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097 遁走と考察と

 リューネが砦の様子を見に行った後。

 レウ様はしばらく退屈そうに辺りをふらふらしていたが、そのうち手持ち無沙汰に木陰に座り込んだ。


「シェーナも座りなよ。リューネもいつ戻ってくるかわかんないんだし」

「いえ、私はレウ様のメイドですから」

「そんなこと気にしないでいいのに。ほら、ここには僕らしかいないしさ。あ、でも、地面に座ったらお尻汚れちゃうかな? 気にする?」

「あ、いえ、そういうことでは……。ええと、では、失礼します」

「うん、どうぞ」


 一度は固辞したものの、結局促されるままレウ様の側に腰を下ろしてしまう。こっそりと、ほんの少しだけ彼の方へ身を寄せる。胸の奥がほんのり温かくなる。

 ……ああ、駄目だ。こんなことを思っては。私はレウ様のものだけれど、レウ様は私のものにはなってくれない。なってはいけない。だって、彼はもう村で暮らしていたときの彼とは違う。彼はもう、私の幼馴染みの男の子じゃない。いずれ王になる人なのだ。私なんかが独り占めしたいなんて、思ってはいけない人なのだ。そんなこと、とうの昔からわかっていた。だからこんな、思うだけ辛くなるようなこと、考えるべきじゃない。べきじゃない、のに……。

 ──ああ、やっぱり駄目だ。私は私の想いをどうしても捨てられない。


「静かだねー……」

「そう、ですね」


 レウ様がしみじみと呟く。

 夜の林は、虫の音と梟かなにかの鳥の鳴き声、それと風にがさがさと揺れる草木の他はほとんどまったく音も気配もない。

 まるで……まるで、この世界の人が私とレウ様だけになってしまったかのよう。


「なんか、こうしてると世界に僕とシェーナしかいないみたいだ」

「ッ!」


 彼はきっと、本当に大した意図もなく、何の気もなしに言ったのだろう。

 でも、それを聞いた私は泣きそうになってしまう。嬉しいからじゃない。悲しいから、とも違う。自分がなんでこんな気持ちになるのかもわからないのに、涙がじわりと目の端に浮かんで、私は思わずレウ様から顔を背ける。


「……? シェーナ? どうしたの?」

 本心から、私を案じて手を伸ばすレウ様。

 その優しさにこそ、今は触れたくない。


「触らないで!」


 思わず叫んでいた。

 レウ様は驚いたように伸ばしかけた手を止める。


「ごめん……」

「あ、ちが、違うんです、レウ様は、何も悪くなくて、悪いのは私で……!」


 はっとする。

 こんな八つ当たりがしたかったわけじゃない。慌ててレウ様に謝ろうとしたその時。

 ぐい、と唐突に引き寄せられた。

 レウ様に抱き締められた、と分かったのは、そうされてからたっぷり五秒も経ってから。

 彼は、幼子をあやすように、とん、とん、とん、とゆっくりと一定のリズムで私の背を軽くたたく。


「……まあ、君があれもこれも溜め込むのは今に始まったことじゃないけどさ。あんまり無理しないでよ。もっと僕を頼って、甘えてさ。僕じゃ頼りないならリューネでもいいから。シェーナ。僕は君に辛い思いをしてほしくないよ。君は僕の大切な人なんだから」

「ッ……!」


 ずるい。

 この人は、いつもこうだ。

 何も知らないのに、何もわかっていないのに、でもいつだって私が喜ぶ言葉をくれる。

 本当に、ずるい。こんなので喜んでしまう私も私だ。

 だけど……やっぱり私は抗えない。ぎゅ、と彼の胸元を握って、私はしばし彼の胸に顔を埋めていた。


「……ありがとうございました」

「落ち着いた?」


 ややあって、身を離す。

 ……ああは言われたものの、甘えすぎではなかったろうか。嬉しくはあったが、恥ずかしいといえば恥ずかしいのも間違いない。

 ほんのりと頬を染める私を見て、レウ様はけらけらと笑う。


「なんですか」

「あはは、いや、ううん、なんでも」


 レウ様は楽しげに笑うばかりで答えてはくれない。結局、なぜ笑ったのかはよくわからなかった。


(……でも、レウ様が楽しそうですから、よしとしましょう)


 ほぅ、と私が小さく息を吐いた、まさにその瞬間のことだった。

 私たちの足元を、魔力が駆け抜けた。ぞわ、と鳥肌が立つ。けれど、それは覚えのある魔力。リューネのそれ。『探知』だ。万一のことがあれば、と彼女が言っていた、危険信号。


「レウ様っ!」

「へっ? 何っ?」

「『探知』です! リューネの!」

「なっ!? まさか! 夜だぞ、今は!」

「何があったのかはわかりません! でも、何をすべきかはわかります! 逃げましょう、今すぐに!」

「っ、ならリューネを助けにっ……いや、そうか。わかった。逃げよう」


 レウ様は反射的に言いかけた言葉を止め、私に賛同する。

 リューネからの危険信号が意味しうることは、二つ。一つには、リューネ自身が危険に陥っている場合。もう一つは、私たちの方が危険である場合。可能性が圧倒的に高いのは、後者だ。そして、仮にリューネが苦戦するほどの敵であった場合、私たちが助けに行ってもむしろ足手まといになるだけということもありうる。彼女一人なら、いかな強敵であっても逃げられもしないということはないだろう。だから、今の私たちにできることは、可能な限り遠くまで逃げること。

 ズドン、と轟音が夜の静寂をかき乱す。音に驚いた動物たちがにわかに騒ぎ始める。


「なんだ今の!?」

「たぶん、『爆裂』です!」


 一目散に砦から真反対の方向へ逃げながら、ちらちらと背後を伺って叫んだレウ様に、大雑把に読み取った分析を伝える。

 逃げる。逃げる。逃げる。

『高速』に加え、『加速』の魔法も手に入れた私は、レウ様よりも早い。


「レウ様、抱えましょうか?」

「うぐ……! やっぱりそうなる?」

「今は何より早く逃げるのが第一では?」


 私の提案に、苦々しげにいかにも嫌そうにレウ様は答えたが、しかし逡巡はわずか。私と手を繋ぎ、走りながら身長ほどの高さまで跳躍する。

 落ちてくるレウ様を受け止め、姫抱きに抱える。もちろん、『剛力』の魔法がなければこんなことはできない。恥ずかしそうに決まり悪げに縮こまるかわいいレウ様をこんな間近で見られただけで【神】になった甲斐もあったというものだ。

 足に力を込め、魔力をさらに回す。魔法が一段効力を上げて駆動する。

 背後から連鎖して聞こえる大量の爆発も今の私には祝砲のよう。


「うわ、ちょ、シェーナ、速っ、景色歪んでる! シェーナ!? 聞いてる!?」

「大丈夫です、レウ様。音の速さはまだ超えてませんから」

「いやいや全然安心できな……、まだ(・・)!? 今まだ(・・)って言っ、ああっ!? なんで加速してるの!? いくら逃げるにしても流石に危な、うわぁぁぁぁぁあああっ!?」


 あっという間に私たちは【剣の魔】と戦った戦場すら越え、今日の昼に寄った町の近くまで戻ってきていた。

 流石にグロッキーな様子のレウ様を見て、一度速度を緩め、停止する。……私も少々テンションを上げすぎていたような気もしないではない。

 と、ちょうどその時、すぐそばの空間に亀裂が入る。そこから感じるのは慣れた【魔】の魔力。すなわち、リューネのそれ。

 予想通り、『転移』してきたリューネが現れた。


「ずいぶん、遠くまで逃げたわね。やるじゃない。……レウはどうしたの、それ」

「ええと……その、少し」


 ぷるぷると震えるレウ様を見て、リューネが問う。

 なんとも答えかねて、返答は適当に濁す。


「? まあいいわ。念のため、もう少し逃げましょう。話はそのあと。二人を抱えていくけれど、いい?」


 頷く私と、ぶんぶんと勢いよく左右に首を振るレウ様。

 ……やはり、申し訳ないことをした。自分の想像を越える速度で振り回されるのがいかに恐いかはよく知っていたのに。

 いかにも正常とは言い難いレウ様を見て、呆れた調子でリューネは私に咎めるような視線を向ける。


「本当に何したのよ、貴女……」

「反省しています……」


 はぁ、とため息をついた彼女は、


「なら『転移』で行くわ。それならいいでしょう?」

「短距離『転移』を繰り返して跳んでいくんですか?」

「それは流石に効率悪いわね。普通に目印(アンカー)を使って長距離『転移』よ。アイシャの離宮か、ここに来る前に居た隠れ家、どっちがいい?」

「その目印(アンカー)、あらかじめ用意してたの?」

「ええ、それぞれの場所に居たときに。……反省したのよ。初めから離宮に目印(アンカー)を置いておけば、あのヤリアでの戦いの時も、あんなことにはならなかったはずだもの」

「それは君が責任を感じることじゃない。あれを予測しろっていうのは無理だ」

「まあそうなのでしょうね。けど、だからこそ、なんでも備えておくに越したことはないと思ったの。で? どっちにする?」

「……隠れ家、かな。結果的に離宮に向かうにしても、いきなりあんな王都の近くに行くのは怖い。隠れ家ならツトロウスともすぐ合流できるだろうし」

「そ。ならそっちにしましょう。跳ぶわよ? 『転移』」


  ◆◇◆◇◆


「ファルアテネ。アスティティアの様子はどうだ?」

「……芳しくはありません。命は繋ぎ止めましたが……」


 一夜が明け。

 【夜の魔】リューネ『ヨミ』と思しき【魔】との戦いで大きな怪我を負った私の【神】──【裁断の女神】アスティティアは、かろうじて一命を取り留めたらしかった。

 素行や思想に問題がないとは言わないが、それでも私の戦力たる【神】であることは間違いない。治療をしてやる必要はある。王都に戻れば私のもう一人の【神】たるダイモンや、父親(へいか)の【神】の力も借りられるだろう。

 そも、この地に現れた【剣の魔】がすでに国軍の士官に討たれていた時点で、私がこれ以上長居する意味もない。


「そうか。ならば王都に戻る。……バークラフト中尉」

「は、はいっ!」

「歓待、ご苦労だった。私はもうここを去るが、これからも一層職務に励むといい。我らの陛下と、この国のために。ああ、それと、近いうちにマサキ少尉には昇進の辞令が来るだろう。心構えを持っておきたまえ」

「は! ありがたき幸せでこざいます、殿下!」


 深々と頭を下げる士官たちに軽く手を振り、ファルアテネに『飛行』の魔法を施された私は飛び上がった。


「畏れながら、殿下。お話をよろしいでしょうか」

「なんだ?」


 青空を悠々と進む我々の周りには、数羽の鳥ばかりが飛んでいるのが見えるのみ。

 そこでファルアテネが口を開いたのは、軍の士官など他人の前での諫言は避けるべきだという彼女なりの配慮だったのかもしれない。


「この度は、我々の未熟ゆえに殿下を危険に晒すような事態に陥ったこと、言い訳のしようもございません。ですが、我々の力も無限大ではありません。殿下がこのように配下をほとんど連れない外出をされますと、いずれ万一の自体が起こらないとも限りません」

「ふむ。お前たちは私を守らない、と?」

「まさか! もちろん、我々は死力を尽くさせて頂きます。ですが、今回、リューネ『ヨミ』が現れました。あれは偶然ではありましょうが、あれほどの敵となると……殿下?」


 ほんの少し私が口の端に浮かべた笑み。陛下や弟たち、血の繋がった家族であっても気づかなかっただろうそれを、しかし付き合いの長いこの【女神】は察し、意図を問う。


「偶然ではないだろうな」

「は……?」

「あの【夜の魔】だ。あれはレウルートの配下だ」


 ぽかん、とファルアテネはらしくない大口を開ける。

 一瞬の間があって、驚きと困惑の声を上げた。


「は……いえ、殿下、流石に、それは。人間の怨敵たる【魔】を配下になど」

「レウルートはやるとも。あれはおよそ自らと……せいぜい、やつの母の侍女くらいか。ごく一部の身内のことしか考えていない。あれにとって国が滅ぼうが人が滅ぼうが関係はない。ゆえに、【魔】だろうとなんだろうと、使えるものは使うだろうよ」

「それは……なるほど、確かかもしれません。ですが、それがすなわちレウルート第五王子の配下であると示すわけでは」

「過去の記録を鑑みるに、あの【夜の魔】は元来人間への干渉を避けようとする風があった。それが穏当な人格ゆえか、討伐を恐れるがゆえかはわからないが。しかし、いずれにしても私を襲ったのが通常の動きでないことは明らかだ。協力者か、ないしは上がいる。が、それが外患であるセンは薄い。まず、ナローセル帝国は違う。知っての通り、あの【魔】はナローセルで生まれ、あの地で名を上げた【魔】であるから、帝国は【夜の魔】の討伐に血道を上げていた。方針転換があったにしても、あれほど肥大した帝国のそれがこうもスムーズにいくはずはない。クリルファシート王国は言うまでもないな。【神】を神聖視する神話教会の本拠地がよりにもよって【魔】を抱え込むわけはない。オリエント都市同盟とティーリア王国は、可能性の上ではなくはないが、いずれの国も古神勢力との戦線を抱えている。【夜の魔】を投入するなら、関係もさほど悪くないウェルサーム(わたし)ではなくそちらだろう」

「ならば、内憂である、と?」

「もちろん、貴族や王族、軍部がそこまでのことをしていれば私が気付く。私の目の届かない在野の人間で、あの【夜の魔】を従えるほどの器量のある者……私の知るうちでは一人だ」

「レウルート王子……」


 ファルアテネが万感の想いを込めて呟く。そういえば初めて、あれの殺害を命じたのはこの【女神】だったか。もちろん、失敗した。

 ファルアテネはあの頃、幼い子供を殺すことに反対していた。恐らくは、情に流されて見逃したのだろう。奴が頭角を表すにつれ、その判断を後悔していたようではあったが。


「シエラヘレナ=アルウェルトの行方は掴めたか?」

「いえ、未だ。ルミスヘレナ=アルウェルトによれば、先日の襲撃以来、怯えて引きこもっているとの話でしたが」

「おそらくは、シエラヘレナ=アルウェルトがレウルートの【神】だ」


 かつて『神性』を封印されたかの【神】が覚醒するまでに仕留めたいところだ。

 まあ、ルミスヘレナ=アルウェルトでなくて良かった思っておくべきか。あの【光輝の女神】を失うのはウェルサームにとって大きな損失だ。

 ……ああ、そうだ。これもファルアテネには伝えておくか。


「それと、あの【英雄】を含む平民の新米士官たちもな」

「はっ?」

「あれらもレウルートと繋がっているようだ」

「なっ……! では、今すぐ戻って殺しに!」

「必要ない」

「しかし!」

「あの五人だけではない。おそらくはヤリアから帰還した士官候補生は全員。場合によっては、クントラ中佐まで取り込まれている可能性もある。あれらだけを殺したところでレウルートにダメージはないだろうよ。まさか、配下を失った程度で傷付くような真っ当な精神性をした男でもあるまいしな」

「ならば、如何致しますか」

「ふむ……。まあ、もう一度戦場にでも放り込んでみるか。釣り餌になってもらおう」

「御意に、我が王」

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