058 第一王女と第一王子と
駆ける。
漆黒に刺すような細い光が混じる闇のなかを脇目もふらずに駆けていく。
いや、むしろこの闇の中は私のフィールドだ。だから、気にするべきはむしろ逆。いつこの夜闇が晴れてしまうか、ということだ。
一瞬だけ、視線を地の果てへと遣る。
未だ昇る太陽の姿は見えないが、漏れでる光はすでに空を白く染め始めている。
もってあと数分。
目標の砦はすでに見えている。いや、砦ではなく離宮なのだっけ?あの子はそんな風に言っていたような気がする。……まあ、今はどうでもいいことか。
重要なのは、この数分のうちに目的地に着けるのか、ということだけ。
ただそれだけを考えながら私──【夜の魔】リューネ『ヨミ』は王女たちの住まう離宮へと急ぐ。
速く走りすぎると夜が明けて力を失った時に慣性をコントロールできずに大怪我をする危険性があるが、最早そんなことには拘泥しない。
レウと約束した二晩目が今日なのだから。
砦まであと二キロ弱。
陽はまだ昇らない。
砦まであと一キロ半。
陽はまだ昇らない。
砦まであと一キロ。
まだ。まだ!あと一分、いや、三十秒でいい。時間を!
砦まであと五百メートル。
太陽がその脳天を覗かせた……気がした。走る勢いに制動をかけ始めた、その瞬間。
パチン、と水面に浮かぶ泡が弾け消えるように、突然に、そして一挙に私を満たしていた力が消えた。
制御しきれない猛スピードに転倒しそうになるも、魔法で体勢を整え、摩擦を増減し、滑るようにしながら踏みとどまる。
……砦まであとゼロメートル。
なんとかかんとか停止に成功する。
安堵と疲労から、ついぺたんと尻餅をついて座り込んでしまう。
「……ていうか、冷静に考えて、一キロ二キロくらい普通に歩けば良かったんじゃないかしら? 陽が上っても別に高速移動ができないだけだし、こんなギリギリの無理をする必要は無かった気がするわ……」
自戒と、現状の客観把握の意味を込めて、ひとりごちる。
夜になればどうせ体力は回復するとたかをくくって昨夜からずっと昼も夜もなく駆けてきたが、私の思考を無駄にヒートアップさせるくらいには疲労がたまっていたのかもしれない。あるいは、レウに任された仕事を全うできるかという心労のせいかもしれないが。
ふう、と一息をつき、今にも倒れそうな体に鞭を打ち立ち上がると、とりあえず以前この離宮を訪れた時に使った隠し通路の方へと進む。
砦の脇に広がる雑木林を進むこと数分、小さな洞窟がぽっかりと口を開けている。
その入り口に佇む一人のメイド姿の女は、幸運なことに見知った【英雄】だった。
「気配を感じて出てきてみれば……あなたか、【夜の魔】リューネ『ヨミ』」
「ええ。こんにちは、【花の英雄】リール『ベリー』。早速で悪いのだけれど、アイシャに取り次いでもらえる? レウから伝言を預かってるの」
「ふむ、いいだろう、ついてこい」
意外にも、というのが私の正直な心証だった。
レウと一緒じゃない私は信用できないから通せない、とか言われるんじゃないかと思っていたし、そうなったときのために説得するあれこれも考えていたのだが。
まさか逡巡すらなく案内されるとは思わなかった。
「どうした、リューネ『ヨミ』? ついてこい。あなたは地下道の道順など覚えてないだろう?」
「え、ええ……。……不意打ちで襲いかかったりはしてこないわよね?」
「? なんの話だ?」
「……いえ、なんでもないわ。案内、お願いしましょう」
二人とも無言のまま、私はリール『ベリー』に先導され、洞窟のなかを歩く。
カツンカツン、カツンカツン、と二人分の靴の音だけが洞窟内を反響して響く。
……正直、ちょっと気まずい。先程からのリール『ベリー』の様子も不気味なくらい穏やかだし。
「なぁ、リューネ『ヨミ』。そんなに警戒するな」
「……なんのこと?」
「いや、気持ちはわかるが。だがな、リューネ『ヨミ』。あなたは殿下が信頼して姫様にまで引き合わせた人物だ。そして、私の主である姫様は殿下を深く信頼し、ゆえに殿下が信頼するあなたも信頼している。であれば、私も必要以上の警戒や敵対的態度をとったりはしないさ」
「そ。…………ありがとう」
なんと返すべきか決めあぐねた私は、素っ気なさすぎないように、といつもの返事に小さく礼を添えた。
小声だったのだが、リール『ベリー』の耳には間違いなく届いていたようで、彼女はくっくっ、と堪えるような忍び笑いを漏らした。
なんだかきまりが悪く、そっぽを向いてむすりと黙りこむ私。
それを感じたリール『ベリー』はもはや隠しもせずに笑った。
「ついたぞ。ここだ。私が先に上がって姫様に入室の許可をいただく。私がいいと言ったらあなたも上がってこい」
リール『ベリー』が指し示したのは、確かにいつぞや見覚えのある階段梯子。
彼女が扉を叩き、一言二言言葉を交わしたところで、すぐに上がってこいとの許可が出た。
梯子を上ると、そこにはリール『ベリー』だけでなく、アイシャもが待ち受けていた。
レウと同じ美しく輝く金の髪も、豪奢ながら下品さをまるで感じないドレスに包まれた豊満な肢体も以前会った時と変わらないが、その時の淑やかさと天真爛漫が同居したような朗らかな表情ではなく、焦燥と不安に彩られた色彩を浮かべていた。
「リューネ『ヨミ』さん……! レッくんが、レッくんが……!」
「落ち着きなさい、アイシャ=ウェルサーム! ……ヤリアの戦況を聞いたのね?」
「だって、クリルファシートがあんなところに布陣しているなんて、そんなこと……! それで、ヤリア方面軍が、奇襲で、何人も、大変な被害が出て……!」
「安心して。少なくとも、私がヤリアの砦から離れた時点ではレウとシェーナは無事よ。二日前の夜の時点だけれど、少なくとも最初の奇襲は無事に生き延びた。今は砦に篭って耐えているはず。そう簡単に陥落する気配は無かったから、きっと、今も大丈夫」
「リューネさん……」
「姫様、リューネ『ヨミ』は殿下から伝言を預かってるそうです」
「レッくんから、伝言……?」
「ええ。援軍に関する、あの子から貴女への要望を」
「っ! 援軍! そうだわ、援軍をすぐに送れば……」
アイシャが絶望の闇に見つけた一筋の希望に縋るかのように、瞳を輝かせる。
……その希望を私自ら握り潰さなければならないことに、強く罪悪感を覚える。
「違うのよ、アイシャ。レウの要望は、貴女がヤリアに援軍を派遣しないことなの」
「は……?」
私はレウからされた説明をそのままアイシャにした。
ありえないはずのクリルファシートの大軍。その背後にはセリファルス=ウノ=ウェルサームがいるかもしれないこと。アイシャが援軍を出せば、セリファルスの確信は深まり、レウは逆に追い詰められる羽目になること。
はじめは信じられないとばかりに唖然としていたアイシャだったが、話を聞くにつれ、理屈の上の理解と感情の上の不服を表し、最後には俯いて自らの唇を強く噛みしめるだけになっていた。
「…………話は、わかりました。確かに、レッくんが警戒していることはセリファルスお兄様のやりそうなことです。……私やミーちゃんにできることは何もなく、むしろ逆効果である、というのも、悔しいですが、理解するしかありません……!」
血が滲むほど唇を噛みしめたアイシャは、しかし、自らの焦燥と不安を押し殺しそう言ってくれた。
これで、私がレウから託された伝言は全うした。あとはヤリアに戻ってあの子たちをうまく逃がすだけ。
そう、思って緊張の糸が切れたのか。ふと足から力が抜け、気づけば私はアイシャに抱きとめられていた。ほんの一瞬、気を失っていたようだ。
「あ……ごめんなさい、アイシャ。すぐ、ヤリアに戻る、から……」
「そんなフラフラで何を言っているんですか!」
「大丈夫、よ。夜になれば体力は回復するの。だから……」
「なら夜まで休んでいてください。リール、ベッドの用意を!」
「かしこまりました、姫様」
「アイ、シャ……」
「リューネさん。私は今、無力です。なにもできないことは途方もなく悔しいです。でも、レッくんのために、私はその痛みにも耐えます。貴女も、確実にレッくんを助けるために、今だけ大人しく休んでください!」
「……ごめん、なさい。それと……ありがとう。アイシャ」
私は最後の気力でそう呟き、限界を迎えて視界が暗転した。
◆◇◆◇◆
ウェルサーム王国、王都の中央にそびえ立つ王宮。その中でも一際高くに位置する尖塔は誰でも立ち入れる場所ではない。
そこに入ることを許された数少ない一人である、目の前の男、ゴルゾーン=ドス=ウェルサームは、ウェルサーム王国の第二王子である。
そして、その彼から糾弾を受けている私も、また。
「おい、兄貴。どういうつもりだ」
「ゴルゾーンか。ヤリア山地で大敗を喫したそうだな。珍しい、お前の軍才は確かなものだと踏んでいたのだが」
いかにも怒り心頭といった様子で私に詰め寄るゴルゾーン。
弟の用件など当然に把握していることではあったが、まずは一度とぼけて見せる。大した意味のある行為ではないが、まあ兄弟のコミュニケーションとでも言っておくか。
いかにもわざとらしい私の言葉に、ゴルゾーンは額に青筋を浮かべて怒鳴る。
「しらばっくれんじゃねぇよ……! ヤリアの軍勢の配置をクリルファシートの軍に流したのは兄貴だろうがッ……!」
「ほう、気づくか。まあ気づいてもらわねば困る。お前にそれを悟らせないほどクリルファシートが戦巧者でなくてよかった」
「もう一度だけ聞くぞ! どういうつもりだ! こんなこと、ウェルサームへの背信行為と変わらねぇ! 裏切ったのか、ウェルサームを!?」
「私がこの国を裏切ると本気で思っているのか?」
私の言葉に、ゴルゾーンは押し黙った。
当然だ。他ならぬこの私がウェルサームを裏切るなど、この弟は発想すらしなかったのだろう。私以上にこの国を想い、この国に尽くす者はいないがゆえに。
そして、それはやはり間違いではない。
私は、一枚の丸まった紙をゴルゾーンに投げ渡した。
「っ! これは……地図? 兄貴、これは……」
「赤い印は次の戦でウェルサームの軍が配置するとクリルファシートに伝えた位置だ。兵の数も書いてある。青い印はクリルファシートが兵を置く場所だ。もちろん全部ではないがな。灰色の印は以上を踏まえて、他にクリルファシートが布陣すると私が予想した場所だ。まあ私個人の判断であるし、お前とエルンスト中将でも検討してみろ。我々が真に主力を置くべきは……」
「ガルアーの平原。そこで敵主力を叩ければ、戦争そのものの趨勢が決まる」
「そうだ。そこもわからなければ陛下にお前を今回の戦争から降ろすよう進言していたところだ」
「こんなもの、どうして……」
「わからないか? 私がウェルサームの内通者としてクリルファシートから聞き出したものだ。どうやらクリルファシートの上層部は謀略にも疎いようだ。ヤリアで大勝した程度であっさり私を信じたよ。ナローセル帝国もこのくらい与し易ければいかに楽なことか」
私の冗談にもゴルゾーンはにこりともせず、ただただ唖然としたようにこちらを見つめている。
「あ、兄貴が逆に嵌められてることはないのか? この地図に描いてある配置事態がフェイクで……」
「仮にそうだったとして、私が気づけなかった謀略にもお前や他の者が気づけるのか?」
「…………」
「まあお前がそう言うのも予想のうちだ。三人ほど、ウェルサーム敗戦後の私の待遇の交渉役としてクリルファシートに潜らせることができるよう計らった。三人はお前が信頼できる者を選んで派遣していい」
「ま、待ってくれ……」
「戦片手ではその余裕がないというのなら私の手の者を使うだけだから構わないが。その気があるなら後で私の部屋にでも来い」
「待ってくれ、兄貴! 兄貴は、つまり……この戦争に勝つために、ヤリアを犠牲にしたのか……?」
弟の発言に、私は思わず訝しんだ。
ゴルゾーンはなにをそんなに心配しているのか。質問の意図が理解できない。
そんなことは──
「そんなことは、当たり前だろう? ヤリアでは実質、連隊二つと砦を一つ失ったに等しいが、戦争そのものに勝てるならば微々たる犠牲だ。砦など戦後処理で取り戻せばいい」
「だが……あのヤリアには三千人の将兵がいた! 中には民間人の志願兵もだ! なのに、そのうち何人が死んだのか、何人が生きているのか、それすらわからないような戦場になってしまった!」
「ああ……そういうことか。ようやく理解できた。お前は民の命を案じたのだな。しかし、大局を見誤るな、ゴルゾーン。ここで戦争を決着させなければ犠牲になる人間は三千ではきかない。国民の尊き命が失われたことは悲しいが、それは最低限の犠牲だ。幸い、クリルファシートは豊かな国だ。遺族の補償に当てるくらいの賠償金はゆうにとれる」
「兄貴……ッ! 本当に、それだけか? ヤリアを犠牲にしたのは、本当に必要最小限がそこだったからか!? 他に、なにか目的が……」
「おかしなことを言う。他? 他に私が何を目的とする」
「それはっ……! それは、俺にはわからねぇ。わかんねぇ、けど……」
結論から言えば。
私がクリルファシートの隙を突くために売り渡す戦場としてヤリアを選んだ理由。そんなものは、
当然ある。
ヤリア方面軍を編成するよう陛下に進言したのは私の妹であるアイシャ=ウェルサームだ。
『政を司る我々王族にとって、目の上のたんこぶとも言える軍閥の貴族たち。彼らの勢力を抑制するため、彼らと対立する平民閥の士官や士官候補生をまとめて非戦闘領域に送り、その勢力を保護する』
それがあの妹が陛下にした献策の理由と内容であったが。それは、見るからに合理的で──見るからにあの妹らしくない策略だった。
そこから、レウルート=スィン=ウェルサームの存在を想定するのは私にはひどく自然なことだった。私はあの第五王子が王宮を離れて十年、ただの一時も奴の脅威を忘れはしなかったからだ。
たとえ半ば妄想に近いような可能性であっても、奴の牙がこの私の喉笛を狙っているかもしれないならば、その芽は摘み取らねばならない。
妙に勘の鋭い弟だったが、彼の問いに私が無言の返答を返したのだと察すると、私から目を逸らし、小さく呟くように言葉を漏らした。
「……いや、兄貴は正しい。わかった、この地図をもとに作戦を立てる。けどその前に、さっきのクリルファシートへ潜らせるスパイの枠、一人分でいいから分けてくれ」
「ふむ、まあお前に全てやるつもりだったが。まあいいだろう。数ばかりいても向こうで尻尾を出すような者では困る。残りの話は陛下にお聞きしてみるか」
「そうしてくれ、兄貴。詰めの話は……」
「今夜、私の部屋に来い。どうせお前にはこれからいくらでも仕事があるだろう」
ゴルゾーンは、わかった、と一言うなずくと、すぐに背を向けて廊下の向こうへと大股で去っていく。先程私が与えた情報をもとに軍議でも開くのだろう。
それを見送った私は虚空に声を放つ。
「来い、ファルアテネ」
「お呼びですか、我が主」
すると、光輝く鎧兜に身を包んだ清廉な美女が一人、誰も居なかったはずの空間に現れている。
私の足元に顔を伏せて跪く美女は、もちろんただの人間ではありえない。兜に包まれたその中には、肩口で切り揃えられた銀髪が秘められていることを私は知っている。
「王都郊外にある離宮は知っているな?」
「は。アイシャ姫殿下とミリル姫殿下がお住まいになられている砦擬きのことでしたら、ある程度は」
「命を下す。その離宮を監視しろ。宮から出るものと宮へ入るもの、その両方に日頃と違う部分が無いかを見張れ。ただし、他の誰にも気づかれるな」
「は。その間の主様の警護は……」
「アスティティアにやらせる」
「承知いたしました。であれば、慎んでご下命を遂行させていただきます」
「ああ。頼りにしている。【盾の女神】ファルアテネ」
「勿体ないお言葉でございます。我が主──セリファルス=ウノ=ウェルサーム殿下」
私の【神】は跪いたまま、まるで畏れ多い何かであるかのように私の名を口にした。
ふと気がついたのですが、私がこの小説の第一話を投稿したのが去年の9月1日ということで、私が投稿をサボった先週9月2日は投稿開始から(ほぼ)一周年だったようです。
……まあそういうこともありますよね?




