第2話 藤ノ宮神社
しかし、転校生が来たからと言って、その後の学校生活に変化が起こることはなかった。黒川君はさっそく友達ができたらしく、休憩時間のたびに集まって、ワイワイ盛り上がっている。もうあれきり私に話しかけてくることはなかった。
帰りのHRが終わった。今まで憂鬱そうにしていた生徒たちも「さようなら」という号令と同時にたちまち元気いっぱいになる。そこから部活に行く人、教室に残ってしばらく友達と雑談する人とに別れる。私は部活に入っておらず、そして一緒に雑談するような友達もいなかったので、鞄を肩に担ぐと、家に向かってすたこらと歩き出した。
学校から出ると、ほとんどの生徒たちは南のほうへ歩いていく。南に少し行けば駅があるし、またさらにいけば商店街がありさらに向こうには新興住宅街もあるからだ。
そんな中、私はたった一人北に向かい歩いていく。生粋の田舎町として有名な藤ノ宮町。周りに見えるのは、田んぼやビニールハウスばかりだ。今の時期は、アスパラガスやニラなどを栽培している家が多い。畦道をずんずん進んで十五分くらい経っただろうか。ここまで来ると、もうあたりを歩くものは誰もいなくなっていた。それも当然だ。この先には民家らしい民家など一つもないのだから。ただ目の前に、小高い山が一つ、そびえ立つだけである。藤ノ宮町最北端にあるこの山、正式名称は知らないが、地元の者からは昔から〈亀山〉と呼ばれている。小さいのと大きいの、二つに連なる山が、それぞれ亀の頭と胴体に見えるからだ。
おもむろに〈亀山〉に足を踏み入れた。登山客用に舗装された道を延々と登っていく。しかし舗装されているといっても、それは決して平坦な道ではなかった。足元は岩や木の根のせいででこぼこしており、時間をかけて慎重に登らねば、すぐに転んでしまう。一度も足を止めることなく登り続けて二十分。私はもうくたくただった。息せききって、額には真珠大の汗が浮かびあがる。毎日のように上り下りを繰り返しているというのに、ちっとも体が慣れてくれない。
それからまた五分ほど歩いて、ようやく目的地にたどり着いた。大木に隠れるようにして、えんじ色の鳥居が見えた。かなり年季の入ったその鳥居は、近づいてみてみると、塗装がところどころ剥がれ落ち、むき出しになった木の部分は、虫に食われた跡が点々とある。下には雑草が青々と好き勝手に伸び、それが鳥居を辛うじて支えているように見えた。
脇には石柱が立っており、そこには〈藤ノ宮神社〉という文字が刻み込まれている。鳥居の手前では二匹の狛犬がいかめしい形相で私をにらみつけている。まるで侵入を拒むかのようだ。
だが、私はひるむことなく鳥居をくぐりぬけた。砂利石の上を無表情で歩いていく。歩くたびにせっかくきれいに整えられていた砂利石が四方八方に飛んで行った。
「おい、飛鳥。歩くときは、砂利石ではなく石畳の上を歩くように、いつも言いておるだろうが」
突如、怒鳴り声が聞こえてきた。キンキンと耳に響く、甲高い声である。声はすれど、姿は見えない。声に構うことなく、ジャリジャリと歩き続けた。すると声の主は耐え切れなくなったのか、
「おい、同じ言葉を何度も言わすでないぞ」
本殿の影のあたりから、ぬっと姿を現した。おかっぱ頭の小さな男の子だった。年のころは十二歳かそこらといったところだろうか。青い着物を着て、右手には竹ぼうきをもっている。
「私が朝から綺麗に整えたものが、お前のせいで台無しではないか」
ほんの子供の外見をして、随分大人びたませたしゃべり方をする。急に目の前に現れた、年端もいかない少年。しかも偉そうに説教までたれてきた。私はうんざりだとばかり少年をにらみつけて、鼻を鳴らしてやった。
「あー、もううるさいわね。別に砂利石なんてきれいに整える必要、ないじゃない。」
それから大きな欠伸をして、縁側にどっかりと腰を落とす。
「いくらきれいにしたところで、この神社に参拝客なんて来ないんだから。やるだけ、無駄よ。それぐらい、ハルだってわかってるでしょ」
すると、少年――ハルはマシュマロみたいな白くてフカフカのほっぺたを真っ赤にして、大きな猫目をきっととんがらせて怒鳴り散らした。
「そのようなことを言って、掃除をせずにいたら、ますます参拝客が減ってしまうではないか」
小さなこぶしを振り回して、鼻息荒く語る。その言葉を私は「はいはーい」と軽く受け流す。
肌を通り過ぎる春風が、暖かくて気持ちよかった。
ここで昼寝でもしようかしら。いや、読書というのも悪くないわね。なんてのんびり考えていると、
「はい、は一回!!」
いつの間にかハルが前に立っていた。片方の手を腰に当て、もう片方の手を、びしっと私に向けた。
「だいたいお前は私が言っていることなど、一つも聞いておらぬだろ。いつもいつも軽く受け流しよって」
「もう、分かったわよ!!」
しびれを切らしてその場で立ち上がり、ハルを見下ろす。彼の背は私の腰ぐらいまでしかない。
「そう怒鳴らなくても、もう十分わかったわよ。これからは『はい』は一回しかいわない。ハルの話もきちんと聞く。これでいいんでしょ」
上から押しつけるように、凄んで見せる。だがこれで引き下がるハルではない。
「なんだその態度は!!それが年長者に対する態度か」
まったくけしからん、と、腰に手を当て吐き捨てる。そう、彼はまだランドセルが似合いそうな風貌をしているが、こう見えて私よりもずっと年上なのである。実際に何歳かは私も知らない。おそらく彼自身も把握してないのだろう。それくらい長い時を、ハルは生きている。けれどいくら年をとっても、その体は決して老いることがないのだ。
「はいはい、すいませんね。これからは口のきき方に十分注意しますよ。おハル様」
言葉とは裏腹に、まったく感情のこもっていない声で謝罪した。何か言い返してくるかと思ったが、意外にもハルは何も反論してこなかった。これ以上言っても無駄だと判断したのだろうか。黙って、私が先ほど乱した砂利石を整え始める。せっせと箒を動かす彼を見ていて、思わず「よくやるわね」とつぶやいてしまった。
「あなたがどれだけ綺麗にしたところで、どうせこの神社には人なんて来ないのに」
と、再び縁側に座りながら欠伸を一つ。
なにせ、ここ〈藤ノ宮神社〉は立地がとにかく悪い。最寄り駅からかなり離れている上に、険しい山道を登らなくてはならないのだ。で、わざわざここまで足を運んだからと言って、特別な祈祷が受けられるわけでもなく、立派な本殿があるわけでもなく。建物は老朽化が進み、今にも崩れ落ちそうだし、祀られている神はとうの昔に逃げ去って行ってしまったのではないかというほどの荒みよう。まさに、〈廃神社〉と呼ぶにふさわしい。
「こんな場所に訪れるのは、よっぽどの廃墟マニアか、パワースポットマニアくらいじゃないかしらね。とにかく、まともな人間の来る場所じゃあ、ないわ」
私のぼやきなど耳に入っていないのか、ハルは手を全く止めない。
彼が毎日掃除を欠かさないのは、私の父にしてこの神社の元神主――如月広春との約束があるからなのかもしれない。
どうやらハルは父に誓ったらしいのだ。何があってもこの神社を守る、と。もっとも父は物事を強制したりお願いしたりするような人ではなかったから、ハルが一方的に宣言したに過ぎないのだろうけれど。
当の父は、今から一年ほど前、他界した。その死はあまりにもあっけないものだった。朝、いつも通りに「いってきます」と朗らかな笑顔で出て行ったきり、戻って来なかった。その日の夜、警察からかかってきた電話によって、父の死を知った。警察の話によると、遺体には無数のタイヤ痕があったため、交通事故にあったのではないかという話だった。物心がつく前にすでに母親を失っていた私は、ハルとの二人暮らしを余儀なくされた。父の死はもうとっくに受け入れているつもりだ。だが、ふとした瞬間に、実はまだ生きているのではないかと期待してしまうことがある。
父は縁側に座って、空を眺めながら緑茶をすするのが好きだった。
面倒な用事は全部ハルに押し付けて、青空の下、よく居眠りをしていたっけ。で、それを見かねたハルに「ここはお前の神社なのだから、お前がしっかり管理をしなければならぬのだぞ」って怒られて、それでも父はいつまでものほほんと笑っていたのよね。「ハル、そんなに怒ってどうしたんだい。もっと肩の力を抜いて、楽に生きていこうよ」なんて、軽口を叩きながら。
思い出すと、なんだかにやにやしてしまう。
懐かしいわ。
ふわふわして掴みどころのない父だったが、この神社を人一番大切に思っていることは確かだった。その証拠に、どんなにさびれても、人が寄り付かなくなっても、この神社を捨てようとしたことなど一度もない。ハルは父が大切にしてきたこの神社をただ、守りたいのだろう。
縁側で物思いにふけっていると、知らぬ間にうつらうつらしていた。
「ごめんくださーい」
ふと、誰かの声が聞こえてきた。私は文字通り飛び起きた。参拝客でも来たのだろうか。
「誰かいませんかー」
それは声変わり前の少年の声をしたハルのものとは明らかに違う、それでもまだ若いのだろうなと判断できる、男の声であった。声は鳥居の向こうから聞こえてきた。私が今いる位置からは鳥居は死角になっており、見ることが出来ない。
いったい誰がきたのかしら。
恐る恐る鳥居の方向へ歩いて行った。歩きながら、考える。
ここへ参拝客が来るのは一か月ぶりといったところか。それも来たとしても、お賽銭箱に小銭を投げ入れるだけで、声をかけてくるものなど父が亡くなってからは初めてのことである。父が生きていたころは、父が相手をして私は脇に引っこんで様子をちらちらと眺めるだけだった。極端な人見知りのため、積極的に前に出て初対面の人と話すのは大の苦手だったからだ。
どうやらこれが、如月飛鳥、人生初の接客となりそうだ。
顔を出すと、参拝客はにこにこと笑って直角に一礼した。すらりと縦に長いからだ。オシャレにセットされた髪。藤ノ宮高校の制服を着ている、彼。
「どうもこんにちは、如月さん」
そのままスポーツ飲料のCMにでも出られるのではないかというほど、爽やかな笑みだった。
「……!!」
私は驚愕に目を見開いたまま、しばし放心してしまった。
なんでこの人が、ここにいるの?
その疑問だけが、頭の中をぐるぐると回る。
「……如月さん?おーい、如月さん?大丈夫?」
気が付けば、参拝客が私の顔を心配そうに覗き込んで手を振っていた。はっと我に返って首をふった。
「え、ええ。大丈夫」
いや、本当は全然大丈夫ではない。だって、まったく今の状況がわからないのだから。とりあえず、自分の頭に浮かんでいる一番の疑問を参拝客にぶつけてみることにした。
「どうして、ここへ来たの?―――黒川君」
そう。目の前にいるのは、今日クラスに転校してきた、黒川ひいろ、その人だったのだ。