティに隠れて娼館へ行き、そうして性欲を発散させていた。隠していたって気づくものだ。

 惨めだった。結婚したのに、カティは彼に妻としては扱ってもらえなかった。トビアスはカティ相手ではキスすらしようとはしないのだ。

 結婚して一年が過ぎたところで、カティは彼に女として愛されることを諦めた。きっとこの先、トビアスの気持ちが変わることはない。カティはこれからもずっと、彼にとっては可愛い妹のままなのだ。

 見切りをつけたカティが手に入れたのは惚れ薬だった。

 魔女の営む店の商品だ。その店は心底商品を手に入れたいと望む者にしか見つけられない。そんな眉唾物の店を、カティは見つけられた。店を見つけるのは簡単ではないが、店内の商品の値段は良心的だ。溜め込んだお小遣いで、カティは望む薬を買うことができた。

 その薬を、躊躇うことなくトビアスに飲ませた。薬を盛られるだなんて疑いもしていない彼に飲ませるのは容易い。

 数時間で薬の効果はあらわれ、トビアスはカティを女として愛してくれるようになった。

 娼館へ足を運ぶことはなくなり、愛おしむようにカティだけを見つめ、抱き締め、愛を囁いてくれるようになった。


「可愛いカティ。愛してるよ」


 カティの頬を撫で、口癖のようにそう言ってくれるようになった。

 彼の微笑みも視線もなにもかも、カティだけに向けられるようになった。

 毎日愛する人に愛を注がれ、カティは穏やかで幸せなひとときを過ごした。


「眠そうですね、トビアス様」


 とある休日。カティは一緒にお茶を飲んでいたトビアスの眠そうな顔を見て微笑んだ。


「え、いや、そんなことは……」

「ふふ。無理をなさらないで下さい。ほら、横になって。どうぞ、私の膝に頭を乗せて下さい」


 戸惑うトビアスを促せば、彼は躊躇いつつもソファに横になりカティの膝に頭を乗せた。


「痛くはありませんか?」

「全然。寧ろ柔らかくて寝心地がいいよ。カティの方こそ重くない? 脚が痛くなってしまうんじゃ……」

「大丈夫ですよ。さぁ、このまま少し眠って下さい」


 髪を鋤くように頭を優しく撫でれば、トビアスは瞼を閉じ、やがて眠りに落ちていった。

 膝の上の彼の穏やかな寝顔を見つめる。

 彼の寝不足はカティのせいだ。同じベッドで眠るようになったが、カティは性行為を拒んでいた。抱き締め合い、キスは交わすが、それ以上のことは許していない。惚れ薬を飲んだトビアスは当然のようにカティの体を求めてきた。夫婦なのだから、おかしなことではない。

 けれど、カティは決して体を許さなかった。毎晩同じベッドで眠るだけ。トビアスも無理強いはしない。カティがやんわり断れば、すんなり身を引いてくれた。しかし娼館で発散することもできなくなったトビアスは、カティと同じベッドでただ眠るだけというのは辛いようだ。なかなか眠りに就けない、そんな日々を送っていることをカティは知っていた。

 トビアスはカティを愛しているから、カティが望まない限り抱くことはないだろう。

 紳士的で優しくて、妻の気持ちを尊重してくれる素敵な旦那様だ。

 トビアスの寝顔を見ているだけで、カティはとても穏やかで満ち足りた気持ちになれた。

 愛する人に愛される喜びを知ることができた。

 トビアスは心からカティを愛してくれる。他の女性に目を向けることなく、カティだけを見てくれる。

 もう幸せは充分味わった。これ以上は望まない。

 カティの本当の目的はこの先にあるのだから。






 トビアスに惚れ薬を飲ませて一月が過ぎた、とある日の午後。

 カティはトビアスと向かい合う形でソファに座り、話を切り出した。


「トビアス様、私と離婚して下さい」

「っえ……?」


 トビアスの大きく見開かれた瞳に、微笑むカティが映っていた。

 彼は信じられないものを見るような目をカティに向ける。


「な、と、突然、なにを……なんで急にそんな……」


 愕然とするトビアスとは反対に、カティは穏やかな微笑を浮かべる。


「急に、ではありません。私はずっと前から考えていました」

「っ、ずっと、前……?」


 カティの言葉にショックを受け、トビアスの顔は蒼白になっていく。けれどカティは笑顔を絶やさない。


「ええ。トビアス様、自分のしたことをお忘れですか? 私以外の女性と関係を持っていたでしょう?」

「っ……」

「それに結婚してからも、娼館へ行ってましたよね? 私にはキスもしてくださらなかったのに」

「そ、それはっ、違うんだ……俺は君を妹のように思っていて……君への気持ちは家族に対するものと同じだと、そう思っていた。でも今は違うっ、君を一人の女性として、心から愛しているんだ……っ」


 それはそうだろう。惚れ薬を飲んでいるのだから。

 トビアスは必死に言い募るが、カティはそれが彼の本心ではないと知っている。だから、今さらなにを言われようと迷ったりはしない。


「私は、もう貴方を愛してはいないのです」

「っ……」

「今になって愛を囁かれても、もう遅いのです。私はとっくに、貴方に愛されることを諦めてしまったんですから」

「ま、待ってくれ、カティ……っ」


 トビアスの懇願を無視して、カティは用意していた紙をテーブルに広げる。離婚届だ。既にカティの署名はされている。

 それを見て、トビアスの双眸に絶望が滲む。


「嫌だっ、嫌だ、カティ、俺は君と別れたくないっ……愛しているんだ、カティっ、お願いだから、考え直してくれ……っ」

「いいえ、トビアス様。私を本当に愛していると仰るなら、私の望みを叶えて下さい」

「っ、待って、待ってくれ、カティ!」


 追い縋るトビアスに構わずカティは立ち上がり、準備していた荷物を手に取った。


「私はこのままここを去ります。決して私を追いかけないで下さい」

「カティ! 許してくれ、頼むっ、俺は、君がいなくては……っ」

「どうか、幸せに。さようなら、トビアス様」


 追いかけたくても、トビアスはカティの意思を蔑ろにはできない。優しい人だから、愛する人を無理やり縛り付けることなどしない。

 深い悲しみに顔を歪めるトビアスを置いて、カティは部屋を後にした。

 愛する人に捨てられ、彼の心は酷く傷ついたことだろう。

 だが、それも今だけだ。

 別れを切り出す前に、カティは惚れ薬の効果を消す薬を彼に飲ませた。薬の効果は二、三日であらわれる。三日も過ぎれば、彼の悲しみなど消えてなくなるのだ。だって彼はカティを愛してはいないのだから。

 離婚なんて今時珍しくもなく、それが彼の汚点になることもない。カティと離婚を成立させれば、彼は気兼ねなく娼館へ通うなり新しい妻を娶るなり、自由にできる。カティに縛られることなく、これからは好きに生きていくことだろう。別れを切り出したのはカティの方なのだから、彼が気に病むこともない。

 カティはただ、愛する人に愛されない悲しみをトビアスに知ってほしかっただけだ。ほんの少しでいいから、思い知らせたかったのだ。

 この先一生、苦しみ続けてほしいとまでは思わない。だから惚れ薬の効果は最初から消すつもりだった。

 カティは今でもトビアスを愛している。いっそ嫌いになれたら悲しむこともなかったのだが、カティの彼を思う気持ちは今も変わらない。だからこそ、これ以上彼の傍にいるのは辛かった。傍にいられるだけで幸せだなんて思えなかった。

 彼に愛されることを心から望んでいる。でもそれは叶わないから、別れることを決意した。

 溜め込んだお小遣いを使って遠くの街へ向かった。そこで運良く心優しい老夫婦と出会い、彼らの屋敷の掃除婦として住み込みで雇ってもらえることになった。






 カティは、平穏な日々を過ごしていた。

 トビアスと別れ、半月以上が過ぎていた。もうとっくに惚れ薬の効果は切れている。気持ちを切り替えて、彼は彼できっと楽しく過ごしていることだろう。

 トビアスと離れて過ごすうちに、いつかカティの傷も癒え、新しく恋をすることができるだろうか。いつかまた誰かに恋をして、今度こそはその人に愛されたい。

 今はまだカティの心はトビアスでいっぱいで、そんな日が訪れるなんて想像もできないけれど。

 買い物を終え、老夫婦の待つ家への帰り道。


「カティ……!」


 名前を呼ばれて振り返れば、トビアスがそこにいた。髪も服も乱れ、顔もやつれているように見える。

 カティはこの街で生活するようになってから実家に手紙を送っていた。自分の身勝手でトビアスと離婚したこと、実家には戻らずここで生活をはじめるということを書いて。カティの居場所は手紙に書いてあったので、トビアスはカティの両親に教えてもらったのだろう。

 唐突な再会に驚きはしたものの、カティは笑顔を浮かべた。


「トビアス様、どうかなさいました? わざわざこんなところまでいらっしゃるなんて」


 もしかして、離婚届に不備があったのだろうか。それとも大事な忘れ物でもあったのか。

 首を傾げるカティの前で、トビアスは膝をつく。


「トビアス様!? どうしました? 具合が悪いのですか?」

「カティ……! 頼む、戻ってきてくれ! 俺を捨てないでくれ……!」


 トビアスはカティの脚に縋りつく。

 カティは予想外のことに唖然とする。

 とりあえず彼を落ち着けようと、宥めるように肩を撫でた。


「落ち着いて下さい、トビアス様。どうなさったんです?」

「俺はカティと別れたくない……! 君を愛しているんだ! 別れるなんて嫌だ!」

「……ええ?」


 カティは戸惑った。

 どういうことだろう。惚れ薬の効果はもう切れている。それなのに、トビアスがこんなことを言うなんて。どうしてしまったのだろう。

 惚れ薬の効果があらわれていたときの感情が刷り込まれてしまったのかもしれない。彼はカティを愛していると錯覚しているのではないか。

 きっとそれでこんなことになってしまったのだろう。

 カティは身を屈め、トビアスと視線を合わせた。


「しっかりして下さい、トビアス様。その気持ちは貴方の勘違いです。貴方は私を愛してなんていませんよ」


 カティの言葉に、トビアスは傷ついたように顔を歪めた。


「どうしてそんなことを言うんだ……? いや、すまない……今までの俺の愚かな行いが原因だね……。信じてもらえなくても仕方のないことを俺はしてきたんだ……」


 でも、とトビアスはカティの手を強く握る。


「この気持ちは本物だ。俺はやっと気づいたんだ。カティが俺にとって誰よりも大切な存在だと」

「トビアス様……」

「カティを愛してる。本当なんだ、信じてほしい」


 トビアスは切実に訴えてくる。

 演技には見えない。そもそも演技をする理由はないだろう。ならばやはり、惚れ薬のせいで彼の気持ちがおかしくなってしまったのだ。


「わかりました、トビアス様」

「カティ……!」

「娼館に通って下さい」

「カティ……?」

「そうすれば、すぐに私のことなど忘れられますよ」


 娼館の魅力的な女性と触れ合えば、トビアスのカティへの気持ちは冷めていくだろう。今は惚れ薬の名残で盛り上がっているだけで、沢山の素敵な女性を相手にすればカティへの愛など錯覚だと気づくはずだ。

 微笑むカティとは反対に、トビアスの表情は更に暗く曇っていく。


「そんなこと言わないでくれ、カティ……。俺は君にしか触れたくない……」


 深い悲しみに暮れるトビアスの様子に、カティは困ってしまう。カティは別に彼を傷つけたいわけではない。普通に、幸せに暮らしてほしいと思っている。

 自分が飲ませた惚れ薬が原因なら、放っておくこともできない。


「ところでトビアス様、私達、離婚はしていないのですか?」

「…………ああ」

「離婚届は……」

「…………破いて捨てた」


 ばつが悪そうに視線を逸らすトビアスに、カティは小さく溜め息を零した。それならば、もう一度離婚届を用意しなくてはならない。その為にも戻る必要があるようだ。

 カティはひとまずトビアスを先に帰らせた。彼はカティと一緒でなければ嫌だと散々駄々をこねたが、必ず戻るからと約束してどうにかこうにか説得し、なんとか彼を見送ることができた。

 後ろ髪を引かれつつ帰っていくトビアスの姿が見えなくなり、カティはお世話になっている老夫婦の屋敷へ戻った。雇い主である二人に事情を説明し、辞めさせてほしいと伝え謝罪すれば彼らは急な話にも関わらず怒ることもなく受け入れてくれた。いつでも戻ってきてくれてもいいとさえ言ってくれた。

 心優しい二人に深く感謝し、カティはトビアスの待つ街へと戻った。

 まっすぐに彼の家へは向かわず、カティは魔女の店を探した。どうしてももう一度店に行きたいというカティの願いが通じ、無事に見つけることができた。

 薄暗い店の中へ足を踏み入れれば、前回訪れたときと変わらず店主である妖艶な美女が迎えてくれた。


「おや、また来たのかい?」


 店主はカティを見て目を眇める。店を訪れる客が少なく、カティは前回訪れてから二ヶ月も経っていないので覚えていたようだ。

 勧められるままに椅子に座り、出されたお茶を飲みながらカティは事情を話した。

 聞き終えた店主は言った。


「薬の効果は間違いなく切れてるよ。旦那がアンタを愛していると言うなら、その気持ちは本物だ」

「で、でも、惚れ薬を飲ませる前は、私のことなんて妹のようにしか思っていなくて……」

「妹のようだと思い込んでいただけだったんじゃないかい。その気持ちこそが旦那に刷り込まれていて、アンタを女として見れずにいた。惚れ薬を飲んだことで、漸くアンタが女だって気づいたのさ」


 店主の言葉に、カティはどう反応すればいいのかわからない。


「素直に喜べばいい。アンタだってずっと、旦那に愛されたいと望んでたんだろう?」

「それは……そうですけど……。でも、人の気持ちは変わることもあります。今は愛していたとしても、すぐに飽きて、また別の女性へ目を向けるかもしれません……」

「まあ、それは否定しないよ」


 トビアスはカティよりももっと大人っぽく洗練された女性がタイプなのだ。彼が関係を持っていた女性は全員そういうタイプだった。きっとその内目移りする。カティよりも魅力的な女性など沢山いるのだ。カティでは満足できなくて、いずれ気持ちは離れていくだろう。


「……彼の私への気持ちをなくしてしまう薬はありませんか? 私を愛しているという感情を消す薬」

「あるけど、お勧めはしないよ。薬を使ってコロコロと心を強制的に変化させたら、心が壊れてしまう可能性がある。一度や二度ならいいけれど、一年も経たずに短い期間で三度も四度も変えるのは危険だ。旦那を廃人にしたいって言うなら止めないけどね」

「……そうですか」


 さすがにそんなリスクは犯せない。彼の人生を台無しにすることは望んでいない。

 結局、カティはなにも買わずに店を出た。そのまま役所へ行って、新しく離婚届をもらった。

 トビアスは確かにカティを愛してくれているのかもしれない。けれど、きっとすぐに冷めてしまうだろう。

 カティはそう信じて疑わない。

 自分が彼に愛されるわけがない。

 愛している人に愛されたいと望んでいたはずなのに、カティはすっかり自信をなくしていた。

 トビアスの屋敷へ入れば、執事が出迎えてくれた。


「よく戻ってきて下さいました! お待ちしておりました、奥様!」

「ごめんなさい、急に出ていってしまって……。貴方にも迷惑をかけてしまったわよね」

「いいえ、私はいいのです。それよりも旦那様が……」

「トビアス様が……?」

「奥様が屋敷を出られてから、すっかり落ち込んでしまい……食欲もなくなり、仕事も全く手につかない状態になってしまわれて……」

「そうだったの……」


 確かに再会したトビアスはやつれていた。いつもきっちり身なりを整えていたのに髪も服も乱れて、あんなトビアスははじめて見た。

 カティに別れを切り出されたのがショックで憔悴し、そして別れたくないとカティを捜し迎えに来た。

 カティは確かに今もトビアスを愛している。だから彼の行動は喜ぶべきもののはずなのに。どうせすぐに飽きられると思い込んでしまっているカティは喜べない。

 トビアスはカティが帰ってきたことに涙を浮かべて喜んだ。

 歓喜に満ちた笑顔でカティを抱き締めるトビアスを見て、鞄の中に離婚届を潜ませていることを思うと罪悪感にチクリと胸が痛んだ。







 それから、再びトビアスの妻としての生活がはじまった。

 トビアスはカティを大切にしてくれる。まさにカティが幼い頃に夢見ていた、理想的な旦那様そのものだ。

 夜は同じベッドで眠るが、やはりカティは彼に抱かれることを拒んだ。トビアスはそれを責めずに受け入れてくれている。カティが傍にいてくれるだけで充分だと微笑んでくれる。

 大切にされていると実感できるのに、それを素直に受け止められない。

 ずっと好きで、浮気されても気持ちは変わらず、彼を愛しているのは確かなのに。心から愛する人が愛していると言ってくれているのに。こんなにも大切にされているのに。

 その事実に喜ぶこともできず、いつ彼が心変わりするのかと、そればかりを考えている。

 体を許さなければ、きっとその内我慢できなくなって娼館に行くはずだ。早くそうなってほしいとすら思ってしまう。この先ずっと怯えて過ごすくらいなら、早くカティへの愛が冷めてしまえばいいと。そうすれば傷は浅くて済む。ほらやっぱり、と笑って用意していた離婚届を彼に渡して、そしてカティはまたあの老夫婦のところへ戻るのだ。

 欲しいものを目の前に差し出されているのに、カティはそれに手を伸ばすことができない。手を伸ばした瞬間、取り上げられる恐怖に竦んで動けない。

 愛する人が浮気することを待ってしまっている。

 自分はおかしくなってしまったのだろうかと、カティは思った。

 だってこんな考え、まともではない。

 もっと早く、カティが彼に愛されることを諦めるよりも前に彼から愛の言葉を聞くことができていたら。

 そうしたら、きっと素直に信じられた。心から喜べた。愛する人に愛される喜びを純粋に感じられたのだろう。

 いつトビアスが娼館へ行くのか。夜中にこっそりベッドを抜け出すのではないか。仕事だと家を出て、女性と逢い引きしているのではないか。

 そんなことを考えて毎日気を張り詰めているカティは精神的に疲労していった。

 夜もあまり眠れず、ふらついたカティは足を滑らせ階段から転げ落ちそのまま意識を失った。

 目を覚ましたカティは、視界に入る見慣れぬ景色に戸惑う。独特の匂いに清潔なベッドに真っ白なシーツ。自分が病院のベッドに寝かされているのだと、それほど時間はかからずに気づくことができた。

 けれど。


「カティ! よかった、目が覚めたんだね!」


 そう言って笑顔で涙ぐむ男性を見て困惑した。


「トビアス、様……ですか……?」

「そうだよ。……どうしたんだ、カティ?」


 首を傾げるトビアスは、カティの知るトビアスとは少し違って見えた。


「あの……私、どうして病院に……?」

「覚えていないのか? 君は階段から落ちて意識を失ったんだよ」

「えっ……? うちの階段ですか?」

「そう。俺達の屋敷で」

「俺達の……?」

「…………」

「…………」


 カティとトビアスは言葉を失くし暫し見つめ合った。






 カティは頭を打った衝撃で約五年ほどの記憶を失くしてしまったようだ。カティが覚えているのはトビアスと結婚する前の記憶までで、ある日ふと目覚めたら自分は既に結婚していたという状況だった。

 記憶が戻るかどうかはわからない。

 不安もありはじめは混乱したけれど、ずっと好きだった人と結婚できていたことがカティは嬉しかった。

 トビアスは変わらず優しくて、カティを大切にしてくれる。寧ろ以前よりもずっとカティを気にかけ、入院中も時間の許す限り傍にいてくれた。

 退院後もカティを常に気遣い、あれこれと世話を焼いてくれた。

 なによりも、カティを見つめる瞳が前と違う。カティに送られる視線は熱が籠っていて、愛おしいという気持ちが伝わってくる。

 こんな風に見つめられた記憶は今のカティにはない。

 形だけではない、本当に彼の妻になれたのだ。

 愛する人と結ばれることができたのだ。

 そう実感し、カティは心からそれを喜んだ。

 まだ戸惑うこともあるけれど、とても幸せだった。

 退院して数日が経ち、カティは用意した夜着に着替えて夫婦の寝室に入った。少し色っぽい夜着だ。

 結婚して一年以上が過ぎている。カティは当然トビアスとの初夜は済ませていると思っていた。

 退院後、同じベッドで眠るだけだったが、今日は抱いてもらおうと覚悟を決めていた。記憶を失くしたカティにとっては今日が初夜になる。緊張するけれど、愛するトビアスに抱かれたい。

 ドキドキして、やって来たトビアスに身を寄せれば、やんわりと体を離された。


「トビアス様……?」

「こういうことは、やめておこう」


 はっきりと断られ、カティの胸に鋭い痛みが走る。

 思い出した。彼は大人っぽい女性が好きなのだ。彼が抱き締めてキスをするのは、カティよりももっと魅力的な女性だ。

 夫婦になれた事実に喜んで、彼に大切にされて、愛されていると思い込んでいた。

 けれどそれは違ったのだ。カティの自惚れに過ぎなかった。勝手に思い違いをして、浮かれて、そんな自分が恥ずかしかった。

 それを誤魔化すようにカティは笑う。


「ごめんなさい、そうですよね。私相手にそんな気にはなれませんよね。こんな格好、私には似合いませんし……」

「違う! そうじゃないんだ、カティ!!」


 トビアスは必死な様子で否定する。


「俺はカティを抱きたいと思ってるよ! その格好だって似合ってる! カティはとても魅力的な女性で、俺にはもったいないくらい素敵で、可愛くて、綺麗で、心から愛する大切な存在なんだ!」


 言い募るトビアスの表情は真剣だ。


「だから、こういうことは、カティが心から望んでくれてからしたいんだ……」

「私は、トビアス様を愛してます。トビアス様だからこそ、抱いてほしいと……」

「それは……っ」


 それは、君が記憶を失くしているからだ。

 言葉に詰まるトビアスがなにを言おうとしたのか、カティにはわからない。


「……それに、まだ退院して数日しか経っていないだろう。もう少し時間を置いた方がいい」


 カティは大人しく頷いた。

 ここでしつこく言い寄って、彼に嫌われたくはなかった。


「さあ、今日はもう眠ろう」


 促されて、ベッドに横になる。目を閉じれば、トビアスが優しく頭を撫でてくれた。

 大切にされているはずなのに、不安は消えない。


「もし記憶が戻ったら……記憶を失くした君を抱いたと知れば、カティは傷つくだろう……。でも、結局君を傷つけてしまった……。もう二度と、悲しませたくなんてないのに……」


 眠りに落ちたカティには、トビアスの独り言は届かなかった。






 不安を残したまま二日が過ぎた。

 その日、カティは自分の部屋で離婚届を発見した。

 震える手でそれを掴む。

 どうしてこんなものが自分の部屋にあるのかとカティは愕然とした。

 まさか、自分で用意するはずがない。

 だってカティは大好きだったトビアスと結婚できて喜んだはずだ。間違いなく幸せだったはずだ。

 それなのに、その幸せを自分から手離すはずがない。

 ならば、これはトビアスが用意したものなのではないか。

 そう考えて、血の気が引いていった。へなへなとその場にへたり込む。

 もしかしたら、署名しておくようにと言われ渡されたのではないか。

 カティが階段から落ちたのは、そのショックでふらついて足を滑らせたのではないか。

 記憶を失くしてしまったせいでうやむやになってしまったが、トビアスはカティと離婚したかったのではないか。

 色んな想像が頭を駆け巡る。

 それならば、彼がカティを抱かなかったことも納得できる。別れる予定の妻を抱きたいなんて思えないだろう。

 大切にされていると感じたのもカティの勘違いだったのかもしれない。彼は優しいから、記憶を失くして困惑するカティを冷たく突き放すことができなかったのかもしれない。離婚するはずだったなんて打ち明けられなかったのではないか。

 もしそうなら、カティはトビアスの望むようにしたい。自分の不注意で階段から落ちたのだ。記憶を失くしたせいでいつまでも彼を縛り付けておくことはできない。

 トビアスがカティを愛していないのであれば。

 カティと夫婦を続けても彼は幸せになれない。

 だからカティはトビアスに尋ねた。


「トビアス様、私と離婚したいですか?」


 カティのストレートな言葉にトビアスは目を剥いた。


「そんなわけないだろう!」


 声を大にしてきっぱりと否定される。

 カティは本心を探るようにトビアスの瞳を見つめた。


「正直におっしゃって下さって構いません。私はトビアス様の意思を尊重したいのです。貴方が望むのなら、私はそれに従います」

「離婚なんて望んでいないよ。本当だ、信じてくれ。俺は君を愛してる。君と離れたくなんてないんだ」


 トビアスは切実な様子でそう訴えてくる。

 彼の言葉が嘘だとは思えなかった。

 しかし愛していると言ってはくれるけれど、いつまで経っても彼はカティを抱いてはくれなかった。

 もう一度自分から誘うことはできない。はしたないと思われてしまうだろうし、また拒まれたらと考えると怖かった。

 だからカティはただひたすらにそのときを待ったけれど、やはり彼から手を伸ばしてくることもなかった。

 きっと、カティに魅力を感じないのだろう。

 結局、結婚してもカティは彼に女として見てもらえなかったのだ。

 カティに対するトビアスの愛は家族に対するものと同じなのだろう。子供の頃から変わらず、彼にとってカティは妹のような存在のままだったのだ。

 あの離婚届は、カティが用意したものなのだろう。

 結婚したけれど、トビアスとは本当の意味で夫婦にはなれない。きっとそれに気づいて、自分は離婚しようと決意したのだ。

 それならば、カティのとるべき行動は一つだ。

 離婚届に署名し、それを残してカティは家を出た。

 実家には帰れない。実家は近すぎて、いつトビアスと遭遇してしまうかわからない。できれば当分は顔を合わせたくない。トビアスもカティと町中で偶然鉢合わせてしまったら気まずいだろう。

 行く宛などないけれど、とりあえずこの町を出ようとカティは足を進めた。


「あら、カティさん?」


 歩いていると、名前を呼ばれた。顔を向ければ、見知らぬ年老いた紳士と淑女がカティを見て微笑んでいた。


「偶然ね。カティさん、この町の出身だったのね。私達、親戚がここで暮らしていて、遊びに来ていたところなのよ」

「えっ、あの……」


 親しげに声をかけられてカティは戸惑う。彼らに全く見覚えがなかった。つまり、記憶のない五年間の間に知り合ったのだろう。


「心配していたけれど、元気そうでよかったわ。でも、もしなにかあればまたいつでも家に来てくれて構わないからね」


 これから用事があるらしく、二人とは早々に別れた。

 彼らの背中を、カティは呆然と見送った。

 二人とはどこで知り合い、どんな関係だったのだろうか。少なくともこの町ではない。自分は一体なんのためにこの町を離れたのだろう。

 ぐるぐると沸き上がる疑問に目眩を感じ、カティは近くの街路樹に手をついた。

 あの淑女の言っていた言葉の意味はなんなのだろう。心配していたとはどういうことなのか。なにかあればまたいつでも家に来てくれて構わない、なんて。

 カティは彼らのお世話になっていたことがあるのだろうか。どうして。トビアスと結婚しているのに。結婚する前に一人でこの町を出て、そしてあの二人の家に厄介にでもなっていたというのだろうか。

 頭に痛みが走り、それは徐々に強くなっていく。

 カティが忘れてしまった五年間に、一体なにがあったというのだ。

 ズキンズキンと強い痛みに頭を押さえる。

 痛みに耐え、カティは考えることをやめなかった。そうすれば、思い出せるような気がした。

 ひとまずベンチへ移動しようと足を動かしたとき、離れた場所にトビアスの姿が見えた。

 彼は肩で息をしながらキョロキョロと周りに顔を向けている。そして、カティと目が合った。

 こちらに駆け寄ってくるトビアスの姿を見て、カティは思わず逃げ出した。考えるのをやめれば頭痛は引いた。

 今は彼と会いたくない。まだ落ち着いて話ができる状態ではない。

 無我夢中で人気のない路地裏へと駆け込む。少しでも彼から離れたくて、とにかく遠くへ行こうとひたすら走った。

 きちんと前を見ていなかったカティは、柄の悪い男にぶつかってしまう。


「いってぇなぁ! なにしやがる!」

「ひっ、す、すみません……!」


 怒声を浴びせられ、カティは恐怖に身を縮めた。

 二人組の男が、カティに詰め寄ってくる。


「すみませんで済むわけねーだろ!」

「こっち来いよ!」

「きゃあ……っ」


 強く腕を掴まれ、か細い悲鳴を上げる。


「やめろ、カティから手を放せ!」


 足が竦んで逃げることもできないカティのもとに、トビアスが現れた。男の手を無理やり引き剥がし、トビアスはカティを背中に庇う。


「トビアス様……!?」

「逃げろ、カティ……!」


 二人の男は怒りに顔を歪める。


「なんだてめぇ、邪魔するんじゃねーよ!」

「引っ込んでろよ、クソが!」


 ガツッと激しい音を立て、一人の男がトビアスを殴り付けた。その衝撃にトビアスは地面に倒れる。


「トビアス様!!」

「っ……早く逃げろ!」


 トビアスはカティを逃がすため、立ち上がり時間を稼ごうとする。

 カティは震える足を動かし走り出す。


「誰か……! 誰か助けて下さい!! お願いします、誰か助けて……!!」


 カティは必死に叫び、人通りの多い道へ飛び出した。声を聞きつけ駆け付けた衛兵と共にトビアスのもとへ戻れば、彼は地面に倒れ伏し気を失っていた。






 病院のベッドに寝かされているトビアスの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

 それを見て、カティは声を上げた。


「トビアス様!」

「っ、うっ……カティ……?」

「トビアス様……トビアス様……っ」

「大丈夫か、カティ……? 怪我はない……?」


 体を起こしたトビアスは真っ先にカティの心配をする。カティの顔や体を見て、怪我がないかを確認している。

 カティの瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。


「っなんで、私の心配なんか……。自分のことを心配して下さいっ。私なんて、一つの傷も負っていません……トビアス様が、助けて下さったから……っ」

「そうか、よかった……」


 トビアスは本当に安心したように微笑む。


「でも、カッコ悪いね……こんなにボロボロにされて……もっとカッコ良く助けられたらよかったのに」


 自嘲し、痣だらけの顔を歪めるトビアスを見て、更に涙が溢れた。


「カッコ悪くなんてありませんっ……。そんな風に、笑わないで下さい……っ。こんなに、傷だらけで……私のせいなのにっ……私のせいで、トビアス様が……!」

「カティのせいじゃないよ。俺が君を追いかけてしまったから……」


 ベッドの上できつく握り締められたカティの手に、トビアスの手が重なる。


「カティ、俺は本当に君を愛してる。一人の女性として、心から愛しく思っているんだ。君を抱かなかったのは……」

「わかっています」


 トビアスの言葉を遮り、カティは言った。


「私の為に、そうしてくれていたんですよね。私の気持ちを、考えてくれたんですよね……」

「カティ、もしかして……」


 目を見開くトビアスに、カティは頷く。

 カティの記憶は戻っていた。倒れ伏すトビアスを見たときに強いショックを受け、そのときに一気に記憶が蘇ったのだ。


「でも、ごめん……。カティを傷つけたくなかったのに、俺の行動は結局君を傷つけるだけだった……。そのくせ、しつこく追いかけたりして」

「トビアス様……」

「愛してるんだ……どれだけ嫌われても、カティを愛してる……」

「……嫌いになんて、なっていません」


 嫌いになれるのなら、とっくに嫌いになっていた。トビアスの気持ちなんて無視して離婚して、とっくに彼の前からいなくなっている。

 彼の愛を信じられないと思いながら、それでも信じたいと思ってしまうのだ。


「私は今でも、トビアス様を愛しています……」


 重ねられたトビアスの手を握る。


「信じるのが怖い……でも、信じたいんです。私はトビアス様と一緒にいたい……貴方の傍にいたい」

「カティ……」


 カティの手を、トビアスが強く握り返してくれる。


「これから、やり直させてほしい。もう間違わない。君だけを愛すると誓うよ、カティ」


 引き寄せられるように、どちらからともなく唇を重ねた。

 涙の交じる口づけはしょっぱくて、けれどとても甘かった。








 読んで下さってありがとうございます。




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