壺騒動
私は静かな商店街で古道具屋を営んでいる。
開けっ放しの扉から覗く世界はいつも変わらない。人が通る気配もない。
「暇だねえ」
私はため息をついた。しみったれた古道具屋の天井は黒々としている。いつから掃除していないのだろうか。
そういやなんでこの商売始めたんだっけ。
大学を卒業して作家生活に勤しんだものの食べていけず、一人暮らしなんて夢のまた夢。一度は憧れた作家デビューも遠ざかり、私は父からこの古道具屋の手伝いをすることになったのだ。
しかし、古道具屋をしながらでも私は作家の道を諦めないでいた。ここにはパソコンがある。ネットがある。小説を書こうと思えば書ける環境にあった。
誰かが聞いた。この商売儲かってるのか、と。
もちろん儲かってなんかいない。入ってくるお金なんて微々たるものだ。
だから私は早く作家にならねばならない。キーボードを打ち続け、これだと思うものを頭の中から引っ張りださねば。
「ごめんください」
キーボードを打つ手が止まる。いつの間にか辺りが暗くなっていた。あれから何時間も経っていたらしい。
これはいかんと思いすぐにノートパソコンを閉じる。
久しぶりのお客様だ。
「いらっしゃいませ」
こんなお婆さんみたいな挨拶をすると心まで年を取ってしまうようで怖い。けれど接待というのは相手よりへり下るのが一般的なのだ。仕事が若者らしくないからかもしれない。そもそも若者らしい仕事ってなんだ?ぺこりと頭を下げながら私は思った。
40歳前後の女性が、大きな桐箱を持ちながら立っていた。顔には少し焦りが見える。よほど時間がないのだろうか、切羽詰まるその様子に私は少し不安になった。
「この壺を買取って頂きたいのですが」
そう言って持っていた桐箱から取り出してきたのは複雑な模様が刻まれた大きな壺だった。
「はあ、これは良い壺ですね。でもあまり払えないですよ?」
「いくらでも構いません。引き取って頂くだけでも結構です」
鑑定など私はあまりやったことがなかった。この壺がどれくらいの価値があるのかも知らない。けれど私はレジにあった一万円紙幣を取り出し「では一万円で買い取らせて頂きます」と言った。客は満足そうだった。
「毎度あり」
私はまたパソコン画面と睨めっこを始めた。
そしてまたどれくらい経ったのだろう。
「...もし」
誰かに声をかけられたような気がする。いや確かに声をかけられた。
「もしもし」
「は!」
いつの間に眠っていたんだろうか。パソコン画面を確認すると「wじゅううううううううううううwuuwっrjねklwjfgi」と訳のわからない文字列が並べられていた。
「すみません、いらっしゃい」
私は身を起こす。今日は珍しく客が多い。パソコンの時刻は午後7時を指していた。
目の前にいるのは40歳前後の男。その顔は何かに腹を立てているように見えた。
「あの壺を頂きたい!金に糸目はつけん!」
そう言ってショーケースに入れられた壺を指差した。先ほど女が売ったものだった。
「ああ、良いですよ」
そう言って私は彼に三万円でその壺を譲った。今日ここで寝ているだけで二万円も儲けたらしいことに気づく。
「どうもー」
何だか一銭にもならないかもしれない小説を書いても身にならないのではと考えてしまうようになった。
必死に働いても一銭にもならない仕事、寝ているだけで一万円貰える仕事。当然後者を選ぶだろう。
「やめだやめ。今日は終わり」
パソコンを閉じるまでそう時間はかからなかった。
次の日。
「この壺を買取ってください!」
またあの女が来た。そういや手に持つ壺は昨日男に売った壺そのものだった。
そこでふと気づく、女と男は夫婦かそれに近い関係なのだろうと。
「はいはいー」
私は何食わぬ顔で一万円を払い、その壺を買取った。
案の定男がやって来た。
「この壺を売ってくれい!」
「はいよー」
私は同様に三万円で彼に壺を渡した。
その次の日も女は現れた。
「買取って!」
「はいはい」
そして必ず男が現れる。
「売ってくれ!」
「はいよー」
今も彼らは家で喧嘩しているに違いない。なぜあの壺を売ったんだ、とかあれがあなたをダメにしているんですとか言って。
けれどその騒動のおかげでこっちの経営はうなぎ登りであった。
「あれ、古道具屋ってこんな楽な仕事だったっけ」
そんな騒動は突然終わりを迎えた。
「この壺をどこかへ売り払って頂戴!」
女はヒステリックな声を上げて私に鋭い目を向けた。接待顔をしながら私は焦る。
「どこかというと...」
「遠いところでもどこでも良いでしょう、とにかく今度あの人が来たらこれは売れないって言ってください!」
二万円巻き上げる装置はついに終わりを迎えるのか、と少し口惜しく思った。
私はそのあと、女の言った通りに別の鑑定家にこの壺を買ってほしいと頼むことにした。
この鑑定家が父とも面識があり、値段が付けられない物にはよく鑑定を依頼してくれると言っていた。
果たして返事が来た。いつでも大丈夫らしい。
早速私は男が店に来る前に店を閉め、その鑑定家の家を訪ねることにした。
「お久しぶりです、林田さん」
「園田のところの娘さんか、ようこそおいでなすった」
家というよりも屋敷と呼んだ方がいいぐらいに林田さんの家は想像以上に広かった。
客間に通される。こういう場所はあまり慣れておらずそわそわする。
「して、何を鑑定すればいいのかね?」
「は、はい。これなんですが」
そう言って私はカバンから桐箱を取りだした。
箱を開け、中の壺を見せる。
「明日香ちゃん、この壺は一体どうしたんだね」
鑑定家はまるで宇宙人を見たかのような顔をしていた。
「客が売ってくれたものです」
「私も鑑定の仕事をして何十年となるがここまで良い壺を見たのは初めてだ。少し時間をくれんか」
「は、はあどうぞ」
鑑定の世界はよく分からないが、この壺はとても良いものらしい。五十万くらいしたら父に自慢してやろうと思っていたが。
「...明日香ちゃん、この壺の値段は」
そう言って電卓を見せられる。
それを見て私は拍子抜けする。
「あの、桁違いませんかね...」
電卓には二千万の数字が確かに刻まれていた。
この壺が二千万だとすれば今まで二万円で儲けたと嬉しがる私は何だったのだと言いたい。
「これ買取っていただけませんか」
「馬鹿なこと言っちゃいけないよ、私には到底払えん」
背筋が寒くなる。とんでもないことになったぞ。何なのだ古道具屋とは。何が兼業で家計を支えるだ。逆に一攫千金ではないか。
「これを君はいくらで買い取ったんだい」
「い、一万円です」
今度は鑑定家が拍子抜けする番だった。それを見て何か変な夢を見ているのではないかと思ってしまった。
とにかく私の手に負えない。早々に父に連絡を入れる。
「お父さん、大変なことになった」
「どうした娘よ」
「二千万円の壺、一万円で買ってしまった」
向こうから変な音が聞こえた。椅子から滑り落ちたのだろうか、少し心配になる。
「馬鹿野郎!その壺売った人なんて言ったんだ!」
「どこか遠いところへ売って欲しいって」
「それでお前は林田さんの家にいるってのか」
そして父は私にその壺は持ち主に返せと言いつけてきた。なんてことだ、折角一万円で二千万のツボが買えたというのに、またあの女に返さねばならないというのか。
電話を切る。大損した気分になった。
逃がした魚は大きい。しょぼくれた私に林田さんは「食べてくかい?」とうどんをご馳走してくれた。
「それで?この壺が本当は二千万の価値があったと?」
「はい、私の査定ミスで...申し訳ありません」
次の日、性懲りも無くやってきた女に壺のことを聞かれ、本当の壺の価格を伝えることになった。
しかし、女の顔はますます険しくなる一方だった。
「どういうことなの?私にくれた指輪と同じ値段を壺にも費やしていたなんて!」
「えっ、いやその」
「あー!お前か!」
こんなにタイミングが悪いことがあるのだろうか。小さな古道具屋の中には私と女、男で狭苦しくしていた。
「あなた!」
「俺の趣味にいちいち口出しするんじゃない!」
「あなたこそ、こんな壺にお金をつぎ込むのはやめて!」
「俺の小遣いで買った壺だ!文句はあるまい!」
蚊帳の外の私は二人の口論をただ黙って見ることしかできなかった。
長く続いた夫婦喧嘩は私の父が裏方から登場したことによって決着した。
「おたくらあ!喧嘩は外でやんな!!」
怒鳴り散らす父の声はとてつもなく響いた。
二人はぽかんとした顔で父の方を振り返る。
そしてゆっくりと店から出て行った。
「お父さんのせいだからね、壺の本当の値段を伝えろっていうから」
「明日香、お前はあんな人間にはなるなよ」
「また話をそらす」
晩御飯を食べながら、父は私に愚痴をぶつけていた。
いつもそうだ。けれど私はそんな父を少しだけ理解していた。
「憎たらしいやつらだ、人によっては苦労して働かねば手に入らぬ大金だというのに、金持ちはそれを自分の趣味のためにぽんと使う。家族を放ったらかしにして馬鹿な連中だ」
ブツブツ呟きながら父は飯をかきこむ。
あれ、なんだろうこの違和感は。
私は考え込んでいた。
父は私が作家になりたいと言った時、「お前が決めることなんぞ知らん。好きにしろ」と突き放した。
その言葉がきっかけで私は父のことを何とも思わなくなっていた。
何をするにしても父は何も言わない。透明人間のように、ただ存在するだけ。
別に何かを期待していたわけではない。背中を押してくれれば、こんなに人生の選択で苦労することはなかった、ともいえない。
愛が感じられなかった。
家族なのに、抱きしめられたこともなかった。
本当に父は私のことを思ってくれているのだろうか。
そういや昔、父は私に「私は反面教師だ」と言ったのを覚えている。悲しかった。その頃の私は身近にいる大人がみんな偉い人だと、正しい人なんだと信じていたからだ。そして自分が間違っていると自覚しているのに、それを直そうともしない。そんな父のやる気のなさに私は何を思ったのだろう。一種の軽蔑のような感情を持ったのかもしれない。
「家族を放ったらかしにして馬鹿な連中だ」
父から発せられた言葉にはもはや何の説得力もなかった。