12 アナ・ハーツディル公爵令嬢 (3)
「おい、女が逃げたぞ!」
女?そんな呼び方されたの初めてだ。その声に困惑していたら、ライラがぐっと腕を掴んできた。
「様子見よう?」
私は分かった、と頷いた。
「探せ!」
随分乱暴ねぇ、とのんびり構えていたら、いきなりの大声。
「居たぞ!あそこだ!」
反射的に身体中がその瞬間萎縮した。見つかったのだろうか?
私の緊張が伝わったのか、ライラの手が私の腕を優しく摩ってくれた。
「大丈夫よ、アナ。私たちじゃないわ。」
そう言われて驚いた。勇気を振り絞って毛布から少しだけ這い出す。ライラと同じように、薮を押し分けて、馬車の方を見てみる。
御者達は張り出した崖の方にむかって走っている。
走るそのその先には・・・私と同じ様な質素な黒いドレスの女性が海に向かっていた。金色の髪が靡いている。崖の先には海しかない。崖から海まで、多分10メートルはあるのではないだろうか。あんな高さから落ちたら・・・
ライラが呟いた。
「うーん、あまり近くまで追いつかれると不味いわ。どうやってもあの後ろ姿とお尻は10代には見えないもんねぇ。」
その言葉が終わらないうちに、女性は海にその身を投げた。
「ヒッ!」
私が息を飲み、思わず立ち上がりそうになると、ライラがまた私の腕を掴んで押さえ込んだ。
「大丈夫。ドロレスは無事だから。ちゃんと戻ってくるから、心配しないの。」
ライラの自信たっぷりの声に、私は立ち上がるのをなんとか我慢することができた。
二人の御者は、しばらく崖から海の方を伺っていたけれど、ようやく諦めたのか、のろのろと馬車の方に戻ってくる。
若い方の御者が、
「どうします?殿下に死んだ証拠を持ってこいって言われてましたけど。あの崖じゃあ、下までおりられませんぜ。」
と、太って樽のような年配の同僚に話しかけている。
その声を聞いて、私は全てを理解した。ジェレマイア殿下は私を修道院に送るつもりなどなかったのだ。修道院に行くまでの途中、人気がなくなったら私は、御者達に殺されていたに違いない。
「人が近づいてきた気配がしたから、死体を急いで海に放り込んだとでも言っておきゃあいいだろ。」
樽男は、いきなりの運動にはぁはぁ息を切らしている。
若い男ががっかりしたように、
「チェッ、それにしても残念だったな。少し遊んでから、殺そうと思ってたのに。」
と、肩をすくめた。
樽男が、笑いながら、
「若い奴は、あんな顔でもいいんだな。俺はゴメンだな。」
と、からかっている。
私の顔に火がついた。
「どんな顔だろうと、貴族のお嬢様だぜ、遊びがいがあるってもんじゃないか。殿下も、少し思い知らせてやれ、っておっしゃってくださったし。」
それ以上彼らの話を聞く気力がなかった。私は、ゴソゴソと毛布の下に潜りこみ震える体に自分で自分の手を回した。
どうやって我慢をしようとしても、涙が止まらない。
毛布の中に、ライラも潜り込んできた。ライラの手が私の肩に回され、顎が私の頭の上に乗ったのが感じられる。
どうしてこうなったのだろう?何がいけなかったのだろう?自分の運命が信じられなかった。
「ヒック、私が何をしたというの?ヒック」
ライラの手が頭にまで上がってきて、優しく髪を撫でてくれる。
「アイツは普通じゃない。アナが涙を流す必要も価値もない奴だよ。周りに毒を撒き散らさなければ我慢ならないんだから。アナが何をしようとも、ジェレマイアは己の残酷な渇きに従って、アナを虐待せずにはいられないんだよ。」
どうして?どんな人間がそんなことができるの?
「ジェレマイア様は悪魔だわ。」
私が呟くと、ライラが説明してくれた。
「悪魔でも化け物でもない。ただの残虐な人間だよ。弱者にしか威張れないから必死に周りを貶めているんだろうね。自分より気高い人間なんて許せないし、だからこそアナを虐げたんだよ。もう、あんな奴のために泣くのはやめようね?」
そう言われてもジェレマイア様のことが恐ろしくてたまらない。あの美しい顔に浮かんだ、蔑んだ瞳が。
家も爵位も、両親や家族さえ犠牲にして逃げ出して来たのに。逃げだせたと思ったのに。一体どこまで追いかけてくるのだろう?
ライラが再び話しかけてくる。
「まず、アイツがただの人間だと認識しなきゃね。もう『ジェレマイアサマ』、とか『デンカー』とか言わなくていいからね。人なんだから倒せる筈だよ。いい?現にちゃんと私たちがアナを救い出せたでしょう?やりようはある筈だよ。」
ライラの体から暖かいものが伝わってきて、冷え切っていた私の体も毛布の下で、じんわり温もってきた。