殺意
「はあ? 人形の呪いだってえ?」
この間来た喫茶店で、またも私の前に座った達也は、私の話を聞くなり素っ頓狂な声をあげた。
次いで、人目を憚らずに笑い出す。
「そんなの、あるわけないだろって。考え過ぎだよ。このご時世に、そんなオカルト、ありえないよ」
隣の席の人が咳払いをしたことで、ようやく周りから白い目で見られていることに気付いたらしく、達也は肩身を狭くした。
やっと出張から戻ってきたというので、これまでのことを洗いざらい全て話して、相談に乗ってもらいたかったのだが、彼はまるで信用する気がないようである。
私は少しムッとして返した。
「でも、そうじゃなきゃ、説明できないことばかり起こってるし、現に捨てたはずの人形が、部屋の中に戻ってきてるんだよ?」
しかし、それでも達也はまともに取り合ってくれなかった。
「そんなの、捨てたつもりになってたけど忘れてたっていうだけだろ。部屋の物が動くとか、後を付け回されてるとかだって、心霊現象だなんて言うより、前にお前が言ってたみたいに、ストーカーの仕業だって方が、よっぽど信用できるよ」
「でも……」
そんなことを言われても、私としては、実際に起きている事実を詳らかに説明しているに他ならない。
私は確かに人形をゴミ袋に入れて捨てた。そして、家に帰ったら捨てたうちの人形だけが、元の場所に戻ってきていたのだ。
不服そうに見返すと、達也は腕を組んで暫し考え込む様子を見せてから、切り出した。
「よし、そんなに言うなら、今日は数美のアパートに泊まって、見張りをするよ。ストーカーにしろ、心霊現象にしろ、俺がいた方が少しは安心だろ」
「大丈夫なの?」
例の堅物で厳格な母親は、未だに達也の外泊をあまり快く思っていないようなので、少々気掛かりだったが、達也は笑ってコーヒーに口をつけた。
「まあ、明日は土曜だし、一日くらいだったら母さんもそんなに目くじら立てたりしないだろうから、適当に言い訳つけてなんとかできるからさ。今は俺のことは気にすんなって」
「ありがとう」
そういうわけで、今夜一晩だけ、達也が私の部屋に泊まることになったのである。
しかし――、
こういう時に限って、まるで何かを察したかのように、尽く例の現象は起こらなかったのだ。
ビデオカメラで部屋の中の様子を録画してみたり、人形をアパートの庭に埋めて、翌朝に戻ってきているか実験もしてみた。
だが、明朝確認してみても、変化は何一つ見て取れなかった。人形も戻ってきてなどいなかった。
それは何事もない方がいいに決まっているのだが、達也の信用が得られなかったのが困りものだ。
彼は私を気遣って色々と慰めてくれたものの、やはり心底から信じているわけではなく、疲れているから休みを取ったほうがいい。とか、一度病院に行ったほうがいいんじゃないか。とか、実際にはかなり遠回しな表現だったが、そんな風なことを言っていた。
これで結局、一連の出来事は私の思い過ごしや幻覚であり、少なくとも心霊現象などではないと結論づけられてしまった。
夕方、達也を見送って、私はまたこの部屋に一人になってしまった。
インスタントコーヒーを淹れて、テレビをつけた。
この時間は、どの局もニュースだ。地上波もこれだけチャンネルがあるのに、どこもかしこも同じ時間に同じ事しか放送していない。おまけにニュースを見れば、殺人に強盗に不況。あるいはどこかの国のテロや戦争。
たたでさえ気が滅入っているというのに、これでは余計に精神が疲弊してしまう。
嫌気が差した私はテレビを消して、ヘッドホンをつけて音楽を聴くことにした。
音楽はいい。
私を自分だけの世界に誘ってくれるし、アップテンポな曲を聴けば、自然とそのノリに身体も動き出す。
そうすればだんだん気分も晴れてくるものだ。
*
唐突な轟音で、身体が痙攣したようにびくりと震えた。
重い瞼を何とか持ち上げて、半目になりながら周囲を見回した。
すっかり暗くなっている。唯一の光源は、窓の外に見える隣家の明かりだけ。雨が降っているらしく、窓に水滴がこびりついている。
イヤホンからは、この間友人に教えられて嵌ったバンドの曲が流れている。ハイトーンボイスにテクニカルなギターリフが、絶え間なく私を包み込む。
音楽を聞きながら、眠り呆けてしまったらしい。
私は音楽を止めて、イヤホンを外した。
すると途端に、耳が外の雑音に侵されていった。
そぼ降る雨音。雑多に共鳴する虫の声。隣の部屋のテレビの音。どこか遠くから聞こえてくる、救急車のサイレン。
妙な体勢で寝ていたせいか、あちこち筋肉が痛んだ。立ち上がって伸びをしようとしたその時、私の両目が、視界の端にそれを捉えた。
あるはずのないもの。
今朝は確実になかったもの。
例の、火傷を負った日本人形だった。
*
それから数日経ったが、怪奇現象が起こらなかったのは達也が来たその一日だけで、後はいつも通りだった。悪夢にもうなされるし、ずっと視線も感じる。得体の知れない何かが蠢いている気配も。
達也に見せるため、私は一人で怪奇現象をカメラに収めたのだが、後日、撮れたはずのデータを達也と確認してみると、どれもこれもノイズが酷すぎて何も見えなかった。そのせいで、またしても信用を著しく失墜する羽目になった。私を見る彼の目が、訝しみというよりも哀れみに変わっていっている気がして、私は胸が痛くなった。
何度かホテルに逃げ込んだりもしたが、夢は私を簡単には逃してくれなかった。おそらくもう、既に私自身に得体の知れない何かが取り憑いているのではないか。そう思えてならない。
おかげで体調は最悪だった。
しっかり寝ているはずなのに隈が出来てしまうし、頭痛もする。最近は吐き気も酷い。食事が喉を通らなくなって、頬がげっそりとこけてしまった。
それでも会社には出向いていた。
そのほうが気が紛れる。人が大勢いるところのほうが安心だった。
この日も、私はいつものように、最寄りの駅で満員の電車を待っていた。
気分も良くないので、もう少し空いた電車に乗りたいものだが、この時間は少しずらしたところで欠片も変化などない。どこから湧いて出てくるのかわからない人また人で溢れている。ホームでさえ、足の踏み場もないほどに混雑していた。
早めに来て一番前に並べたから、心持ち狭苦しさは緩和されているものの、人の熱気で蒸し蒸しとして、それらが体内に浸み込んでくるみたいだ。
『三番線、ご注意ください。電車が参ります』
ようやくアナウンスが聞こえた。
前の電車が出発してからそう時間は経っていないが、朝とは思えないほどの蒸し暑さに、まるで十分にも二十分にも思えた。
駅に突入しようとしている電車を眺めて、ふっと肩に張っていた力が抜けた、その瞬間、
――ドッ。
身体が半分宙に浮いた。吸い寄せられるように、身体は前方へ。あっと思う間もなく、線路に倒れ込んでいく。
背中を押されたのだ。
落下しながら身体を反転させ、ホームに手を伸ばそうとした。だが、それも虚しく空気を掴むだけ。並んでいる客たちは手元のスマホに夢中で気付いていない。
時間の流れが、驚くほどゆっくりに感じた。
まだ空中にいる。間延びしたアナウンス。ようやっと誰かが悲鳴を上げて、何事かとざわつくホーム。
その雑踏の中に、私は見つけた。
赤い着物を身に着けた、長い黒髪の女を。
髪が前にかかって口しか見えなかったが、端をいびつに歪ませて、薄笑いを浮かべていた。
私の目は、その手に抱えられた人形の姿を捉えた。私の部屋にあるはずの、日本人形。全ての元凶だ。
しかしその姿は、慌ただしい人混みに紛れ込んで、一瞬のうちに消えてしまった。
枕木に背中を打ち付け、声が漏れた。息が止まる。空気が吸えない。
警笛が鼓膜を突き破らんばかりに響き、脳内を突き抜けていく。
横を見ると、進入してきた鉄の塊が目前に迫っていた。炸裂するブレーキ音。
もはや、身体は言う事を聞かなかった。
道路に飛び出してきた猫が、車のライトに夢中になって逃げられないように。
死の存在を垣間見た刹那、私は何者かにぐいと引っ張られた。
そのままホーム下の退避スペースに転がり込むようにして入り、直後に眼前を車輪が火花を散らしながら通過していった。
「大丈夫ですか?」
その声に横を見ると、半袖のワイシャツに身を包んだ、若い男性が跪いて私を心配そうに見返していた。ワイシャツのポケットに、名札が付いていた。
どうやら駅員のようだ。
胸に手を当てると、心臓がまだ力強く鳴り続けている。
私は自分の生を実感して、安堵のあまり、全身から力が抜けてしまった。