091 死線と決着と
「死ね。優男」
ギルガースが剣を振り下ろす。防御に翳した剣はいとも容易く断ち切られた。剣線のその先には僕の脳天。その距離はもう三十センチを切っている。その間に障害物は何もない。
じりじりと致命の『万物を断つ剣』が迫り来る。その光景がひどくゆっくり目に写る。だのに、僕の体はびくりとも動かない。
──ああ、これは無理だ。どうしようもない。僕はここで死ぬのか。あっけないものだ。
「や、やめて……!」
走馬灯、というやつだろうか。ギルガースの剣は本当にゆっくりと、じわりじわりと僕を嬲るように迫り来る。自分の死の瞬間がゆっくり流れるなんて、まったくろくなものじゃない。
「やめてください……!その人に……私の王に……!」
澱んだ川の流れのように遅々としてして進まぬ世界の中で、ただ一つ、少女の声だけが正常に聞こえる。怯えに彩られた、澄んだ美声。聞きなれたそれも、あと少しで聞けなくなってしまう。
僕が死んだらリューネは怒るだろうか。シェーナは泣くだろうか。謝れば、許してくれるかな。
そんな益体もないことを考え──
いや。
いくらなんでも、おかしくないか?
こんなに長いものか、走馬灯というのは。
それに、なぜシェーナの声だけが正常に聞こえる?
その疑問に答えが出るより早く、激発した彼女の叫びが状況を変化させた。
「私の王に……触れるなぁぁぁああああああ!」
付き合いの長い僕ですら聞いたこともないような怒りのこもった大声でシェーナが叫ぶ。
その瞬間、ゆるゆると僕に剣を降り下ろしていたギルガースの動きが完全に静止した。その足は地についておらず、落下しながら切りかかるその姿勢のまま空中にピン止めされたかのように止まっている。
同時に、僕の体に自由が戻った。動ける。
いったい何が起こったのか、疑問はもちろんあるが、今はそれよりやることがある。
僕は半ばから断ち切られた自分の剣を素早く振り上げ、静止したまま無防備に隙を晒すギルガースに刃を叩きつけた。
一撃で殺したいところだが、短くなった剣では肩口から心臓までは刃が達しないかもしれない。やむを得ず狙いをわずかに変え、ギルガースの右腕を切り落とすにとどめた。
しかしこれだけではまだ足りない。すかさず追撃を加えようとしたが、その間もなく、背後で誰かがどさりと倒れる音とともに静止した世界が動き出した。
ギルガースは静止する直前の続きのように右腕を僕へと振り下ろす。が、その腕も剣も、もう肩口から切り落とされてしまっている。傷口から覗く肩関節が虚しく稼働するのが見えるだけだ。
ギルガース自身、一瞬そのことに気づかなかったらしい。
着地してから呆けたようにわずか固まったかと思えば、失った右腕を押さえ、怒りと驚きを露にする。
その間に僕は飛びすさって距離をとる。
「ぐ、ぉおお……! 何を……! 何をした貴様……!」
「…………」
何をした、か。答えようにも僕も今何が起こったのかはわかってない。
しかし、ギルガースは僕の沈黙に答えを見たらしい。
戦いに興奮しながらも冷徹に僕らを殺そうとしていたこの【魔】が初めて、その表情を憤怒に歪めた。
「貴様の仕業か……【女神】ィィィイイイ!」
ギルガースの憎悪の籠った瞳は、僕の背後でへたりこんで荒い息を吐くシェーナへと向けられた。
【剣の魔】はその怒りのままに魔法を紡ぐ。
「未熟な【女神】程度、後回しでかまわんと思っていたが、【神】は【神】か! 『天駆け神殺す剣』よ! 来たれッ!」
高速で飛翔する剣の詠唱。さらに追加された不穏な文言を考えれば、絶対にシェーナに当てるわけにはいかない。
シェーナへ一直線に進む剣の軌道に割り込み、必死に剣で弾き飛ばす。衝突の勢いにびりびりと腕が痺れる。
「く……! 邪魔をするなぁ!」
「するに決まってるだろ。文句があるなら僕から殺して見せろよ」
「ほざいたな、優男! 望み通り殺してやる!」
──それはまさに、最高のタイミングだった。
【剣の魔】ギルガースは謎の魔法で自らの動きを止めたシェーナへの警戒と怒り、またシェーナを害する上での障害である僕への苛立ちに支配されていた。この戦いではじめて大きな負傷をしたというのも大きいだろう。ギルガースは冷静さを失っていた。
つまり。
「うぉぉぉぉぉおおおおお!」
「むッ!?」
「マサキっ!?」
剣を構えたマサキが飛び出してくるには、最高のタイミングだったといえる。
彼がさきの無数の『天駆ける剣』の放射を生き延びていたことを喜んだのも束の間、その無茶無謀に背筋が凍る。
いかに隙を突こうとマサキはただのニンゲンで、ギルガースは強力な【魔】だ。この奇襲もきっとまともに通じることなく返り討ちに遭うに違いない。
そう思った僕は彼を止めようと届かない手を伸ばし……、
──いいや、待て。
違う。
よく見ろ。状況を把握しろ。
ギルガースは完全に不意を突かれている。あのギルガースが、だ。大量の『天駆ける剣』でニンゲンはおよそ全て殺したつもりだったのだろう。少なくとも、この近距離にいたマサキが生きているなんて思いもよらなかったはずだ。
だから、この局面でニンゲンが出てくるなど、やつは想像もしていなかった。驕り、侮っていたのだ。マサキにああ言われて、なお。
無理もないことだ。そもそも【剣の魔】は僕やシェーナですら正面勝負じゃ敵う相手じゃない。そして、そのシェーナはおそらくもう戦えない。背後から感じる【神】の魔力の気配はひどく薄弱だ。とすると、奴の片腕を切り落とした今ですら、このまま戦って確実に勝てるとは言い難い。
これは、そんなギルガースが見せた、唯一つの隙。
そうだ。ならば今この瞬間は、むしろ千載一遇の好機。ここに賭けるしかない。僕らの力を。意志を。その全てを!
「『【魔】を討て、マサキ』っ!!!」
全身全霊で、叫ぶ。
この声は間違いなくマサキにも届いている。
『支配する五感』。ありったけの魔力を、僕の残る全てをマサキに注ぎ込む。
【光輝の女神】をして絶賛させた僕のこの魔法は、なにも意に反した命令を実行させるだけの魔法じゃないのだから。もし、僕が大量の魔力を保持していて、対象の意思を封殺してもなおあまりあるほどの大量の魔力を流し込むなんてことができたら。いいや、あるいは、『支配』の必要からして存在しない、僕と支配対象の意思が合致している、そんな状況であったのなら。
僕の魔法の本質は五感のラインを通じて対象に流し込んだ魔力を用いて、下した命令を現実化させること。『支配』をギルガースへの切り札と目していたのは、それが最も平易に使えて、奴に確実な効果を発揮するというだけの話。
この魔法は理論上、あらゆる魔法を代替発動できる。対象の身体能力を飛躍的に『強化』するくらい、わけないことだ。
「く……『天駆ける剣よ』!」
ギルガースが唱える、宙を翔ぶ剣の詠唱。
けれど、僕の魔力で『強化』されたマサキが急加速したことで、彼の姿を見失った剣は彼の残像を貫くのが関の山。
これがギルガースの最初で最後のミスだった。
『ギルガースを討つ』ほどの『強化』。その消費魔力もまた圧倒的だ。僕がマサキに注いだ魔力全てを食い潰し切るまで、長く見積もっても十数秒。奴は時間稼ぎをすべきだった。『我が身護る剣』、『柵のごとき剣』、『塞ぎ留める剣』。どれでもよかった。防御を固め、逃げるべきだった。
そして、その『剣』の選定を誤ったことで生じたわずかなタイムロスの影響は小さくない。
【英雄】どころか、身体能力だけなら【魔】や【神】にすら匹敵する今のマサキの速度なら、彼我の距離を詰めるのに半秒もあれば十分。
「『万物を断つ剣』よ!」
最早防御も間に合わぬ。
そう判断したギルガースが選んだのは奴の持つ最大の魔法。必殺の一撃。
ギルガースはあらゆる物質を断ち切るその剣を左手の中に産み出し、ただのニンゲン相手に全力で叩きつける。対するマサキの振るう斬撃もまた、僕のバックアップを受け、ニンゲンが放つものとは思えないほどの力を内包している。
二人の剣線が交叉した。
「くそ……ああ……そうか……」
ぽつりと呟く声。
胸を真一文字に切り裂かれ、口からは血を吐く彼の声に力はない。流れる血液に命が溶け出してしまったかのように、その灯火が消えていくのが感じられる。
「オレの『剣』を継ぐのはお前だったか、ニンゲン」
ごぷりと血へどを溢しながら、しかしなぜか満足げに【剣の魔】ギルガースは呟いた。
ギルガースの剣は、マサキの首の皮一枚を裂くのがせいぜいだった。『万物を断つ剣』を生み出した時点で、遅かったのだ。致命的に遅れていた。
どさり、とギルガースが背中から地に倒れた。
息も絶え絶えな【剣の魔】は、それでも途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「貴様、名はなんという?」
「……柾。錦木柾だ」
「くく……。ニシキギマサキ……ニシキギマサキだな……。最期に聞く名が我輩を殺した者の名とは、これほどの幸福はあるまい!」
「……知るか」
「くくく……はは。……ああ、もう死ぬ。死ぬなぁ……。ああ、そうだ。マサキ。貴様に最後に名をやろう」
「……馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇよ」
「かか……そう言うな。すぐよ、すぐ。……【剣の英雄】だ。【剣の魔】たる我輩を殺し、その『剣』を受け継ぐ貴様の名は他にない。【剣の英雄】マサキ『ギルガース』。これからはそう名乗るといい」
「【剣の英雄】……」
「では、さらばだ。オレを殺した男。我が剣を継ぐ者。【剣の英雄】よ。ゆめ、つまらない死に方はするなよ……」
最期にそう言い残し、【剣の魔】ギルガースは息絶えた。
「は、はは……」
ぽてん。
足から力が抜け、尻餅をつく。膝はがくがくと笑い、立てそうにない。空元気のように漏れた笑い声は我ながら寒々しい。
全身がずくずくと軋むように痛むし、魔力はすっからかんだ。今ギルガースが起き上がってきたら、どうしようもない。
「殺した……?」
「……ああ。死んでる。やったぞ、アーク。【剣の魔】を討った」
「よっ……しゃああああああ!」
地面に座り込んだまま、両手を天に伸ばす。
僕の叫びを聞いて、マサキが破顔する。
「アーク! マサキ! 生きてるかっ!?」
「ダヴィド! ああ! こっちは無事だ! 【剣の魔】は殺した! そっちは!?」
「俺とフリッツは生きてる!」
地に身体を伏せ、顔だけを起こした仲間がこちらに呼び掛けてきた。
彼らは『天駆ける剣』を凌げていたらしい。距離があったから盾の用意が間に合ったのだろう。
二人は辺りの安全を気にしながらおそるおそる起き上がり、僕らの元へ寄ってきた。
「マジかよ。これマサキが殺したのか?」
「スゲェだろ? ほら、もっと誉めろ誉めろ!」
「マサキってよりレウルの魔法のおかげじゃないのか?」
「いや、マサキがあそこで出て来てくれて助かったよ。あの不意打ち以外で殺せたかは、わからない」
「ほーれ見ろ!」
「……あの距離で【魔】の飛ぶ剣を受けたわりに、ぴんぴんしているのは実際すごい」
「あー、それはシエラさんが」
「シェーナ?」
「こう、俺の身体を掴んで投げ飛ばして……いや、浮かされた、のかな?」
「『浮遊』の魔法か。って、そうだ! シェーナ! リューネ!」
【剣の魔】ギルガースは討たれた。
でも、その喜びに浸るのはまだ早い。
謎の魔法を発動して倒れたシェーナ。ギルガースの一撃で戦闘不能になるほどの重傷を負ったリューネ。二人の名を叫ぶ。力の入らない足腰に喝を入れ、ぷるぷる震えながら、おぼつかない足取りで彼女たちの元に歩み寄る。
「私は、大丈夫です。魔力を使いきっただけですから。怪我は大したことありません。それより、リューネが」
「私も、平気。まあマズいかマズくないかで言ったらマズいけど……。すぐに死には、しないでしょう。夜まではもつわ。たぶん」
「本当に大丈夫なの!?」
「いちおう、ね。貴方たちのおかげで、戦いで魔力を損耗しなかったから。だましだまし、なんとかできるはず」
いかにも不安の残るリューネの言い草だったが、それでも僕にできることはなにもない。生憎と、すっからかんの魔力では彼女に力を分けてやることもできない。彼女を信じて祈るくらいが関の山だ。
と、
「アーク! マサキ! 来てくれ! 早く!」
「バークラフト?」
悲痛な叫び声。嫌な予感がした。
焦燥を押し込めながら、足早にバークラフトのもとへ向かう。そこには、
「ハーレル……!?」
「助けてくれ……! ハーレルが、ハーレルがっ!」
「うる、せえよ。騒ぐな。腕が飛んだくらいで死ぬかよ……」
「ッ!」
バークラフトに抱き抱えられた彼の右腕。その肘の辺りから先が鋭い断面で断たれている。
『天駆ける剣』だ。ギルガースが放った無数の剣。盾の用意が遅れたか、運が悪かったか。そのうちの一振りが彼の片腕を奪い取っていた。
それを見たマサキが、誰より早く叫ぶ。
「バークラフトっ! 上腕を糸か何かで強く縛れ!」
「い、糸? そんなん、どこに」
「お前応急救護キット持ってきてただろ! あの中に入れてある!」
「あ、あれか! ちょっと待っててくれ!」
マサキは指示を出すと、自らの上着を脱いでハーレルの傷の断面を圧迫する。
僕はおろおろと彼を見守ることしかできない。
「アーク! リューネさんかシエラさんかお前、魔法で治したりできないか!?」
「……今は、無理だ。僕とシェーナは魔力が涸れてるし、リューネは負傷して他人の治療に力を回す余裕はない……!」
「今は?」
「夜になれば。陽が落ちればリューネの力が戻る。夜の彼女なら、どんな怪我でも治せるはずだ」
「陽が落ちるまで……。六時間ってところか」
「……ごめん」
「謝るなよ。むしろいい知らせだ。夜まで命を繋げばいいんだな? それなら感染症の心配はいらない。失血と痛みによるショックにさえ気をつければ……おい、ハーレル! 起きてるか!?」
「うるっせ……。起きてるっての……」
「よし。絶対に寝るなよ。意識を手放すな」
「マサキ! 持ってきたぞ!」
「よし。んじゃお前は腕を縛れ」
「お前は?」
「血管を縛る。おい、ハーレル。傷口触るぞ。痛いと思うけど、驚いて死ぬなよ」
「はいよ……」
「あ、フリッツ。本陣の方から水持ってきてくれ。塩と、あれば砂糖も溶かして。二パーセントくらい」
「……わかった」
指示を受けたフリッツが駆けていく。
緊張の面持ちでマサキが糸を握る。
「……行くぞ」
「頼む。…………ッッッ! いッ、あ、ぐ、ぁぁあああっ!」
「アーク! ハーレルの身体押さえろ!」
「あ、ああ!」
暴れるハーレルを押さえ込む。
どのくらいそうしていただろうか。五分? 十分? 僕には何も出来ないまま、ただ仲間を案じて過ごす時間は永遠にも思えた。
荒く息を吐きながら、マサキが患部から手を離した。
「……よし。血は大体止まったか……。生きてるな、ハーレル」
「クッソ、痛ぇけどな……」
「痛いのは生きてる証拠だ。水も飲んどけ」
ハーレルは差し出された薬缶の注ぎ口からゆっくりと少しずつ、しかし着実に水分を体内に取り込む。
マサキはしばらく傷口の具合を伺っていたが、出血が酷くなる様子が無いのを見てとると、安堵したように小さく息を吐いた。
「この調子なら、リューネさんの力が戻るまでは持ちそうだな」
改めて、仲間の様子を一人一人うかがう。
四人は大きな怪我もなく、痛みに喘いでいたハーレルも今は多少落ち着いた表情で、呼吸も安定している。心なしか、文字通り血の気が引いていた顔色もいくぶんか色が戻ってきているようだ。
……そうしてようやく、実感が湧いてくる。
ギルガースは死んだ。僕らは勝った。生き延びた。
こうして、僕らは【剣の魔】との戦いを辛うじて勝ち延びることができたのだった。
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