001 彼女と彼と
「ねぇねぇ! 君、ここに住んでるの?」
「え……?」
村の外れの野原に座りこんでひとり花を眺めていた私に、いつのまにやら隣に腰かけていた幼い男の子が声をかけてきた。
見覚えのある姿に、彼の名前を呼ぼうとしたが、しかし私の口からは勝手に別の言葉が出た。
「は、はい。そうですけど……あなたは?」
自分で聞いた私の声は、私自身が普段聞き馴染んでいるものよりずいぶん幼かった。
と、そこで気がつく。
ああ、これは夢だ、と。
これは私が彼と初めて会ったときの記憶。
とても懐かしい。よく考えてみれば、今や私も彼もこんな子供ではない。
「あは、よかった。ここにも同じくらいの年の子がいて。しかもそれが君みたいに可愛らしい子だなんて、まったく僕はツイてるね!」
パチン、とわざとらしいウィンクとともに彼は言う。
こうして思い返していると懐かしい思いがあるのは確かだが、あの人はこんな頃から軟派な台詞を吐いていたのか、とむしろ呆れかえってしまう。
このときはたしか彼が七才で私が五才とかそのくらいだった気がする。普通は女性──というよりむしろ女児──に可愛いだの愛らしいだの言う年ではない。
「あの……あなたは?」
再度同じことを問う幼い私。
このときの私の眼には彼は怪しい人間にしか写らなかったが、私は母さまの娘だから、と健気にもこの不審者と相対する決意を固めていた。……正直、今の私から見ても初対面の相手にこんな態度の人間はろくでもないと思うけれど。
「僕? 僕は今日からここに越してきたんだよ! あの新しい家が僕の家なんだけど……君の家は?」
彼の指は村の中心近くにある新築のこじんまりとした家を指していた。
彼のその言葉を聞いて私は警戒を解く。それどころか、私はむしろ眼を輝かせていた。
なぜなら、少し前から私の家の隣に新しい家が造られていて、誰かが引っ越してくるのは知っていた。
そしてそのわくわくして待っていた新しい入村者が、この村に今まで居なかった年の近い子供だと言う事実は、幼い私にとって警戒心を好奇心に取って代わらせるには十分な理由になっていた。
「わ、わたしはあなたのおとなりにすんでるんです!」
それにしても冷静に昔を振り返ると、彼は年齢に比して子供らしさがかなり欠けていた。
彼の来歴を考えれば仕方のないことかもしれないが、昔の私という比較対象のせいでますます彼のそういった部分が際立って見える気がした。
「君が? まさか、君がルミスヘレナ=アルウェルトの娘なのかい?」
この眼だ。
こんな冷たい眼、七才やそこらの子がする眼ではないし、していい眼でもない。
この頃の彼はきっと──
「レウル様! どちらにいらっしゃるんですか! ご返事をお願い致します! レウル様!」
「わ、まずいっ。ばあやだ、怒られる!」
と、突然遠くから響いた怒声に彼は身を縮こませた。
夢の中の私は事情がわからず、突然彼の雰囲気が変わったことを不思議そうにしていたが、夢を見ている私は泣き出しそうだった。
声の主の名はタマタ婆さま。
血の繋がりこそないが、彼を守り育てたただ一人の家族。あの人の前では彼も年相応の子供だった。
厳しかったけれど同時にとても優しい人で、私も婆さまから料理や女性のたしなみやいろいろなことを教わって、婆さまのことが大好きだった。それはきっと、いや、間違いなく彼も同じ。
けれど、私や彼が婆さまに会うことは二度と叶わない。
彼女は五年前に他界してしまった。
あれほどまで、正気を失ったとすら言えるほど取り乱した彼を見たのは後にも先にもあのとき限りだ。
しかし、この夢──と元になっている記憶──では私たちは婆さまをやりすごすことができた。
「ふう。なんとかなったね」
「あの……レウルさまっていうんですか?」
「あ、僕の名前? まだ名乗ってなかったんだっけ? 僕はレウルート=オーギュスト。ばあやはレウルって呼ぶよ。君は……」
「シ、シエラヘレナ=アルウェルトです! よ、よろしくおねがいします!」
「シエラヘレナ? シエラヘレナ……。それじゃあ、シェーナって呼んでもいいかな?」
彼のこの台詞が私──シエラヘレナ=アルウェルトにとってこれほど大切な絆になるなんて、このときは私も彼も誰も思ってもいなかった。
けれど、このときの私はどうにも母さまがくれたのとは違うその名前が気に入らなかったらしい。
「か、かあさまはわたしのことシエラってよびます!」
「でも他の人と同じじゃ面白くないし……。それに、シエラも可愛いけどシェーナがもっと可愛いよ」
「で、でもかあさまは……」
「ルミスヘレナ様が君をなんて呼ぶのかと僕が君をなんて呼ぶのかは関係ないよね?」
「あ、うぅ……」
反論が思い付かず言葉を詰まらせる夢の中の私。
彼にそんなつもりはまるでなかったのだが、このときの私には初対面の他人に母さまを否定されたようで我慢ならなかった。
だから、次の私のセリフはこの意地悪な男の子に同じ気持ちを味あわせてやろうと、ようは仕返しのようなつもりで行った言葉だったのだ。
「じゃあ、わたしはあなたのことレウさまってよびます!」
当然、彼は表情を歪めるだろうはずだったのに、むしろ真逆、彼は眩しいほど魅力的な笑顔を浮かべて、
「あはは、それはいいね。僕たち二人だけの呼び方だ!」
そのあまりに悪意ない態度に、私も毒気を抜かれてしまった。
こんな良縁とも悪縁ともつかない、いわば奇縁とでも呼ぶべきものから始まった私とレウ様の関係は幸いにも今はとても良好なものになっている。
ただレウ様が言った、二人だけの呼び方、というのだけは間違いになる。
レウ様と、私と、もう一人。
その彼女は……。
◆◇◆◇◆
「ん、ぅん……」
そこで、目が覚めた。
それにしても本当に懐かしい夢だった。十年以上も前の話だ。
眠い目をこすりながら、部屋から出て顔を洗いに自室のある二階から一階へ下りる。
「あら、おはよう。珍しいわね、シエラちゃんが朝寝坊なんて」
「おはようございます、母さま。レウ様は?」
「レウルくんは今日もおねむよ。お母さん、シエラちゃんのために起こさないであげたのよ?」
「意味不明です。起こしてあげてください」
「お母さんには恋する娘の毎朝の楽しみを奪うことなんてできないわ!」
恋する、と言われて思わず顔が熱くなる。
しかし、否定はしない。
嘘でもないことを恥ずかしいからと否定でもすれば、母さまからのさらに激しい追及が待っているに決まっているのだ。
「……とりあえず、そういうことをあまり大声で言わないでください」
「あ、レウルくん」
母さまが私の背後を指して言った。
今のを聞かれたか、とあわてて振り返るが、そこには誰もいない。
「あは、嘘よ。あの子が一人で起きられるわけないでしょ。さ、起こしてあげてらっしゃい」
少し釈然としない気持ちはあるが、確かにレウ様を起こすのが先決だ。
自分の支度もそこそこに、二階の彼の部屋へ向かう。
コンコンコン、とドアを叩くが、当然のように返事はない。
扉を開ける。
やはりいつもと同じく、彼は布団にくるまって寝息をたてていた。
「レウ様、朝ですよ。起きてください」
「ん……シェーナ?」
「はい、私です。起きてください」
「……おはようのキスはくれないのかい?」
「ふざけたこと言ってるとベッドから叩き落としますよ」
そう言うと、いかにもしぶしぶ、といった様子で上体を起こす。
寝ぼけ眼をこすりながら、レウ様は大きくあくびをした。
「ふ、ああぁぁ……。まったく、シェーナは素直じゃないなぁ」
「いいから早く起きてください。いつもより遅いですよ」
遅い理由は私の寝坊のせいだが、もちろんそれは言わない。
朝のレウ様に付け入る隙を見せたらすぐに二度寝しようとするに決まっているからだ。
しかし、このときのレウ様の反応はいつもと違った。
「……え? 今、何時?」
「時間ですか? 九時過ぎだと思いますけど」
「寝過ごしたっ! ルミスさんはっ!?」
「母さまですか? 下にいましたが……」
寝起きの彼にしては珍しいほどの剣幕にやや狼狽えながらも私がそう言うと、レウ様はかつて見たこともないような慌てようで、階下に降りる。
(母さまと何か約束でもあったんでしょうか?)
事態をなんとなく察し、慌てずにレウ様を追って私も一階へ向かう。
「すいません、ルミスさんっ! 寝坊しました! 早く王宮に行かないと……」
「……レウル君、寝惚けてるわね?」
母さまは手にしたおたまでレウ様の頭をコン、と軽く叩いた。
「……はい?」
「明日でしょ、王宮に連れていくのは」
「……。えっと今日は……」
「万物神の月、第十二の日、火の曜日よ」
「あ、ははは……。僕、うっかりしてましたね……」
「まったく、しっかりしてちょうだいね?」
あはははは、なんて呑気な母さまとレウ様の笑い声を遮ったのは、私の冷たい声だった。
今の会話は、どうあっても見過ごせない。
「ちょっと待ってください、母さま。どういうことですか」
「っ!? シ、シエラちゃん!? もしかして今の……」
「はい。ばっちり聞こえました」
「ち、違うのよ!? これには……」
「一体……! 一体、何のつもりですか! レウ様を王宮に連れていく!? レウ様にとってあそこが、王宮がどういう場所か、母さまが知らないわけないでしょう!?」
私は自分を気性の大人しい、感情があまり表に出ないタイプの人間だと思っていたし、その見立てはたびたび他人からも指摘されるため間違ってもいないのだろう。
しかし、このときの私はそんな人達が見たら目を丸くするであろうほど、激しく声を荒げていた。
「シェーナ、ちょっと落ち着いて……」
「レウ様は黙っててください!」
今朝の夢の幼いレウ様が見せた、底冷えするような暗い瞳を思い出す。
彼をあの頃のように戻すわけにはいかない。
思えば、あの夢を見たのもこうなることを予知してのことだったのかもしれない。私だって母さまの娘なのだから、そういう不思議な力があってもおかしくはない。
私と母さまの間に割って入ろうとするレウ様を押し退け、今にも掴みかからんばかりに母さまに詰め寄る。
「陛下に呼ばれたのは母さまだけでしょう!? 余計な手出しをしなければ、今更向こうの人たちがレウ様に干渉してくるわけがないんです! 従者が要るというなら私が代わりに行きます! だから……」
「だから落ち着けって言っただろ、シェーナ」
ぐい、と後ろから体を強く引っ張られた。
そのままでは倒れてしまっていただろうが、私の体を引っ張った当人──レウ様が私を抱き留めるように支えてくれていた。
レウ様は私を後ろから抱き締めたまま、耳元で囁くように続けた。
「ルミスさんには、僕から連れていってほしいってお願いしたんだ。そりゃ僕だって今になってあそこに手を出す気はないよ。けど念のため、今のあそこがどうなってるのか自分の目で見ておこうと思ってさ」
「安心して、シエラちゃん。レウル君にはちゃんとお母さんが──この【光輝の女神】ルミスヘレナ=アルウェルトがついているから」
【光輝の女神】。
【女神】。
それはすなわち、【神】だ。
この世界に存在する、人間を超越した三つの存在のうちのひとつ。
人類の守護者たる【神】。
こんな片田舎の一介の主婦が王宮なんて場所に呼ばれるのも単にそれが理由だ。
母さまの実の娘でも見惚れるほどの美貌も、外見がしばしば私と姉妹に間違われるほど若々しいのも、また超常の力を操れるのもそれが理由。
もっと言えば、王宮から逃げてきた幼いレウ様がここを住みかに選んだのも本人に聞いたわけではないけれど、それが理由だと思う。
きっとルミスヘレナ=アルウェルトをどうにか味方につけて兄弟達への復讐を目論んでいたのだろう。
実際に母さまにはそれほどの力がある。物理的にも、政治的にも。
「そういうことだからさ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「……わかりました。わかりましたから、その……」
「ん?」
「離してください……」
落ち着いて冷静になってみると、レウ様に後ろから抱きすくめられるこの格好はとても恥ずかしかった。
私の全部がレウ様に包まれているようで、嬉しさ、もとい恥ずかしさで顔も真っ赤になっているに違いない。
「っと、ごめんごめん。つい、ね」
「あ……」
私が言った途端、レウ様はパッと身を離してしまった。
自分で言っておきながら、暖かな温もりが急に失われてしまって、つい名残惜しむような声が出てしまった。
「あら? あらあら? シエラちゃんあなた……」
「だ、黙ってください、母さま。……レウ様は先に畑の方に行っていただいていいですか? 私も母さまと少しお話したらすぐ行きますから」
「ん。わかった。なら先に行ってるよ」
くるり、と私たちに背を向けて出ていくレウ様。何も聞かなかったのは多分私に気を使ってくれたのだろう。
「母さま……」
「なぁに? シエラちゃん」
「レウ様を、くれぐれもお願いします」
「もちろんよ。私にとってはレウル君も我が子のようなものだもの」
ぎゅっと、先程のレウ様のように、しかし今度は正面から私を抱き締めた母さまが優しく染み込ませるような声で言う。
私が母さまの言葉を噛み締めていると、このイタズラ好きな女神はクスリと笑って、
「だってシエラちゃんの旦那さんはお母さんからしたら義理の息子だものね」
「だんっ……! レウ様は、そんな、私は……」
「あら? お母さん何か間違えちゃったかしら?」
「ま…………間違えでは、ありませんけど」
「あは、シエラちゃんは素直で可愛いわね」
「~~~! 私はレウ様のお手伝いに行きますから!」
「はーい、いってらっしゃい」
ふりふりと笑顔で手を振る母さまにいつものように手のひらで転がされたことに気付いて、私は不機嫌そうにずんずんと歩いていった。