2 囚われの花嫁
中央宮、謁見の間には、既に威龍帝と、ファランの異母兄である皇太子の蒼武が席に着いていた。
「お父様!」
ファランは駆け出したが、まず女官にきつく窘められた。
「良いではないか。さあ、ファラン、こっちへ」
威龍はにこやかに笑って立ち上がった。皇帝の正装である朱色の礼服を着ている。美丈夫とはいえ中年にさしかかった父が、今日はどこか瑞々しく見えた。その胸に小鳥のようにファランが飛び込む。皇帝の最愛の息子としてファランは、時にその膝に座ることさえも許された。
しかし、この日は皇帝の婚礼の日であり、裏を返せば皇族全員が顔を合わせる日でもある。この和やかな時間は、すぐさま鋭い女性の声に引き裂かれた。
「ファラン、何をしておる!」
声の主は言うまでもなく、今入ってきたばかりの皇后・鳳潔である。
「そちの席は向こう、翔豪の手前じゃ! 分を弁えよ!」
ファランは慌てて飛んできた臣下に、自分の席に連れて行かれた。皇太子は皇后の隣に席があるが、それ以外の皇子・姫達は一段下がった所に席がある。この段が、王位継承第一位とそれ以下の者を大きく隔てていた。
「鳳潔、そのように声を荒げずとも。この子はまだ幼い、しかも母のない身である。父の私が目をかけて、どうして悪い」
「でも陛下、皇太子は蒼武です。皇太子をさしおいて陛下の傍に行くなどと、無作法にも程がありますわ!身分の差というものを…」
「恐れながら皇后陛下」
静かに、しかし大臣の一人が声を上げた。
「皇太子殿下は先ほど、ファラン様が到着されるより以前からこちらにいらっしゃり、陛下とお話をされていました。ですので、殿下は何も不都合はなかったとおっしゃっています。順番は乱されてはおりません。お心をお鎮めになり、席にお着きくださいませ」
鳳潔はなおも何か言おうとしたが、
「まあまあ、私に免じて落ち着いてくれ」
と威龍の最後の一言で不満を表しながらも皇后の玉座に着いた。
「新しいお妃が増えるから、カリカリしてんだぜ、あのおばさん」
翔豪がファランにだけ聞こえるように言った。 「蒼武殿下もあんなかーちゃんで大変だよな」
それでも、いるだけで羨ましい。翔豪には母親以外にも五つ下の妹・美鈴がいる。だが、こんな気持ちは翔豪にも言えなかった。
太陽が南中した時、婚礼の開式を告げる銅鑼の音がツィンユンの街に響き渡った。ちょうど異国の姫が、遠路遥々ミルヴァルから到着した時刻でもある。
先程から大きくなっていた国民の歓声が一段と高まるのが宮殿の中にも伝わってきた。都の中央通りを通って来た馬車が宮殿前に停まったらしい。
楽師達が華やかな旋律を奏で始める。すると謁見の間入口から、皇帝の玉座の前まで絨毯のように敷き詰められた花の上を、異国の装いをした少女が供の者に連れられて歩いてきた。
少女が近づいてくるにつれ、城内からは溜息が漏れた。 躊躇いがちなその足取りはまるで、小鹿のようだとファランは思った。
そして、ファランの目前を少女が通り過ぎる時、ファランは息を詰め、固唾を呑んだ。美しい。ファランはこれほどまでに美しい少女を見たことはなかった。黄金に輝く髪、象牙か陶器のような透き通る肌。そして、どこかで見たような紫水晶の瞳。しかし表情はなく、氷のようだ。
十四歳で、どうしてこんな国まで結婚しに来たのだろう。十歳のファランにはもちろんそんなことは理解できるはずもなく、今朝の小鳥の会話から耳に残った「ヒトジチ」という言葉がまたも浮かんだ。
少女は供の者に誘われるままに玉座の前に跪いた。
「そ、そなたがミルヴァルの姫か」
先程までの威厳はどこへやら、浮き足立ったような威龍が問う。少女の傍らの供が何事か囁き、少女は頷いた。
「相違ございません」
供の者が答えた。どうやら通訳をしているらしい。
「名は何と申す」
少女の口からは、聞きなれない異国の言葉が聞こえた。
「マリイゴオ、とやら申しております」
「ふむ、何やら難しい名だな。それならば、いっそイムハンでの名を授けよう。何か良い名はないか」
指名された大臣は、返事の後やや考えてから、
「こちらの姫君は、身罷られたファラン様の母君、静旭様に生き写しとのお噂でしたが、まさにその通りでございます。よって、同じ太陽の意である『陽』と、止ん事無いお立場であることより『淑』の字を合わせて、『淑陽』という御名では如何でございましょう」
と、紙に書きつけた。宮殿内からは感嘆の声が上がった。
ファランは、生き写し、という言葉が気になった。母の面影をこの美少女に重ねることはとても気恥ずかしいことのように思えた。
「確かに、静旭と似ておる。ファラン、こちらへ」
父に呼ばれて、ファランはやや戸惑って玉座の方へ進んだ。少女が顔を上げ、目があったのでファランはまたまたどきっとした。
「ここに居る皇子ファランは、幼少の頃母を亡くしてな。それがそなたによく似ておるのだ。そこで、ファランの母親になってはくれぬかな。勿論、皇后は総ての皇子達の母であるわけだが」
鳳潔の咳払いに威龍はこうも付け加えた。 「母では歳が近すぎるから、姉代わりでもよいぞ」
通訳に耳打ちされて少女ははっとなり、その表情のまま何事か呟いた。
「仰せのままに」
通訳はそう言ったが、ファランには本当にそう言ったとは思えなかった。
「ファラン、お前もこれからは、淑陽と仲良くするが良い」
「はい、お父様」
ファランは少女、いや淑陽の前に歩み寄ると、はにかみながら微笑んだ。
「仲良くしてくださいね、よろしくお願いします」
その時、淑陽の氷のような瞳に、初めて何かが宿ったようにファランには見えたのだった。