悪夢
「嘘だろ。それ、マジでヤバイやつじゃん」
私の話を最後まで聞くと、向かいの席に座った南雲達也は顔を顰めて、見えない相手への嫌悪感を示した。
達也とは今日、会社の近くの喫茶店で食事をすることになっていたから、そのついでにこれまでの出来事を相談してみたのだ。
「うん。だから、ちょっと怖くなって」
私は怯えながら小さく頷いて、達也を上目遣いに見た。
「何なら、そのアパート引き払ってさ、うちに来るのも手だよ」
少しでも気を紛らわせようと、彼は食後のコーヒーを嗜みながら冗談めかして言ったが、私は本気でそうしようかと思った。
達也とは会社の同期であり上司であり、一応今の彼氏でもある。顔合わせの時に一目惚れしてしまい、それからというもの、それとなくアピールしたり、ランチを一緒に食べようと策略したりと、諸々の努力の末、こうして付き合うことになったのだ。
付き合い始めて早半年が経つが、まだまだ同棲や結婚という話にまでは発展していない。
「できることなら、本当にそうしたいところなんだけど……」
思わずそう零すと、達也は私の深刻に思い詰めた顔を見て、表情を引き締めて、申し訳なさげに軽く頭を下げた。
「ごめん」
「いいのよ。無理だってことはわかってるし」
彼はそこそこいい家の息子なのだそうで、母親が既に許嫁を決めているらしい。その母親がかなり厳しい性格の人な上に、達也はまだ実家暮らしである。そうなると、現段階で私が彼の家に泊まるというのは、大きな問題があるのだ。勿論それは私も理解していた。
達也は手を合わせて平身低頭である。
「本当ごめん。なかなか数美のこと言い出せなくて。俺がそっちに泊まりに行ければいいんだけど――」
「この先暫くは出張が入ってるんでしょう、知ってる」
それは彼がこの間言っていたことだから、私も覚えていた。大事な仕事だとも言っていた。
取りやめにして欲しいなんて、心の中では思っても、口に出せるわけがなかった。
すると、また達也は手を合わせて頭を下げた。
「ごめん。とにかく、何かあったら、またこうして気軽に相談してくれよ。出張先でも電話やメールとかで話は聞くし、できるだけ力になるからさ」
しかしその気持ちだけでも、私には嬉しかった。困った時に頼れる人が確かにいてくれるというだけで、心細さや不安は拭えるのだ。
*
身体はくたくただ。
あれからまた残業で遅くまで会社に残る羽目になった。おまけに昨日の今日で、余計に疲れている。
とにかく、早く横になりたかった。
いつものように何気なく鍵を開けて入ろうとしたが、昨日のことを思い出し、急に足が止まった。
恐る恐る扉を開けて、隙間から中を覗く。
気配はない。物の配置も、朝から変わっている様子はない。
中に入り、そろそろと奥へと進む。電気をつけて、誰もいないことがわかると、ようやくホッとして腰を落ち着かせた。
何から何まで知っているこの部屋が、まるで自分の部屋ではないみたいだ。私のほうが、誰か知らない他人の部屋に入り込んだ気分になる。
どうして私がこんな風に怯えて生活しなきゃいけないの……。
思わず頭を抱えた。
溜息が口から零れる。
子供の頃から、兎に角面倒ごとは避けてきた。平穏無事な生活を送るため、誰からも恨まれたりしないように、うまく付き合ってやってきたはずだった。
それなのに、どうしてこんな……。
だが、だらだらと一人で進展しない自問自答を繰り返していても仕方がない。
そうこうしている内に明日はやってきてしまう。仕事もあるのだ。
私はシャワーを浴びて、心の内に溜まった色々を水とともに流し出した。
少しさっぱりした気分で床に就くと、吸い込まれるようにして夢の中に誘われていった。
*
違和感を覚えて、目が覚めた。
なんだかいつもより布団が硬いような気がする。それに、どことなく青臭い匂いも嗅ぎ取れる。相変わらずじめじめしているが、なぜか手や顔はひんやりとしている。
何かがおかしい。
そう思いながら辺りを見回してみると、一面に草が広がっていた。
ここは部屋ではない。屋内ですらない。
見上げると、黒い空が天を覆っている。曇っているらしく、星や月の光は微塵も見て取れない。
慌てて私は身を起こした。
パジャマが泥で汚れている。爪の中に土が食い込んでいる。地面の上に直に寝ていたのだ。
なんでこんなところに……?
確かに私は昨日、あのオンボロアパートの自分の部屋で眠りに就いたはず……。
ただでさえ寝起きでぼんやりとして、霞がかったような状態の頭では、まともに考えることもままならない。
未だに頭の中が困惑で満ちている中、私は立ち上がった。
ここは一体どこなのか。
それは、視線が高くなった今、はっきりとわかった。
草むらの中に、ぽつぽつと佇んでいる、黒い御影石。明かりもないのに、ぼんやりと浮かび上がって見える。
それに背の高い卒都婆。線香の焦げた臭いが鼻につく。
生温い風が、絡みつくように、舐め回すように流れて、私はこの蒸し暑さの中で鳥肌を立てた。
――墓地。
私は墓場にいるのだ。
どうやってここまで来たのか、記憶がなかった。
いや、それは今はいい。
急いで部屋に戻るのが先決だ。
どこか遠くから、鐘の音が聞こえてくる。
寺の鐘ではない。もっと高くて、内心の不安を煽るような音色。
焦燥に駆られて歩き始めようとしたその時、
――ずしゃ。
草を踏み潰し、玉砂利を鳴らす音。
私は釣られてその方向を見た。
木の幹に隠れるようにして、誰かが立っている。影が落とされていて、それがどんな人物なのかまるでわからない。
ここのお寺の人だろうか。
兎に角、助けてもらおう。
そう思って、私は人影に近寄って、声を掛けようとした。
「あの、すみま……」
だが、喉から出かかった言葉は、そのまま肺の中に逆戻りしてしまった。
人影から影が取れ、その正体が明らかになったからだ。
黒くて長い髪。赤い着物を身に纏ったその人物は、明らかに異質だった。手には、時代遅れも甚だしく、提灯を提げている。赤い照明がその人物の周りを照らし出していた。
少なくとも、寺の人間ではないだろう。
どことなく、声を掛けづらかった。
そろそろと離れようとした時、その着物の人物が、何かをぶつぶつと唱えていることがわかった。
小さな掠れた声が、途切れ途切れに私の鼓膜を震わせる。声の高さからして、やはり女性のようだ。
「……す。次は……」
鐘の音が邪魔して、はっきり聴き取れない。間隔がさっきよりも短くなっている気がする。
「……前の……を必ず……」
何を言っているのか気になって、私は耳をそばだてながら、ひっそりと再びその女に近づいた。
だが、女の様子に気を取られて、足元の小枝に気付かなかった。
――パキッ。
気付いた時には手遅れだった。
女の声が止まる。束の間、時間が止まってしまったような錯覚を覚えた。身体が金縛りにあったかのように、微動だにできない。
風が私たちの間をすうと流れた。生暖かい、湿気を孕んだ気持ちの悪い風。
女の顔が、ゆっくりとこちらを向く。鐘の音が、もはや途切れることなく鳴り続けている。
女の動きは、まるで古ぼけた機械仕掛けの人形のようにぎこちない。人間ではないかのようだ。
徐々に明らかになる女の顔。
見てはいけないような気がして、目を背けようとしたが、眼球はその意思とは別に、まるで射止められたように動かなかった。
その女の顔は――、