7 謀略 (前)
祖先が遊牧民であった国イムハンにおいては、本来、皇帝とは本質的に男性に限られたものであり、女性支配者の存在は例外的なものであった。
イムハンの結婚形態は東方の国々では珍しくもない一夫多妻である。しかし、皇后は皇帝の留守に国を護る「偉大なる妻」と称され特別な地位にあり、皇帝と同等の権力を有していた。なぜなら、皇位継承権は女系(皇帝の娘や姉妹である皇女)にあり、彼女らを正妃に迎えることが皇帝の証明とされたからである。
多国との政略結婚を除く殆どの場合において、皇族の婚姻は近親婚であった。また、これはイムハン皇族のみの特権でもあった。これは、先代の皇帝の息子であっても庶子である場合、皇帝が自らの地位や神聖性を正当化するために自分の姉妹(もしく は異母姉妹)と結婚したためである。普通、帝位を継ぐのは皇后の生んだ皇子であった。
威龍帝も本来庶子の皇子だったが、先の皇后の生んだ兄たちが相次いで亡くなっていたため即位した。彼は自らの位を正当 化するために異母姉妹鳳潔と結婚したのであった。
威龍帝が、ファランの秘密を知っていたかどうか、それゆえの臣下への降格だったのか、それを知ることはもうできなくなってしまった。
*
早朝の、ファランが最も愛する空気は、突然の叫び声に引き裂かれた。女官たちの絶え間ない小走りの足音と囁き声に、尋常ならぬ気配を感じる。反対に、小鳥たちは不気味な程にじっと鳴りを潜めていた。
「陛下のお部屋に…」
「…まさか毒が…」
「淑陽様…」
「…人影が…」
それらが一斉にぴたりと止み、確乎たる歩みで近づいてくる者がいる。
「ランにいさま…あれ、いつ帰ってきたの…」
寝台からむくりと起き上がった美鈴はまだ目が覚めていないようで、自分の服が替わっていることにも気づいていない。ファランがそれに答えようとした時、部屋の前でその足音は止まった。
「ファラン殿下、恐れながら早朝失礼致します」
扉を開けると、女官長が立っていた。幼少の頃から冷たい印象であまり好きではなかったが、今朝は一段と尖った表情をしている。
「な、なんですか…」
女官長は廊下にいた女官たちを一睨みで下がらせると、扉を閉めた。
「誠に悲しいお知らせですが…今朝、陛下がお隠れになりました」
「…え?」
「威龍皇帝陛下、御崩御であらせられます」
ホウギョ…それは、小鳥達も教えてくれなかった言葉だった。
「父上は、陛下は、亡くなられたのですか…?」
「左様にございます」
途端に、膝の力ががくんと抜ける。何が起こったのか、よくわからなかった。
「今から陛下のお部屋に皇族の方はお集まりになるよう、皇后陛下からのお達しでございます」
頭の片隅に、遠く声が聞こえている。
「では、お召し替えを」
女官たちの手が方に触れて、ファランはハッとした。
「僕に触るな!」
一瞬の考えのうちに、ファランは部屋を飛び出した。父の部屋に向かって。
乱れきった髪と上がった息に、見張りの兵は狼狽しながらも通してくれた。部屋には、皇后鳳潔と皇太子蒼武、そして数人の重臣らがいた。
父・威龍は寝台の上に横たわっていた。苦しんだ跡はないようだった。しかし近寄ろうとすると、
「お控えください」 と兵士たちに抑えられた。
「なぜです、僕は息子ですよ!」
「控えよ、ファラン!」
鳳潔が一喝した。 「今はまだ、他の妃も皇子も姫も来ておらぬ。別れの挨拶にも順序がある。しかもそなたは臣下、琥珀三位の身。宰相たちの後にせよ」
そうだった。今のファランは皇帝の子とは言え臣下の身なのだ。しかも寝着からそのまま来ている。
義兄・蒼武も切れ長の瞳から冷たい視線を射るように投げかけている。しかし、あの場で女官たちに肌を晒すことは勿論許せなかった。とりあえずファランは一度下がることにして、自室に向かった、勿論美鈴の部屋ではなく。
しかし、着替えている最中に、部屋の外から女官長の声がした。
「ファラン様、皇后陛下からお話を伺いたいとのことでございます。謁見の間においでになられますよう」
どういう事だろう。父との別れの挨拶もまだなのに。
しかし、皇帝亡き今は皇后が絶対権力者であり、逆らうことはできない。ファランが謁見の間に足を運ぶと、そこには鳳潔と先ほどの重臣たち、そして淑陽がいた。