3 真夜中の冒険
淑陽が、イムハンの妃の印である王冠を戴いて、婚礼の儀は恙無く終わった。大人たちの宴は夜まで続いたが、ファランたち子どもには退屈なだけだ。
そこそこに子どもたちは部屋に帰されたが、宮中が祝典の美酒に酔っている間に、ファランは翔豪と部屋を抜け出すことにした。警備も手薄で、誰も見咎める者はいなかった。
真夜中の月明かりの下、翔豪が導いてくれたのは、後宮の一番奥にある今は無人の部屋だった。寝台をずらすと、床には小さな扉があった。そこを開くと、地下に続いているだろう石造りの階段が現れたのだった。
「すごいな…どこまで続いているんだ?」
「さあ、まだ先まで降りたわけじゃないからなあ」
翔豪は持って来た灯りをつけた。
「この灯りがすぐ消えてしまえば、空気は薄いってことになる。でも、灯りは揺れただけだった。空気の流れがあるんだ。だから、きっとどこか外に通じている。例えば、ツィンユンの外とか」
「まさか!」
思わず声を上げてしまったファランの口を、翔豪は押さえた。
「大声出すなよ。女官に気づかれたらおしまいだぞ」
「うん、ごめん」
「じゃあ、オレが先を行く。ついて来いよ」
階段を降りていくと確かに風の音がする。少し寒いほどだ。まだ十歳のファランは少し怯えていた。翔豪は名の通り武道に長けた勇ましい少年だが、自分はそれほどでもない。しかも、狩の時でさえ供の者なしには後宮から出たことが一度もないのだ。
「どこまで行くの、翔豪」
「行けるとこまでだよ」
「それはそうだけど…」
「なんだファラン、お前、怖気づいたんだな」
「ち、ちがうよ!」
「こら、静かにしろって。城のどこに声が伝わるかわからないぞ」
たった一つしか歳が違わないのに、剛毅な従兄にファランは感心していた。しかし、それも束の間、やがて、行く先から奇妙な音が聞こえ始めた。
「何だ?」
翔豪も耳を澄ましているようだ。近づくにつれ、それはどうやら声のようだった。すすり泣く、高い声…。
「ゆ、幽霊だ!」
「ばか、静かにしろ!」
「だ、だって、こんな真っ暗な所に、人が居るわけないじゃないか!」
ファランは思わず従弟にしがみつく。と、翔豪も僅かだが震えているのが伝わってきた。
「見ろよ、向こうに光が見えるぞ。出口なら、人が居たっておかしくないだろ?」
ファランはもう一刻も部屋に戻りたいのだが、しがみついた翔豪がそれでも前に進むので、引っ張られるような格好で目前の幽かな光に近づいて行った。しかし、こんな真夜中に光なぞ見えるものだろうか。
近づいていくと、確かに人影がある。やはり、すすり泣いているようだった。しかし、そのすすり泣きに交じって、今度は動物の鳴き声までしてきた。光はどうやら、人影の傍にある灯りのようだった。
「猫じゃないか?」
翔豪が言って、ファランも漸く光の方を直視する事が出来た。子猫の鳴き声がしている。おそらく二匹はいるようだ。いつのまにか翔豪の僅かな震えは消えていた。
「幽霊と猫は一緒にいないだろ? …あっ」
小さい驚きの声を上げた翔豪の陰からおそるおそる覗いてみると、そこには二匹の子猫に囲まれしゃがみこむ人影が見えた。女性…しかもかなり若い。
「そこで何してるんだ?」
翔豪の質問にはっとして振り向いたのは、今日まさにイムハンに嫁いできたばかりのミルヴァルの姫、「淑陽」だった。服装は婚儀の時のものではなく、イムハンの衣装に変わっているが、その表情は怯え、紫の瞳はしとどに濡れている。
「淑陽様…どうしてこんな所に?」
「ファラン皇子…お願い、助けて」
異国の言葉だが、確かに彼女はそう言ったとファランにはわかった。動物の声ではないが、この言葉を、自分は知っている。淑陽の傍にいた子猫たちは白猫と黒猫だったが、まだ幼く、片言でしか話せていないようで、盛んに餌を求めていた。
「その人は、君たちの飼い主?」
ファランは子猫たちに訊いた。
「ううん、ぼくたち、そとからきたよ」
「ごはんちょうだい」
あまり通訳にはならないだろうか。傍では、翔豪と淑陽が訝しそうに見ている。
「このお姫様は、どうしてここにいるの?」
「にげてきたの、おしろから」
「かえりたいって」
「お姫様と話せる?」
「わかんない」
「やってみる」
黒い方の子猫が、「淑陽」に向かって鳴いた。すると、
「あなた、動物の言葉がわかるの?私の言葉も?」
と、異国の姫は異国の言葉でファランに話しかけた。
「ぼくの母は…多分あなたと同じ国から来ました。動物の言葉は、あなたもおわかりなんでしょう?」
黒猫が意味を伝えてくれる。姫は納得したように頷いた。
「それなら、話が早いわ。ここから出して、逃がしてちょうだい」
「逃がすって…」
「抜け穴までは見つけたの、でもここからは…」
「何だって?さっきから話が見えてないんだが」
翔豪が慎重に口を挟んできた。こういう時に騒がない性格の翔豪は本当に頼もしい。
「ぼくは淑陽様の国の言葉を…話せはしないけど知ってるんだ。それで、ぼくの言葉をこの猫たちに伝えてもらっている。彼女は、ここから逃げたいと言っている」
「どうして?」
ファランは翔豪の問いをそのまま淑陽に向けた。
「政略結婚と言っても、私には本当は婚約者がいました、それに、ミルヴァルの女帝ドロシノーア様は、きっと策略を持っていつかこの国も手に入れようとする筈。故郷の姉のことも心配なのです」
この時、ファランには「ヒトジチ」という言葉の意味が理解できた。
「そうか、でもそれは無理な話みたいだぜ」
理由を聞いた翔豪は淑陽のいる場所に灯りを近づけた。そこからつま先上がりの上り坂が始まり、階段と同じく巨大な石が堅牢に積み上げられている。そして、頭上にある僅かな隙間が子猫たちの抜け道となったのだろう。洩れているのは僅かな月光だ。
「この石じゃ、坂を上りきって俺たち三人で力を合わせても動かすことはできない。そうだな、あと五、六年もあれば動かせるかもしれないけどな」
「五年か…」
「そんな、それまで待つ事は出来ません!」
涙混じりに淑陽は声を荒げた。
「そんなに気を落とさないで下さい。ぼくの父、威龍帝はとても強く、優しいお方です。あなたのご身分は保証されていますし、ミルヴァルと戦はしません。どうか信じて下さい。そして、いつかあなたを、ミルヴァルにお帰しできるよう、父に頼んでみます」
ファランは落ち着いて言った。子猫たちは淑陽の指を舐めている。
「子猫もあなたに懐いたようですね。この国で言葉が通じなくて不安なら、その子たちと暮らせばいい。ぼくも、あなたの力になります」
「お、オレも頼りになるぜ!」
明るい翔豪の言葉に緊張が解けたのか、淑陽の表情が和らいだ。
「ありがとう、小さな皇子様たち。私の本当の名前は…マリーゴールドよ。ミルヴァルの紋章の花の名なの。覚えておいて」
姫の口元に、僅かだが微笑ともとれる生気が見えた。やがて、東の空が白み始めてきたのが、淡い光となって石壁の隙間からも漏れてきていた。
*
子猫達は「白瑛」と「黒曜」と名づけられ、それぞれファランと淑陽に引き取られた。ファランの協力で、淑陽も次第にイムハンでの生活に慣れていった。
時間は瞬く間に過ぎ、六年後、ファランたちは勇敢な少年たちに成長した。
ここまででとりあえず第一部とします。それでは皆様、よいお年を!