17
寝室に走り込むと、そこには、ヴァンの襟首を掴んで、片手で持ち上げ、振り回している大柄な男がいた。おそらくこの人が下男なのだろう。
ヴァンは自分の襟首をつかむ男の手を必死に捕まえようとしている。
私はそのまま男の腕に飛びついて叫んだ。
「申し訳ございません!堪忍してくださいませ。大広間の暖炉を掃除しようとしておりましたのに、うっかり煙突を間違えてしまいました!すぐにお暇させていただきます!お許しくださいませ!」
必死に止めようとするが、男は一言も発せず、眉一つ動かさず、ヴァンをつかむ手を緩めようともしない。私は既に男の腕に飛びついて、ぶら下がっていたのだが。
その時、寝室の奥のドアが開いて、ローブを着た女性が入って来た。
「あら、あら、ジョージ、一体何事なの?」
ジョージと呼ばれた男は振り向いて女性の方を見たけれど、相変わらずなんの言葉も発しない。ヴァンはまだ、襟首をつかまれて、空中に浮かんだままだ。
私は必死に女性に訴えた。
「煙突掃除屋でございます!申し訳ございません。うちの子が煙突を間違えて、奥様の部屋にお邪魔してしまいました。本当に申し訳ございません。」
これが領主の奥様なのであろう。漆黒の髪を高くまとめあげているが、後れ毛が少しローブの首元にかかっている。
おそらく湯上りなのだろう。匂い立つような白い肌が、ローブの胸元から見えている。顔も光沢のある美しい肌だ。黒曜石のような目は半眼で、お風呂でくつろいでいたことを思わせた。化粧も落としているだろうに、少しも美しさが損なわれていない。薄い唇は目の覚めるような紅色だ。
その口元に、面白がるような微笑みが浮かんだ。
私の首の後ろの毛がそそり立った。どうしてこの女の美しさはなんとも言えない邪悪さを感じさせるのだろう。
「ああ、今日は煙突掃除が入るっていってたわねぇ。この部屋はお願いしてなかったはずよ?」
「はい、申し訳ございません。子供が降りる煙突を間違えまして。」
「そう、ジョージ、下ろしてあげなさいな。」
奥様に命じられて、ジョージが乱暴に、ドスンとヴァンを床に落とした。ジョージの顔からはなんの表情もうかがえない。少なくとも、子供に手を出した罪悪感はないようだ。
私は急いでヴァンの肩を抱き、
「大丈夫かい?」
と尋ねた。ヴァンは私の問いに返事をせず、じっと奥様の顔を見上げている。
「ヴァン!」
私がもう一度囁くと、ヴァンの目がようやく私の方を向いた。
そのヴァンの頭を押さえ、私と一緒に奥様に頭を下げさせる。
「本当に申し訳ございません、奥様。」
奥様はどうでもよさそうに、ひらひらと手を振ると、化粧台に向かう。
化粧台の椅子に腰掛けると、ジョージに向かって、
「テレサが湯を片付けているから手伝ってやって頂戴。」
と命じた。どうやら私たちのことは気にならないようだ。私は安堵のため息を漏らした。
テレサというのがきっと侍女なのだろう。
ジョージが湯殿に移動しているのを見て、私たちはもう一度、鏡台に向かう後ろ姿の奥様に深々とお辞儀した。奥様の気が変わらぬうちに寝室から出ようと、廊下に向かって開いていたドアに向かう。
私はヴァンの手を取って、とにかくこの部屋を出ようとしていた。
ヴァンが私の手を振り払う。
「血の匂いだ!」
そのままヴァンは、ジョージが開け放った浴室のドアに向かって走りだした。
「ヴァン!」
止めようとした私の手は空を切る。急いでヴァンの後を追う。
間に合わない。
ヴァンはドアを潜り、浴室に走り込んだままジョージに首根っこを押さえられていた。
またか、と思いつつ、私も煌々と灯りのついた浴室に到達した。急いでこの場を収めなければ。
「なんたるご無礼を。申し訳・・・」
首根っこを押さえられても、ヴァンは吸い寄せられるように、浴室の奥を見つめている。その目の先を私も思わず見遣った。
そこに有ったのは、優雅な四つ足の浴槽だった。浴槽の光り輝く白い磁器の表面を、侍女が丁寧に拭いている。
侍女の持つ布は、真っ赤に染まっている。なぜ?
見ているものに頭が追いつかない。
視線を少し上げると、 まるで浴槽を見下ろすように、四肢を鎖で繋がれた全裸の女性が吊り下げられているのが目に入った。