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気配

 それから数週間が経ったのだが、何だか気になることが起こるようになった気がする。

 気になることと言っても、意識しなければ気付かないような、ほんの些細な事ばかりだが。

 例えば、朝、目が覚めると枕元の目覚まし時計の位置が少しずれていたり、テレビの角度がいつもより僅かに動いていたり、閉めたと思ったはずの冷蔵庫やトイレの扉が微妙に開いていたり。そんな程度の事だ。

 最初は私の記憶違いだと思っていたのだが、さらに日が経つと、今度は部屋の中で誰かに見られているような感覚に襲われるようになった。どうにも落ち着かないが、一人暮らしの部屋で、そんな視線を感じるはずがない。

 しかし、ただの思い過ごしだと、そう私は思い込んで、問題から目を逸らそうとしていた。


 *


 そんな毎日が続く中、八月に入り、台風の季節になった。

 私はこの日、少しばかり早めに帰宅することができた。それと言うのも、超大型台風がこれから東京を直撃するという予報があったからだ。どうにか電車が動かなくなる前に帰途に就けたのだが、この時点で酷い雨風である。傘を差したところで、強風に煽られて雨が次々と入り込んでくるから、もはや傘の意味などない。

 殆どずぶ濡れになりながら、やっとの思いで部屋に戻ることができた。

 鍵を開けて中に入ると、急いで着替えようと思った。


 ――だが、


 その日の私の部屋は、何だか様子がおかしかった。


 誰かがいる。


 そんな気配を、ひしひしと感じた。廊下で立ち止まり、自分の気配を殺して、その正体を確かめようとしたその時、奥の部屋から、ギイッと床の軋む音が聞こえてきた。外壁や屋根を叩きつける雨音や、ごうごうと唸る風音の中に、微かに、だが確かに、その音は存在していた。

 息を殺して、耳をそばだてる。

 軋みは段々こちらに近づいているようだった。音が大きくなる度、私の心臓の鼓動も大きくなる。

 雨水で服が肌に張り付く気持ち悪さも忘れて、さらに聞き耳を立てたのだが、おかしなことにそれ以上軋みは聞こえてこなかった。

 これはこちらから出向いて、音の正体を確かめなければならないようだ。

 そう思って、私は抜き足差し足で、廊下の先に進んだ。


 ぴちゃっ、ぴちゃっ、と。袖から水滴が零れた。フローリングが水浸しになってしまうが、風呂場に立ち寄る気はない。

 部屋に誰かいるのか、ちゃんと確かめないと。


 その時――、


 眼前が真っ暗になった。

 視界が突然閉ざされ、私は少しパニックを起こした。小さく悲鳴も上げてしまった。何も見えないのに、何かを見ようとしてきょろきょろと頭を動かす。暗闇の中で、広い夜の大海原に一人放り出されたかのような、孤独や焦燥や恐怖を感じた。変わらず風雨の音だけが、私の鼓膜を震わせる。

 慌てて手探りで壁を見つけると、ようやく人心地ついた。それでやっと、まともな思考ができるようになった。


 恐らく、停電だ。この台風のせいだろう。


 私は壁に寄りかかるようにして身体を支えると、鞄から携帯を取り出そうとした。

 だが、そこで、


 ――ヒュッ。


 廊下の空間に、自分以外の空気の振動を感じた。頬に息を吹きかけられたような、そんな感覚だ。それを感じるや否や、私の丁度真横の壁が勢いよく叩かれた。その音に、私はすっかり竦みあがった。驚いた拍子に鞄から荷物をごろごろと零してしまう。強張った身体は言う事を聞かず、膝から崩れてその場に座り込んでしまいそうになった。それを、僅かに残った理性で制御して、寸でのところで留まった。


 間近で空気が動いている。


 私以外の誰かが、そこにいる。


 咄嗟に手で口を押さえた。今にも乱れた息が隙間から漏れそうだ。

 今や雨水ではなく、冷や汗が私の肌を伝わっている。頬には何か生暖かいものが流れていた。

 しかし、闇に潜んだその存在は、私に気付いてはいなかったのか、あるいは気付いていながら敢えて逃したのか、すうと微風を立てて、どこかへ消えていった。

 目の前から気配が消えても、がくがくと足が震えて、とてもこんな暗闇の中を歩ける状態ではなかった。電気を探すのも諦めて、私はその場に立ち尽くしてしまいそうになった。

 しかし、それは唐突に訪れた。


 光。


 眩いほどの光が、天から降り注いだのだ。私はその光に眼を細めて、天井を見上げた。

 電気が復旧したのだ。停電にしては、随分早い。どことなく引っかかったが、とにかく明かりがついて、私の不安は闇と共に消え失せていった。

 溜まっていた息を大きく吐き出した。

 光によってもたらされた安堵を噛みしめる。

 だが、それも束の間だった。

 視線を右に向けると、私はその光景に背筋を凍りつかせることとなったのだ。


 壁に突き立てられた包丁。


 丁度、私の顔の高さの所に、そして私の顔の真横の位置に、それは刺さっていた。

 暗闇の中での、あの音が脳内で反芻した。


 まさか、壁を叩くようなあの音は、この包丁の……?


 そして、その直前、私の頬を何かが掠めていったような感覚も蘇った。

 不意に思い出して手でなぞってみると、ピリッとした刺激が顔に伝わる。反射的に手を離すと、指先には鮮血が付着していた。


 もしも、位置が僅かにずれていたら……。


 身震いした。

 やはり誰かがこの部屋に潜んで、私を殺そうとしていたのだ。

 私は壁に突き立っていた包丁を引き抜き、それを手に、恐る恐る奥へと進んだ。しかしもう、さっき部屋に入った時に感じた気配のようなものは、すっかり感じ取れなくなっていた。

 それで私は思いの外すんなりと、リビング兼寝室に足を踏み入れることができた。

 壁の電気のスイッチを入れる。

 誰もいない。

 部屋は荒らされているというわけでもなく、出かけた時と殆ど同じ状態だった。

 ただ一つ、棚から落ちていた日本人形を除けば。


 *


 それから部屋中を虱潰しに探し回ったのだが、やはり誰もいなかった。

 とは言え、命の危険を感じたし、得体の知れない誰かがいたかもしれない部屋で、そのまま何もせずに平然と生活を続けることなどできない。

 そこで一旦警察を呼んで、現場検証等をしてもらったり、事情聴取を受けたりもした。これまでに感じた視線のことや、部屋の物の位置が若干ずれていることも洗いざらい話した。

 しかし、有力な手がかりとなるような物は見つからなかったらしく、悪質なストーカーの仕業だろうということで終わった。どこの誰の仕業とか、そういう具体的なことは一切わからずじまい。

 ただ、ドアにも窓にも鍵がかかっていたにも関わらず侵入されているので、鍵を替えたほうがいいという忠告を受けた。

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