004 悲劇と再会と
最悪だ。
最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ。
最悪の、事態だ。
初めは、幻だと思った。
王宮なんていう忌まわしい過去の宝庫から戻ってきた安心かなんかで脳みそがバカになって、ついあの頃を思い出してしまったのだと。
初めに訪れたのは、かつて嗅ぎ慣れた匂い。
王宮で暮らしていたころは毎日のように嗅いでいた、あの匂い。
それは。
濃い、血の、匂い。
一瞬遅れて訪れた視覚が、嗅覚で捉えた悪夢が現実だと教えてくれた。
辺りは、真っ赤に染まっていた。
見慣れた村の、見慣れない光景。
倒れている村人には皆見覚えがある。
小さな村だから、みんな知り合いなのだ。
明らかに、もう助からない、死んでしまっている人も、中にはいる。
思考が現実を拒否し、しかしあまりの重みに否定しきれず、ぽろりと声が漏れた。
「シェーナ、は?」
口にした瞬間、不安や恐怖が胸に渦巻く。
心臓が早鐘を打ち、口はカラカラに乾く。
ルミスさんが近くにいた顔中を腫らした男に駆け寄るのが視界の端に見えた。
「何があったのっ!」
「ルミスヘレナ様……! シエラヘレナ様が、シエラヘレナ様がっ……!」
切羽詰まった声でルミスさんの名前を呼んだ彼が次に出したのはシェーナの名前だった。
僕は自分が抑えきれず──いや、この時の僕には抑えようという気すらなかったかもしれない──その男に掴みかかった。
「おい、シェーナはどこにいる? シェーナは無事なんだろうな? おい! 答えろよっ!」
「レ、レウルート……、それは……」
「落ち着きなさい、レウル君!」
しかし、強引にルミスさんに引き剥がされる。
僕に比べてほんの僅かだけ、ルミスさんはまだ冷静だった。
「何があったの? わかる範囲でいいから、教えてちょうだい」
「あいつらはいきなり来たんです。十五人くらい、馬車で来て、降りてすぐに近くにいたエンを斬り殺して、シエラヘレナ=アルウェルトはどこだ、って叫びました」
「それで?」
「答えない俺たちを痛めつけたり、殺したりしました。もちろん、誰も話しませんでした! でも……」
「……シエラちゃんが、自分から名乗り出た?」
「すいません、俺たちが、俺たちの、せいで……」
違う。
僕のせいだ。
十年前の僕なら、こんなヘマは犯さなかった。
僕とルミスさんが揃って王宮に来ることの意味をあいつらがどう取るかなんて、ほんの少しでも考えれば気付けたはずだったのに。シェーナを一人で村に残したりなんか、しなかったのに。
この村で、僕は腑抜けた。
かつての鋭さを、失ってしまった。
シェーナや、ルミスさんや、ばあやや、リューネ。
みんなと過ごす日々が幸せすぎて。
いつの間にか、僕が心に抱いていた鋭い牙は、すべて抜け落ちていた。
そして、それはけっして悪いことではなかった。
あの殺伐とした王宮を捨てて、この村でのんびり暮らすのも、一つの人生の正解だと思っていた。
けれど、今だけは。
この時だけは、あの頃に戻らなくちゃいけない。
元通り、なんていうのはまるで不可能だけれど、ほんの少しだけでも僕は自分をかつての頃に近付ける。
「悪いけど、今は泣き言を聞いてる暇はないの。それで? 名乗り出たシエラちゃんは?」
「あいつらは、シエラヘレナ様を馬車で連れていきました。あっちの、ナローセル帝国に向かう、街道を使って」
それを聞いた瞬間、僕は胸中の怒りも悲しみも憎しみも絶望も、全てを飲み下して走り出すエネルギーに変えた。
しかし。
「待ちなさい! レウル君!」
ルミスさんが、止める。
「どこに行くつもり?」
「決まってるでしょう! シェーナを、シェーナを助けに行くんだ……っ!」
「冷静に現実を見なさい! 相手は馬車よ? 人間のあなたの足じゃどうしたって追い付けはしない!仮に馬かなんかを調達して追い付けたところで、相手は武器を持った大人数、敵うわけないわ! だからここは、【女神】の私に任せて……」
「現実を見るのはあなたの方だ! そいつらはナローセルに向かったんだろう!? その意味がわからないわけ、ないだろう!?」
「そ、れは……」
「『誓約』だ! 『誓約』だよ! あなたはそれに縛られる! だからそいつらもナローセルに逃げたんだろう!」
『誓約』。
国境付近に陣取る【光輝の女神】という絶大な戦力。
それは隣国に警戒と恐怖をもたらすに十分すぎる脅威だ。
しかし、王や大臣がどうかは知らないが、少なくともルミスさんは徒に緊張を高めて平和を壊したいわけではない。
ゆえに、ルミスさんは『誓約』の魔法でもって自ら自身に制限を課した。
その内容は単純明快。
『【光輝の女神】ルミスヘレナ=アルウェルトは国境を挟んだ隣国、ナローセル帝国内では一切の力を及ぼすことができない』
この村から国境までは本当にすぐだ。
血の乾き方から事が起こったおおよその時間を推察するに、いまだ国境を越えていないなどということはあり得なかった。
「……レウル君の言う通りよ。けど、だとしても、あなたには何もできないことにはかわりないわ! 私が自分に課した『誓約』を解くのに、大体五日から一週間! それだけ待てば……」
イツカ? イッシュウカン?
この人は、そんなことを本気で言っているのか?
シェーナが×××を×××されて×××になるのに三日もあればたっぷりお釣りが来る。
やはり、僕がやるしかない。
決意を一層深める。
「……わかりました。それじゃあ、ルミスさん。一つだけ、否定してください。そうすれば、僕は行くのを諦めますから」
「……言ってみなさい」
あとから聞けば、この時の僕はなぜだか薄く嗤っていたらしい。
ルミスさんの言葉を借りれば、十年前の幼い頃の僕がときたま見せていた、そんな酷薄な、嗤い。
「かつて、あなたは僕とシェーナに嘘をついたでしょう? ひどく、残酷な嘘を」
「……嘘? 私が二人に? 何を……」
「四年前の、あの日。あなたは本当はリューネを殺してなんかいなかった。違いますか?」
「っ! な、んで……」
その反応だけで十分だ。
普段のルミスさんならこんな簡単にボロを出しはしなかっただろう。
ルミスさんだって、娘が拐われて動揺していないわけがないのだ。
「なんで、って聞かれても大したことは言えないんですけど。ルミスさんの性格的に、あの局面でリューネは殺せないかなと。あとは、リューネを本当に殺したならあそこまで厳しく、もう森に行くな、って言うのは不自然に感じたから、ですか。……ああ、そういうわけで、否定は貰えませんでしたね」
「レウル君! ちょっと、待ちなさ……」
背後からの声を無視して、再び駆け出した。
今度はもう止まらない。
そもそも、ルミスさんにも本当は正しい答えがわかっているのだ。
だって、本気で僕を止めたいなら魔法で『拘束』してしまえばいいのだ。あの、二年前のリューネと対峙した日のように。
だから、僕は駆ける。
目的地は、賊が向かったという街道ではなく、『ルミスヘレナの森』。
森に入ってすぐさま叫ぶ。
「リューネ! いるんだろう!? リューネ『ヨミ』! 出てきてくれ!」
叫びながらも足は緩めず、森の奥へと進み続ける。
かれこれ三分か五分か。十分ということはないと思うのだけど。
ともかく、そのくらい叫び続けた時、懐かしい闇が目の前に突如現れた。
それと同時に、四年ぶりのこれまた懐かしい声が辺りに響いた。
今朝の王宮といい、今日は懐かしいものだらけだが、朝と違い今度の懐かしさは純粋な嬉しさだけをもたらしてくれた。
「うるさいわ、ニンゲン。私に何の用かは知らないけど、諦めてさっさと帰……って、え? うそ。貴方……レウ?」
「あは、久しぶり、リューネ。なに? 君ってば普段はそんなに偉そうな感じなの?」
「い、今のは違うのよ! なんかうるさい人間が来たと思ってちょっと怖がらせて帰らせようと……じゃなくて! 貴方、どうしてここにいるの!? ルミスヘレナは何をして……」
「いろいろ言いたいことも聞きたいこともあるだろうし、感動の再会は僕もしたいけど、全部後回しにしてくれ。大変なんだ。助けてほしい」
「穏当じゃないわね。何があったの? そういえば、シェーナは……?」
「シェーナが拐われた。他国に逃げられたからルミスさんは『誓約』で動けない。時間が無いんだ!」
僕がそう言うとリューネは、四年前とまるで変化のない美しい顔を、驚きと悔しさに歪めた。
リューネは申し訳なさそうに、そしてつらそうに言った。
「……ごめんなさい、レウ。『誓約』で動けないのは私もなの」
聞けば、四年前のあの日、ルミスさんはリューネの命を奪わない代わりに、『誓約』を課すことを条件にしたらしい。
その内容は、『リューネ『ヨミ』はこの『ルミスヘレナの森』から出ないこと。また、レウやシェーナを含む村の全員に危害を加えないこと』という、これまた複雑な決まりのない明快なものだった。
しかし、それゆえに抜け穴もない。
「こんな『誓約』、ルミスヘレナの協力さえ得られれば、三日で解いて見せるわ。だから、レウ。ルミスヘレナに話を伝えて……」
三日。
リューネは三日と言った。
三日ではやはり、シェーナを助けるには遅すぎる。
頼みの綱だったリューネのこの絶望的な報告にしかし。
僕は、またも嗤う。
「その必要はないよ、リューネ」
「え?」
「リューネが直接動けないのも想定内だから。僕がここに来たのもリューネに直接シェーナを助け出してもらおうと思った訳じゃない」
「で、でもそれじゃあ私に出来ることなんてほとんど……」
「あるさ。君は僕に力をくれる。君にしかできないことだよ」
「力……? っ! レウ、まさか貴方!」
はじめから、他のだれかにシェーナを助けてもらおうだなんて、これっぽっちも考えちゃいない。
僕のせいで、僕の迂闊さがこの事態を招いたというなら、その責任も僕自身がとらなくちゃいけない。
「多分、そのまさかだよ。さて、お願いだ。リューネ。君に僕の身を穢してほしい。僕を君の眷族に……【魔】にしてほしいんだ」
リューネは僕の宣言にしばし唖然としたあと、烈火のように怒りだした。
「貴方、自分が何を言っているかわかってるの!? シェーナもルミスヘレナも【神】なのよ !もし貴方が【魔】なんかになったら……」
「それでも、今シェーナを助けられないより百倍ましだ。……それに、そんなに悲観的に考えるものじゃないよ。君とシェーナは仲良くなれたし、ルミスさんだって君を殺さなかったんだからさ」
「問題はそれだけじゃないわ! そもそも上手くいくかだってわからない! 下手をすれば、私の魔力に耐えきれなくて貴方が死ぬ恐れすらあるのよ!?」
「どんなに恐ろしい失敗の可能性があったって、それがシェーナを助ける唯一のやり方なら僕は絶対にその方法をとるよ」
「…………っ! ……本気、なのね?」
「ああ」
「……わかったわ。レウ、首を出しなさい」
「ありがとう、リューネ」
「お礼は全部が終わってから頂戴。さっきも言ったけど、上手くいくとは限らないんだから」
「……もし、僕が死んだら、後のことは君に任せてもいいかな?」
「縁起悪いこと言わないで。言っておくけれど、シェーナを助けもせずに死んだりしたら私が貴方を殺すから」
「あはは、そりゃあいい。でも、約束して欲しいんだ。僕が死んだ時は……」
リューネの指示通り、首元の衣服をはだけて頭をわずかに左に傾けて右の首筋を無防備に晒しながら、直前の『頼み』を繰り返す。
すると、リューネは困りながらも諦めたように、
「ああ、もう! わかったからそれ以上言うのはやめなさい!」
「ありがと、リューネ」
「……まったく、少し見ない間にずいぶん我儘な子に育っちゃって」
「とか言いつつ僕に甘いリューネが大好きだよ」
「軟派なのは相変わらずね。シェーナも苦労してそう」
軽口を叩きながら、リューネは僕が屈んでさらけ出した首筋に歯を立てた。
「レウ、いくわ」
「うん」
「……お願いだから、死なないで」
つぷり、とリューネの牙が僕の首に食い込む。
瞬間。
今まで味わったことのないような灼熱と激痛が、怒濤のように、僕の全身を、かけ、巡っ、て……。
…………………………。