人形
文字通り、私は布団から飛び起きた。
身体中から、びっしょりとした汗が流れ出て、パジャマと布団を濡らしていた。髪の毛は乱れて、ぐしゃぐしゃだった。心臓が高鳴っている。まだ鐘の音がこびりついていて、耳鳴りがした。
しかし辺りを見回して、安堵に全身の力が抜けた。
ここは部屋の中だ。墓地ではない。
女の姿もない。
夢だったのだ。あれは全部、夢だったのだ。
暫しの間、立ち上がることもせずに、夢で見た光景を想起した。
墓地の中で目覚めた私。大木の側に佇んだ、着物を着た女。振り返った顔。
しかし、私は確かに女の顔を見たはずなのだが、今の私の記憶は朧げで、靄がかかったように判然としない。一体どんな顔をしていたのか、まるで思い出せなかった。
身体中の空気を抜くように、大きな溜息を吐いた。
枕元の時計を見ると、まだ六時である。とは言え六時間も寝たはずなのに、身体は疲弊しきっていた。全身が怠くて鉛のように重い。立ち上がろうとしたが、自重も支えきれずに危うくバランスを崩しそうになった。
肩は重荷がのしかかったみたいに凝り固まっていて、とても会社に行くような気分ではなかった。
それでも、日々の生活を支えるためには、行くしかない。こんな事で休んでいると、また女はこれだから使えないなどと、陰口を叩かれてしまう。
頭を振って気持ちを切り替えると、私は出勤の準備を始めた。
棚の上の人形の首が捻れていることなど、まるで気付かずに。
*
その日から私は、毎晩のように悪夢を見るようになった。
それも、決まって同じ場所、同じ内容の夢だ。
例の墓地で女を見る夢である。
ただ、心なしか、女の位置が私に近づいて来ているような気もする。最初は木の裏側にいたが、昨日の夢の中では、木よりも随分手前で私を待ち構えていた。
そして私も何度も見ているはずなのに、夢の中では必ず同じ行動を取ってしまう。
そして毎回、図ったように同じタイミングで、ぐったりとした状態で目が覚めるのだ。
睡眠時間はこれまでとあまり変わりないのに、身体の疲れがまるで取れていない。むしろ眠る前より、余計に酷くなっている気さえする。
最近では会社にいる間に眠気に襲われるようになっているし、怠くて業務の進捗が遅れてしまっている。
直属の上司にも弛んでいると怒られる始末。
だが、今の私はそれどころではないのだ。
夢だけではなく、例のストーカーもまだ私をつけ回しているようで、視線は部屋の中だけでなく、ほとんどいつも感じるようになっている。それもまた私を悩ませているのだ。
電車の中では度々意識を失いそうになるし、本当にもうそろそろ限界を迎えそうである。
時折、達也に電話やメールで連絡を入れるのだが、あんまり気にしすぎてもよくないとか、少し休んだほうがいいとか、そんな当たり障りのないようなことしか言ってくれない。
彼も出先で忙しいらしく、私の事にまともに取り合っている暇はないらしい。どうにも頼りなかった。
そもそも、本当に私と付き合う気があるのか。家族に私のことを報告する気があるのか。
彼の優柔不断で曖昧模糊な素振りを見ていると、それさえも疑問に思える。
そんな日々が一週間ほど続いた。
*
まただ。これでもう何度目だろうか。
警察から忠告を受けて部屋の鍵を替えたのだが、またしても小物が勝手に移動している。
私が神経質になり過ぎているせいなのだろうか。
いや、違う。決して思い違いなどではない。
確かに動いているのだ。
私も意地になって何度も鍵を付け替えた。しかし、それを嘲笑うかのように、その現象は続いた。
次第に私は、これが本当にストーカーの仕業なのかと疑い始めるようになった。
鍵屋も目を見張るような頻度で交換しているのに、果たして合鍵を間に合わせることができるものだろうか。とても人間業とは思えない。
だが実際のところ、一昨日も昨日も今日も動いていた。
閉じたはずの襖が開いていたり、締めたはずの蛇口が開いていたり、置いていたコップがテーブルから落ちていたり。日に日に激しくなっているような気がする。
それに、あの人形。
また首が反対側を向いていた。この間帰ってきた時に気付いたのだが、いくら元に戻しても私が布団から目を覚ますと、いつもそうなっている。
思えば、この人形を押入れで見つけてから、こういう現象が頻繁に起こるようになったのではないか。
夢の中に出てくる、あの着物の女。あの人形の格好にそっくりではないか。
それに、まるで夢の中の女の行動とリンクするかのように、首が振り返っている。
何か関係があるに違いない。
そう睨み始めたら、居ても立っても居られなくなった。
早くあの忌々しい人形をどこかへやってしまいたい。祖母の形見だとか、もはやそんなことは、今の私にとってはどうでもよかった。
兎に角これまでのような、普通で落ち着いた生活を取り戻したい。その一心だった。
翌日、私は遂に人形を袋に詰めて、ゴミとして出した。
大好きだった祖母の遺品を捨ててしまったことに多少の罪悪感はあったが、それよりも今はこの怪奇の元凶であろう物体を処分できたことに、むしろせいせいしている自分がいた。
これで少しは安心して暮らすことができる。普通に眠れることができる。
非現実的で、何の根拠もないことだが、不思議とそう確信していたのだ。
*
その日の会社からの帰り道、父から私の携帯に連絡が入った。
こんな時間に向こうから掛けてくるなんて珍しい。どうかしたのだろうか。
歩いてはいるが、この辺りの道は、夜には閑散として、人影も往来する車の姿もない。
私は躊躇わずに耳元に携帯を寄せた。
「数美か?」
スピーカーから父の声が聞こえてきた。
しかし、心なしか様子が変だ。いつもの明朗快活な調子ではない。
「どうしたの、こんな時間に」
「いや、別に急用があるとかじゃないんだ。ただなんとなく気になってな……」
向こうからわざわざ掛けてきたというのに、はぐらかそうとしているようだ。
「何? また私の事からかいたくなったの?」
「違うんだ。そうじゃない。ただ、なんだかちょっと嫌な感じがしててな」
歯切れの悪い言い方に、私は少し苛立って、きつい口調で急かしてしまった。
「どういう事? はっきり言ってよ」
「その……何だ。実は、お前が言ってたあの人形、ちょっと引っかかることがあってな。お婆ちゃんの納棺の時、一緒に立ち会った叔父さんに訊いたんだよ。そしたら、あの時確かに、棺の中にその人形を入れたって言ってるんだよ。だから……」
「だから、何? そうやって脅かしてからかうの、今ほんとやめて欲しいんだけど」
「いや、脅かしてるわけじゃ……」
「そんなの、叔父さんの勘違いでしょ。大体、人形を棺に入れたのなら、どうしてそれが私の部屋の押し入れから見つかるってわけ? おかしいじゃない」
「いや、だからな……」
「今私それどころじゃないの。お願いだから、これ以上悩ませないで」
有無を言わせず、私は電話を切った。
どうにも煮え切らない態度の父に対する怒り、というよりも、困惑のほうが大きかった。
人形は祖母の葬儀の時に納棺している?
だったら、押入れで見つけて、今朝がた捨てたあれは一体何なの?
わけがわからなかった。
しかし、今父から得た情報で、私の頭の中には一抹の不安が過ぎっていた。
自然と早足になりながら、私は夜道を歩いた。
その時、後ろから鋭い視線が突き刺さったような感覚を味わった。
思わず寒気を覚え、びくりと首を反転させるが、そこには誰もいない。
一本道が遠くまで伸びているだけ。両側は塀に囲まれ、人の隠れられる場所などない。
気のせいか。
静寂に包まれた夜の街の中を再び歩き始めると、ヒールの音が辺りに反響して、幾重にも重なりながら私の耳にもやってくる。
その中に、
――ざしゃ、ざしゃ。
明らかにおかしな音が混じっていた。ヒールのカツカツとした冷たく響く音ではない。
アスファルトを擦るような、まるでサンダルか草履でも履いているような音だ。
振り返り、暗闇にじっと目を凝らして観察する。
だが、変わらず無人の街路だ。
気のせい、気のせいだ。
自分にそう言い聞かせるように、心の中で何度も何度も繰り返し唱える。しかしその間にも、私の耳と脳は確かに私以外の足音を捉えていた。それが余計に私の焦りを掻き立てた。
じわりと汗が額を垂れていく。
湿った空気が、まるで粘着質の液体のように肌に纏わりついている。背後に迫る、得体の知れない何かが、空気までも支配して、私の動きを阻もうとしているみたいだ。
それに抗うようにして、殆ど息を乱して走りながら、足音から逃げていると、ようやくアパートが見えてきた。
途端に気持ちが楽になった。
あそこに入ってしまえば、もう大丈夫だろう。
そんな風に思っている私がいた。
そう。人形はもう捨てた。何も起こるはずがない。
後ろから来ているのは、きっとただのストーカーだ。姿が見えないのも、うまいことどこかに隠れてやり過ごしているだけなのだ。
中に入って戸締りをしてしまえば、手出しはできないだろう。鍵は昨日付け替えたばかり。いくらなんでも合鍵など手に入れられるわけもない。それに、もしこれ以上何かするようなら、また警察を呼んでもいい。
私は兎に角、一刻も早く自分の領域に戻りたかった。
鍵を持つ手は震えて、何度も差し損ねた。もどかしさに焦りが募る。それでも必死に手を押さえて、なんとか鍵を開けた。身体がぎりぎり入る程度に扉を開けると、すぐにその隙間から飛び込むようにして中に入る。ドアをすぐさま閉じて、体重でしっかり押さえ込みつつ、後ろ手に鍵をかけた。
――カチリ。
錠の下りる音。
途端に肩の力が抜けた。
これで、一旦ストーカーは安心だ。
今一度鍵を確認すると、重い身体を前屈みになりながら、必死に奥の部屋へと運んだ。
電気を点けてリビングに入ると、そこで私は、信じられない光景を目の当たりにした。
父の言葉を受けて、心の片隅に巣食っていた不安が、現実となった瞬間。
慄然とした私の指から力が抜けて、持っていた鍵は手からすり抜けた。がっくりと膝をついてフローリングの上に頽れる。目は棚の上に釘付けになった。開いた口が塞がらない。
そこに――、
そこに、捨てたはずの日本人形が、薄笑いを浮かべて私を見返していた。