109 過去とトラウマと
僕のもっとも古い記憶は三歳まで遡れる。
十五年前、王都は王宮の『奥』。俗に後宮と呼ばれるその宮の一室に、当時三歳の僕は居た。
いささかばかり早熟な子供だった僕は、その頃にはもうそれなりに言葉を操り、論理だった思考力も手に入れていた。とはいえ、所詮は子供、頭を占める大半は本能的な欲求だった。
しかし、この場合はむしろそれこそが最も重要だったのかもしれない。
「ばあや、ばあや!」
「はいはいはい、ばあやですよ。どうなさいました、レウル様」
三歳の王子が全身をうんと曲げ伸ばしするアピールと共に呼んだのは、一人の老婆だ。
彼女の名はタマタ=オーギュスト。今代の財務大臣であるアレフ=オーギュストを排出したオーギュスト侯爵家の歴とした一員であり、そのアレフ大臣の姉に当たるひとだ。ばあやは若い頃に王族の世話をする侍女として奉公に出され数十年、奇特なことに実家に戻ってどこぞに嫁ぐこともなく、何人もの貴人の側仕えとして王宮で仕え続けてきたひとだった。
そんなばあやが王妃つきの侍女になったのはそうおかしな話でもなかっただろう。ばあやが仕えた王妃、マイヤー公爵家子女リザ=ウェルサームの子こそ、この僕、レウルート=スィン=ウェルサームだ。当の母は既にお産の時に亡くなっており、僕の身辺の世話は専らこのばあやがやってくれていた。
──ん?ああ、うん。僕がたまにレウルート=オーギュストって名乗るのは、このばあやから家名を貰ってのことだよ。僕自身がオーギュスト侯爵家に縁があるわけじゃない。
さて、話を十五年前に戻そう。
ぎゃあぎゃあわめく三歳の僕に駆け寄ってきたばあやは、ひょいと僕を抱え上げてなだめ始めたが、何が気に入らないのか僕はしきりにわずか開かれた部屋の出入り口たる引き戸から覗く廊下の窓の方を指差している。
「そと! ばあや、そと!」
「外……?」
促されるままに外に目を向けたばあやが、はっと表情を強ばらせた。
すぐさま動き、半開きだった入り口の戸を鍵をかけて閉め切った。
僕が示しばあやが見たのは一人の不審な男の姿。ごく限られた人間しか入り込めないこの後宮を見張っていたその者は、いわば刺客のごときものであったことは容易に察しがついた。生まれの不幸から、後援の貴族を持たない僕は力もなく、それをこれ幸いとばかりに害しようとする兄王子たちの動きがあることをばあやは知っていたし、そのような複雑な事情を知らない僕も本能から自らに迫る危機を察知していた。
「あれは、また兄王子のどなたかの……! ああ、おいたわしや、レウル様……!」
王のほか、王族の女子と八歳未満の王族の男子、それと王妃つきの侍女。
これが、後宮に立ち入ることのできる人間の全てだ。
この厳格な規制に守られる形で僕はまだかろうじて身の安全を保てていたが、それもあと数年のこと。八歳の誕生日を迎え、後宮から立ち退かされたその瞬間に命を落とす羽目になるのは目に見えていた。それを思い、ばあやはさめざめと泣く。幼い僕も感情が伝染したようにわけもわからないまま涙を流しかけるが、王族としての生まれもっての責任感か、あるいは生命の危機に瀕してそれどころではないと気を張ったのか、気丈にもそれをぐっと堪えていた。
そんな僕の健気さを見て、ばあやはますます涙を流すのだ。
コンコンコン。コンコンコン。
そんな折、今鍵をかけたばかりの部屋の戸が何者かに叩かれた。
ばあやが警戒もあらわに誰何する。
「どなたでしょうか」
「タマタどの、私です。開けていただけますこと?」
「! これは、失礼を致しました。はい、只今。少々お待ちくださいませ」
声の主はばあやの見知った相手であったらしい。慌てて戸に寄り、開く。
戸の向こうに居たのは、いかにも高貴らしい妙齢の美女だった。彼女はこれまた美しい侍女を従えている。
僕はといえば、そのいずれにも興味を示さず、二人の女越しに飛ばした視線は窓の外、先の刺客を探していた。が、幸いなのかどうなのか、その場所にはもう黒頭巾で顔を覆った刺客らしき者の姿は見当たらなかった。
「こんにちは、レウルート殿下。ご機嫌いかがですこと?」
「きげん? きげん、って……?」
「まあまあまあ、また愛らしいお顔をなさいますわねぇ! もそっと、こちらにお顔を寄せてくださいまし!」
そう言って僕ににじり寄ってくる女性の名は……名は、なんといったっけ? 忘れてしまった。
しかし、後宮にいる高貴な女性。彼女の正体を察するのは容易だろう。
そう、彼女は王妃だ。
正確には、国王であるアークリフの妻として後宮に控える王妃の一人。この後宮にいることから、未だ子を産んでいない妻だとわかる。
自分でいうのもなんだけれど、幼く愛嬌のある見た目と所作でありながら、年に似合わぬ分別も持ち合わせた僕は、後宮の王妃たちから人気があった。けれどそれは、一人の人間に向ける感情とは違う。例えるなら、ぬいぐるみか人形のような。見た目が愛らしく、それでいて言う通りに動き、世話の手間もかからないお人形。王妃となるほどの名家のご令嬢方がいい年をして選んだお人形は、生身の人間の子供だった。
名も知らぬ王妃に捕まった僕は、そのままされるがまま愛玩される。濃い香水の臭いが鼻につく。ぐいぐいと引っ張られたりつねられる頬が痛い。猿の曲芸のように言われるがまま動かされる。
侯爵家の家柄と、王宮での侍女としての長い実績を持つばあやであっても流石に王妃には逆らえない。はらはらとただ僕を見守っている。
しばらくして満足した王妃は、僕とばあやに挨拶をして、上機嫌で部屋を去っていった。
「レウル様……」
「だいじょうぶ。いまは、きげんをとっておかなくちゃ。ほら、どんなにひどくても、おうひはぼくをころしはしないから」
泣きそうな声で僕の名を呼んだばあやに、ちょっとだけ無理をして僕は笑う。
ばあやがぎゅうと僕を力一杯抱き締めた。それはやっぱり痛いくらいだったけど、ばあやになら僕は全然嫌じゃなくって、ほんの少しだけ泣いてしまった。
そんなこんなで、僕は何人かの王妃たちの玩具にされながら、まあまあ逞しく後宮での生活を過ごしていた。
けれど、ある日を境に、僕はそれどころではなくなってしまう。あれは、それから、だいたい二年後、たしか僕が五歳の誕生日を迎えてから数日後のことだった。
それは、僕が生まれて初めて直接的な暗殺の危機に瀕した日。それまで後宮の外から監視をしたり脅しかけてくることこそあれ、直接危害を加えてくることのなかった刺客が初めて襲ってきた日。
その刺客というのは、一人の女だった。これは後で知ったことだったけれど、その女はいわゆる最強の刺客、というやつで。
うん、つまりは、そう。【神】だ。
【盾の女神】ファルアテネ。第一王子、セリファルスの腹心。それが僕が生まれて初めて相対した刺客だった。
その日は、朝から別になんの変哲もない日だったように思う。ただ、ほんの少しばかり緊張していたことを覚えている。それが本能的に何かを察知してのことだったのか、あるいは当時の僕には日常のことだったのかは忘れてしまったけれど。
ともかく、その日の僕はいつもの時間に起き、いつものように毒味された朝食を口に運び、いつものように自室で勉学に励んでいた。
「レウル様、ばあやは王妃様方と少し話をして参ります。席を外しますが、大丈夫ですか?」
「うん、僕は平気だから、行ってきてよ。いつもありがとね」
この頃になると、ばあやは後宮の王妃に取り入って政治的な力を得ることができないかと画策するようになっていた。全ては、八歳になったら命を落とすであろう僕を救うためだ。
この時点ですでにばあやは数人の王妃に気に入られており、しばしば呼び出されて王妃の話し相手などを務めさせられることもあった。時たま僕を伴うこともあったが、そのようなときはいつも僕は王妃に弄ばれる。ばあやは王妃との接触はできるだけ一人で行うようにしていた。
ばあやが部屋から出ていってしばらく、僕は一人で本を読んでいた。
トントントントン。
淑やかに、戸を叩く音。
部屋に残った僕は返事もせずにただ待つ。
十秒ほど経ったのち、外から声がした。鈴を転がすような女の声。
「レウルート殿下。サーリャ王妃の使いの者です。お目通りを願えますでしょうか?」
聞いた瞬間、嘘だとわかった。
僕は当時後宮にいた王妃や王妃つきの侍女全員の顔と名前と声を覚えていた。サーリャ王妃の侍女はこんな声ではなかったし、それどころか後宮の人間の誰とも一致しない声だ。
この女は刺客だ、とそう直感した。
だから、僕は部屋の中から女に告げる。
「ああ、ごめんよ。今ちょっと、人に会える格好じゃない。すぐに着替えるから、少しだけ待っててもらっていいかな?」
「畏まりました、レウルート殿下」
女がそう答えるのを聞いて、安堵のため息を漏らしそうになり、堪える。
この返事で稼げる時間などせいぜい数分。まだ僕の命は風前の灯だ。落ち着くのは助かってからでいい。
僕に動揺はなかった。いつかこの日が来るであろうことはわかっていたから。
横開きのクローゼットの戸を開き、服を物色するような音をたてながら奥へと進んでいく。このクローゼットは開いてすぐの前面が衣装に覆われていてわかりづらいが、いわゆるウォークインクローゼットのような、奥行きのある空間が先に広がっていた。
その部屋の衣装がずらりと並ぶ部屋の右側面、奥から二つ目の仕切りの足元の小さなツマミを押し込むと、音もなく一辺五十センチほどの正方形方の穴が壁に空いた。そう、いわゆる隠し扉、隠し通路というやつ。
腰を低くして通路に入り込み、内側のツマミを押し込むと、隠し扉は音もなく閉じる。明かりひとつない真暗な通路だが、その構造は完全に頭に入っている。四つん這いになって通路を奥に進んでいると、ドパンと扉を破壊するような衝撃音が聞こえた。慌てて振り向いたが光は入ってこない。破られたのは隠し扉ではなく自室の鍵のかかった扉だろう。誰が、は問うまでもない。あの刺客の女だ。
この隠し通路もいずれはバレる。その前に僕は一刻も早く安全圏にたどり着かねばならない。
が。
バギャン!
再びの破砕音。進む通路にほんのわずかだけ光が入った。曲がりくねった隠し通路を既にそれなりに進んでいる僕からは入り口は見えなくなっているが、それでもわかる。
破壊されたのは、閉じられていた隠し扉だ。
(嘘だろ!? もうバレた!? なんで……あいつが部屋に入ってきてから五分も経ってないぞ!)
そもそものウォークインクローゼットからして入り口は見つけにくくなっているし、よしんばそれに気付いたとしてもあの隠し扉まで見つけるのは容易いことではない。
思い付く理由は二つ。一つが内通。そして、もう一つが魔法だ。
そして、正解は恐らく後者だろうと僕は思った。前提として、この後宮に刺客が入り込むことは容易じゃない。超常の力を操る【英雄】か【神】である可能性は高い。
それに、わからないのであれば悪い方を想定しておくべきだろう。内通者はいれば厄介だが、刺客がこの距離まで迫っている現状、考えるべきことは少ない。翻って、刺客が魔法を使えるというならそれは最悪以外の言葉がない。こっちは魔法が何ができるのかもよくわかっていないのだし。
幸い、僕を殺すような攻撃が飛んでくる様子はない。曲がりくねった道の先の相手を撃ち抜くような魔法は使えないのかもしれない。隠し通路を破壊して広げながら追ってくることもできなくはないのだろうが、ここは後宮、本来であれば暗殺はおろか侵入すること自体が大罪だ。あちらとしても派手な手段は絶対に避けなければならないことは想像に難くない。
だからといって、好都合だ、と安堵できるほど僕は楽天家じゃない。
そこにはまだ、明確な問題が残っていたから。すなわち、刺客がどんな魔法で隠し通路を探り当てたかだ。最悪を期するべき、というならば、やはり想定するのは僕の居場所を探る魔法。即ち、相手にはこうして逃げている僕の居場所が筒抜けである、という可能性だ。
(まあ……そこまできちゃうと逆に『とにかく必死で逃げる』以外の方法は無くなっちゃうけど)
そんなこんな考えながら通路を進むうち、目的の部屋が近づいてきた。
この迷路のように入り組んだ隠し通路は後宮の至るところに通じている。もちろん、外へと通じる道も中にはあるが、こと今に限って言えばそれを選ぶのは悪手だろう。僕の安全を守っているのは、部外者が容易に入り込むことができないという後宮のルールなのだから。
だから、目の前にある小さな扉の向こう側にあるのは広い外の景色ではなく、一つの部屋だ。ルカ王妃の部屋。彼女は昔から僕にはそれなりに好意的だった。助けを求めれば無下にはされまい。というか、こういう時のために今まで媚を売ってきたのだ。助けてもらえなくては困る。
目の前にはもうその目的の扉。
(さて、この先に刺客がいたらもう僕はお陀仏だな)
刺客が魔法で僕の居場所を知っているとしたらその可能性は十二分にある。
だからといって、他に道はない。意を決し、扉を開く。
自室のそれと違い、ここの扉は少しばかり立て付けが悪い。がたがた、と音をたてて開いた扉のその先では。
「えっ……?」
一人の少女が、困惑した表情で立ち尽くしていた。年のころは僕より二つか三つほど上だろう。緩くカールした髪は金色に輝き、困ったように眉を下げたその表情を見ても、美しい少女であることは疑いない。
けれど、少女の外見などどうでもよかった。
直前の自分の言葉を思い出す。
──この先に刺客がいたら──
背筋に悪寒が走る。
想定していた最悪の可能性を想起して、一瞬、本気で死を覚悟する。
……だが、すぐに冷静さを取り戻す。そうすると、違和感に気づけた。
この少女は、恐らく刺客ではない。こんな幼い子が刺客のわけがない、などと言うつもりはない。けれど、今回に限って言えば違うだろう。なぜなら、僕は部屋で刺客の声を聞いているからだ。あれは明らかに大人の女の声だった。
しかしながら、眼前の少女が王妃でもその従者でもないことも明らかである。僕はこんな子は知らない。
となると、この少女は……、
「「……誰?」」
僕と少女、二人の声が重なった。