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「お母さん、この天気じゃあ、今日はもう誰もいらっしゃらないんじゃないかしらねぇ。」
ほんわか、のんびりした声で、パトリシアが話しかけてくる。
私は、ドアの外の吹きすさぶ風と叩きつけるような雨に耳をそばだてた。
「そうねぇ。この天気じゃねえ。ダイのお客様はまだいらっしゃるの?」
そう問いかけると、パットが、
「いえ、先ほどもうお帰りになったわ。」
と、またふんわり微笑んだ。
パトリシアは、そのふっくらした外見と、いつも笑っているようなタレ目どおり、朗らかな優しい振る舞いが人気の家のナンバー3だ。
そう、ここは王都の西のはずれにある、娼館なのだ。貴族の方々も通うちょっとした高級妓家で、歌や踊りを披露したり、ゲームや賭け事もできるようにして、まあ、総合エンターテイメントを提供できるようにしている。
女の子たちは私のことをお母さんと呼んでいるが、別に私は母親ではない。手っ取り早く言えば、置屋の婆、娼館の女将だ。この店がうまく周るよう、色々なこと、主にお金関係だが、を仕切っている。
元々、下働きで入って、炊事洗濯をやっていたのに、度胸を買われて、いつの間にか経営の方に駆り出されていた。まあ、死なないんだから、度胸は良いわな。
ある日、支払いを渋る客に、
「支払うおつもりがないんでしたら、私を殺してからここから出て行ってくださいね。」
と、言ったのが、前の女将に受けて、それ以来、引退を目指す女将にさんざ修行を積まされ、今じゃこの有様だ。どうしてこうなった。
まあ、別に、売春の善悪をどうこう言うほど正しい生き方をしてきたわけではないし、どんな事情があるにせよ、この仕事につかなければ自分も(時には家族も)生きていけないという女の子たちを、なるべく楽に暮らせるよう、そのお手伝いをする、ぐらいのつもりでいる。
ついでに言えば、久々のお母さん呼びも、孤独な心にはちょっと染み入るものがある。
バタ、バタ、バタ。
窓に何度か木の枝が打ち付けられている。久々の嵐だ。さすがにこの天気ではこの店も開店休業だ。
私がパトリシアに、
「ちょっと早めに店じまいして、久しぶりに皆で一緒に食事をしましょうか。私が賄いさんに声をかけてくるから、全員食堂に降りてくるよう呼んで来てくれる?」
と、頼んだ。パトリシアの目が糸のように細くなった。
「はーい!」
と返事をすると、二階に向かう。
私は、使い走りの子を見つけると、賄いさんに皆の食事を食堂に用意してくれるよう、伝言を頼んだ。いつもは手の開いた子からバラバラと食事をとることが多いので、すぐには用意も難しいだろう。だが、女の子達が話しをしながら一緒に食事のできる機会はあまり多くないので、無理をしてでもこう言った時間は楽しみだ。
雑用係のマニーが通りかかったので、表の看板の火を落として、門を閉めてくれるようお願いした。彼はいつも通り私の指示に黙って頷くだけだった。
マニーは娼館には数少ない男手だ。声を発したところを見たことはないので、何らかの理由で話せないのだと思う。しかし、遠くから呼んでも聞きつけてやってくるので、耳が遠い訳ではないようだ。声だけが出ない。そのせいでまともなところでは仕事がないのだろうか。 娼館での汚れ仕事を嫌がりもせず片付けてくれる。
マニーが雨合羽を着て、嵐の中外に出て行くと、二階から賑やかな声が降りてきた。どんなところであろうとも、若い女の子が集まると姦しいものだ。店に出ている子だけでも10人はくだらないのだが、修行中の子や三階で作業をする裏方の子たちも混ざっている。こりゃあ、賄いさんも大忙しだ。下働きの子達に手伝ってもらおう、と頭の中で給仕の仕分けをしていた。
集団の先頭は、店のナンバー1、ラヴィニアだ。
ウェーブのかかった艶のある黒髪に、長い睫毛に囲まれた切れ長の目。その目には思いの外鋭い眼光が隠されていることに、私は何度か気付かされた。ラヴィニアはこの店の中でも踊りにかけては右に出るものはないだけではなく、頭の回転が早く、どんな客でも見事に持ち上げる、驚くべき会話術の持ち主だ。
「こんな機会は滅多にないから、みんなに声をかけたんだけれど、大丈夫かしらお母さん?」
うっすら微笑みは浮かんでいるが、有無を言わせぬ笑顔だ。客は持ち上げても、置屋の婆に売る媚びはないと見た。だが、私も元々そのつもりだったので、余計なことは言わない。
「ええ、食事の量は大丈夫だと思うけど、給仕に何人か、賄いさんも手伝いがいると思うのよ。誰か回ってくれるかしら?」
私の声の終わらない内に修行中の子が二人ほど、食堂に向かって走り出た。
引き続きガヤガヤと話しながら降りてくる女の子達を見上げていると、後ろでドアの開く音がした。門を閉めたマニーが戻ってきたのだろうとゆっくり振り向いた。
濡れそぼったマニーには違いなかったが、その腕の中には、雨合羽に包まれた女の子が横抱きにされていた。