幻覚
あれから数日経ったが、やはり達也から連絡はなかった。
こちらからも何度か掛けてみたのだが、一向に繋がらない。メールも返信なし。
やはり私のことなど、どうでもいい存在だったのだ。恐らく彼はもう既に気持ちを切り替えて、何事もなかったかのように生活を送っているのだろう。
溜息が漏れた。
*
今日も、私は慎重に会社にやってきた。電車に轢かれそうになってから、私の神経はもはや、常にぴんと張り詰め続けている。外にいても、休まりはしない。
いつどこで、私を襲おうとも限らないのだ。もうその段階まで来ている。
昨日も一睡もできなかった。寝ている間に何かされるのではないかと言う恐怖で、目が冴えてしまったのだ。徹夜明けの私の頭は、ぴんと張りつめている。しかし、そのお陰で悪夢を見ずに済んだのは、不幸中の幸いと言ったところか。
少し早めに来れたので、オフィスでコーヒーを飲んで一息つこうと思った。
誰もいないので、当然自分で淹れる。
カップから沸き立つカフェインの香りで、より一層頭が活発になった気がした。
デスクに戻り、駅で買った雑誌に目を通しながら――実際には、見ているだけで内容など殆ど頭に入っていないが――コーヒーを啜った。
そうこうしているうちに、オフィスにも続々と社員が集まってくる。始業の時間も刻一刻と迫っていた。
私はそろそろ飲み干してしまおうと、一気にカップを傾けた。
そこで、舌に違和感を覚えた。
ざらざらとした、硬い繊維状の異物が混じっている。かなり長いもののようで、舌にへばりついたかと思うと、喉の奥にも引っかかっていた。
うっとえずいて、カップに口の中のものを戻す。
しかし、戻ってきたのは液体のコーヒーだけで、その異物は口の中に絡みついて離れない。
仕方なく、手でそれを取り除き、目の前に持っていく。
すると――、
手に絡みついていたのは、長い髪の毛だった。
女のものと思しき、異様に長い毛髪。それが、何本も、いや、何十本も、指先に絡んでいる。
思わず手を振り払って、髪を振り落とした。
こんなもの、入り込むはずがない。
「どうかしたの?」
異変に気付いた向かいのデスクの同僚が、声をかけてきた。
「いえ、なんでもありません」
床に落ちた髪を、足で机の下に追いやり隠した。
しかし、デスクの向こうから、また声が聞こえた。
「どうかしたの?」
声がしわがれていた。とてもいつもの聞きなれた同僚の若くて高い声ではない。
はっとして顔を上げると、同僚は、同僚ではなかった。
赤い着物。長い頭髪。
あの女だ。
なぜこんなところに入り込めたんだ。
周りの誰も、おかしいと思わないのか。
私は慌てて周囲を見回した。
誰もいない。さっきまで、確かに始業間際で賑わっていたオフィスに、人影はなかった。
いるのは私と、向かいの女だけ。
だがまだ、デスクを挟んでいる。私にも逃げるチャンスはあった。
椅子を後退させ、距離を置こうとした――のだが、椅子が固定されて、動かなかった。
キャスターを固定させてしまっていたのか。私は女を牽制しながら、手探りでボタンを押した。
だが、何度押しても、一向に椅子が動こうとしない。
どうしたというのか。
私は下を覗き込もうとした。
その時――、
見えてしまった。
デスクの下に潜んだ、もう一人の女を。
すぐ目と鼻の先に、その顔を目撃した。薄笑いを浮かべた唇。火傷の頬。女は椅子にしがみつき、私の顔を、その白濁した双眸で捉えていた。女の手が伸びる。血色が悪く、黒ずんだその手は皺だらけで、骨に皮が張り付いただけの、ミイラのような手だった。
私は心底から悲鳴を上げた。
その喉を、女の両手が捕らえに来る。
反射的に逃げようとしたが、バランスを崩して、椅子とともに後ろに倒れ込む身体。無様に床の上に仰向けになった私に、跨るようにしてのしかかる女。
手が私に触れた。
冷たい。体温などない。まるで氷のようで、生気を感じられない。
首に力が込められる。
息が吸えない。もがき苦しみながら、私は女に応戦しようとしたが、振り払おうとした手は空を切るだけだ。
その間にも、脳から酸素が失われてく。次第に朦朧とし始めた。
それにつれて、私の足掻きも緩慢になっていく。
口を開けても空気が肺に送られてこない。
今しがた振りかざした手が、無意識にだらりと垂れる。力が入らない。
視界が明滅する。鐘の音がどこからともなくがなり立て始める。夢の中で何度も聞いた、あの音だ。
私の意識は、はるか彼方に遠ざかっていった。
*
私は墓地にいた。見覚えのある墓地に。
ここは、いつも夢に見ていた、あの場所ではないか。
しかし今は、青空の下だ。夜ではない。
はっきりとした視界のおかげで、この墓地の様相が理解できる。
私はそこで、ようやくこの場所に見覚えがあることを思い出した。
奥の方にぽつねんと一つだけある墓が、倒壊している。破砕した石が地面に散らばっている。
それを見下ろすように、誰かが立っていた。
それは、私のよく知っている人物。
白い着物に身を包み、薄くて細い白髪の頭に、腰の曲がった姿勢のその人物は、私に気付くと手招きした。何か口を動かしているが、聞き取ることができない。
私は近寄ろうとした。だが、歩けど歩けど距離は一向縮まらない。次第に大股に早足になるが、まるでルームランナーにでも乗っているかの如く、前に進むことができない。
そのうちに、私は駈け出していたが、むしろどんどん遠ざかっていく。
私は手を伸ばした。辺りが暗闇に満ちていく。このままでは間に合わない。
気持ちだけが逸るばかりで、抗うことはできなかった。
そのまま、私は再び暗黒の世界に引きずり込まれていった。