1 光の御子
朝の光が、ツィンユンを包み始めた。
イムハンの都ツィンユンは、領土を南北に分かつ大河、幽江の畔にある。高い外壁に守られた都内のなだらかな坂の頂上に、王宮である彩露城はあった。中央には謁見の宮殿、右翼には皇帝の執務殿があり、左翼にある後宮が、妃や皇子たちの寝所だった。
小鳥の声と共に目覚め、彼らの歌や会話に耳をすませながら寝台から降りて庭に向かう、幼い皇子ファランの姿があった。
ファランは朝が好きだ。早朝の澄んだ空気に、寝着も少し冷たい。後宮の庭も、春になるまでもう少しだ。囀り戯れる鳥たちは、今日行われる婚儀の話で持ちきりだった。
「今日お輿入れする姫はどちらの国から来るの?」
「ミルヴァルからさ」
物心ついた頃から、ファランには少しだけ不思議な力があった。生き物たちの声が、人間と同じように会話しているのが聞こえてくるのだ。その力は、おそらく二年前に亡くなった異国の出である母から受け継いだのだろう。母は、薬草の煎じ方も、風の読み方も教えてくれた。亡くなるまでの半年ほどの間は殆ど起き上がることもできず、抱きしめられた記憶もあまりないが。
「それはまた、遠路はるばるだねえ。まだ十四歳って言うじゃないか」
「ああ、協定の為とはいえ、まあ体の好い人質だね」
ヒトジチ、という言葉は耳慣れなかった。ファランの語彙はこのように生き物の言葉から学んでいる。そして、決して遣い方を後宮の女官たちには訊かない。どこで覚えたのかと詮索されるからだ。
ともあれ、今日はお父様の結婚式なのだ。イムハンの皇帝である父・威龍は、ファランの母を亡くしてから失意の日々を送り、ファランの成長だけがこの世の慰めのようになっていたから、家臣たちも心配したのであろう。そう考えていると女官の一人が朝湯の迎えに来て、鳥たちの最後の会話を聞き逃してしまった。
「それにしても、よく見つけてきたもんだね。生き写しって言うじゃないか」
「そりゃあ、そうでなければ陛下も後宮に迎えようとは思わなかっただろうさ」
浴槽から立ち昇る蒸気を大きな瞳で見上げるファランに女官は話しかけた。
「さあ、ファラン殿下。今日は特別な儀式がございますから、いつもよりお支度に時間がかかります。どうかのんびりなさいませんよう」
「その式、ぼくも出るの?」
寝着を半ば脱ぎながらファランは尋ねた。
「勿論でございます。ファラン様はイムハン朝第十二代皇帝の第二皇子でいらっしゃいますから、陛下のお近くにお席を造り申しあげておりますわ」
「お父様は…結婚なさるの? なぜ? 鳳皇后もいらっしゃるし、お母様以外にも、たくさんお妃はいるよ」
十歳の子どもの率直な疑問に、女官は少し躊躇った。
「ファラン様…。陛下はお立場上、沢山のお妃を持つことになっています。それに、今度の婚儀、いえ結婚は、隣国ミルヴァルとの大切な絆を深めるためのものなのですよ」
「…それじゃあ、その人は、ミルヴァルとイムハンが決めた結婚のために、望まないでもここに来るんだね?」
「それは、…官僚たちが方々より手を尽くして、やっと陛下のお眼鏡に適った、いえ陛下が望まれた方でございますから…」
言葉を濁す女官に、ファランはこれ以上追究すべきでないことを悟った。
「そっか。じゃあ僕は第二皇子で良かったな。皇太子になったら将来沢山お妃をもらわないといけないんじゃ、大変だもの」
「そ、そうですわね」
子どもらしい感想に、女官も安心したように息をついた。
「梅香、もうあとは自分で出来るよ」
「いけませんわファラン様、朝のお支度は私どもにお任せ下さい」
「いいんだよ! ぼくだってあとちょっとで大人なんだぞ、いいからぼくが呼ぶまで外で待っててよ!」
ファランの剣幕に気圧された女官は、慌てて深い礼をすると立ち去った。
「ファラン様、普段は優しいお子なのに、朝のお支度はしょっちゅう機嫌が悪くなるわ。生まれた時占い師が『人を統べる座に着く』と言ったというのに、こんなに情緒が不安定なのは、やはり静旭様…お母様が亡くなってからかしら…」
とぶつぶつ言いながら。
邪魔者がいなくなって、ファランは浴槽から盥に湯を少し移し、部屋から隠し持ってきた袋を開けて中身を溶かした。暗褐色に近い紫色に湯が染まる。癇癪を起こした振りをすれば、女官は自分を一人にしてくれるのだと、そういうことも何時しか知った。
ファランは自分の頭髪にその液体を少しずつ馴染ませていく。母から教えてもらった、薬草で作る染髪剤だ。毎日する必要はないが、それでも一週間と空ければ根元の色が変わってしまう。今日は人前に出る日だから尚更用心せねばならない。
ファランの毛髪は実は亜麻色である。黒色の髪が通常のイムハンの民族において、亜麻色の髪に緑の瞳では、いかにも異人の子と疑われるだろうと恐れた母の、わが子を護る為の策であった。床に臥すまでは、自らやってくれていたように思う。
髪を濯いで、浴槽に身を沈めながら、ファランは、もう一つの自分の体の変異と、もう一つの母の言葉を思い出していた…。
「王位継承権、か…」
下着をつけ部屋に戻ると、先程とは違う女官がおり、ファランの礼装を用意していた。金糸や銀糸で刺繍された、眩いばかりの衣。ファランは目を細めた。どうしたってこのような華麗な物には気が退けてしまう。
婚礼は昼からで、まだ時間はある。礼装を着る時間をできるだけ先延ばしするために、朝食を済ませるとファランは従兄を探しに王宮の廊下に出た。彼もきっと、この時間ならぶらぶらしているに違いない。
思った通り、従兄・翔豪は着替えもせず、後宮と中央宮殿を結ぶ廊下から、蓮池に小石を投げていた。針金のような漆黒の髪と、鳶色の切れ長の瞳が印象的な少年だ。翔豪は皇帝の弟の子で、ファランの一つ上の皇子だ。しかし、立場上は下位ということになる。
「鯉に当たったらどうするんだ、翔豪」
「鯉じゃないよ、あの葉の上を狙ってるんだ」
立場の上下があるとは言え翔豪の口調はいつも気さくであり、ファランもそれを気に咎めることはなかった。二人はむしろ双子の兄弟のようであり、一番の親友であり、文武凡ての面においてライバルでもあった。
確かに、翔豪の指差す先には小石の乗った小さな蓮葉があった。入りにくい場所が的になっているらしい。
「つまらないな、今日は時間が少ないから、狩にも行けないし剣の練習もできない」
「そうだな」
ファランもまた同じように蓮の葉めがけて礫を投げてみた。やはり、なかなか思うようには届かない。
「第一この結婚式は、お前には関係あるけど、オレにはない」
「そう言うな、ぼくだって退屈してるんだ」
「どうせなら逃げちゃうか?」
「どうやって?」
「この間見つけたんだ、後宮のある部屋に、秘密の抜け穴があるんだぞ」
「すごいな」
「式の時間までまだあるから、行ってみないか」
ファランは従兄の誘いに頷こうとした。
「いや…やっぱりダメだよ」
「どうしてさ?」
「ぼくが行かないと、お父様やみんなが心配するもの」
「そうか、大変だな、“光の御子”も」
「代わりに、今夜行ってみない?」
「いいよ、じゃあ約束だな」
ちょうど、翔豪付きの女官が探しにやってきた。しぶしぶ二人とも自室に行き、各々着替えを終えると中央の宮殿に向かった。