1-5
居たたまれない。
床に正座をして、大輝は今すぐにでも逃げ出したいと思っていた。
膝の上ではノスフェラトゥが無防備に寝ている。これさえいなければ、これさえいなければ……と思わずにはいられない。
無理に退かせば、星羅のようにバリバリと引っかかれてしまうかもしれない。それも嫌だった。
見上げた先では女子二人による優雅なお茶会が行われている。
どこの教室にでもあるような机と椅子にクロスをかけただけのものだが、妙に華やかに見える。
一通り菓子を楽しんで、一樹は大輝を値踏みするように見た。
「噂の御曹司、か」
「あんまりそう言われたくないんですけど……二年の灰岡大輝です」
「うむ」
金持ちの子供が多いと言われるこの学園で灰岡の名は知れ渡ってしまっている。
そもそもの間違いは親に決められたこの学園に入ってしまったことなのかもしれない。もう少しばかり密やかな生活を送りたいというのは贅沢なのだろうか。
「えっと、事情があって」
言わなければと思うのに、彼女の雰囲気に威圧されてしまう。
三木一樹は小柄ながら、武術に長けていると言われる。どんな目に遭わされるか考えるだけでぞっとする。
大輝は完全に萎縮していた。
「あたくし達、お付き合いすることになったみたい」
「みたいじゃなくて、なったの」
さらりと言い放った星羅に大輝もとっさに付け足す。その瞬間、ガタッと音がする。一樹が椅子ごと動いた音だった。
「せ、星羅に、か、彼氏……!」
口に手を当て、ワナワナと震える一樹に大輝は考える。
このまま歯を食いしばり、目を閉じて頬を差し出すべきか。
だが、一番の問題は肝心なことをまだ言っていないということだ。
「いや、あのですね、その……」
言わなければ、言わなければと思うのに、口がもごもごしてしまう。
すると、星羅が立ち上がり、一樹にティッシュを差し出す。
そのティッシュも黒猫のぬいぐるみのようなケースに入っている。
「わかってるわかってる。偽装でしょ? ずびぃっ……いや、なんか一瞬にしてお父さんが乗り移ってさ」
「あなたは三木一樹のままよ」
星羅は冷静だった。冗談がわからないのだろう。
「二人って付き合い長いんですか?」
「今、何日目だっけ?」
鼻をかんで、一樹は首を傾げる。
「あたくし、三木一樹とは知り合ったばかりなのよ」
「そうそう、お隣に越してきたって感じで」
短い付き合いのようには見えないのだが、一樹は世話好きなのかもしれない。
「別にあたしは怒んないよ。むしろ、同情してるよ、灰かぶり王子」
涙と鼻水が治まり、一樹はまた大輝を見る。うんうん、と頷いているが、大輝は首を傾げるしかない。
「いや、俺、そんな風に呼ばれたことないですけど」
「事実上の許嫁いるでしょ? 清女の市原茉希」
大輝はギクッとした。なぜ、彼女がそれを知っているのか。
「あたし、そっちの方詳しいからさー、うん」
「はぁ……」
「君はせめて今だけはその事実を隠して思う存分青春を謳歌したいけど、金目当てのハイエナどもが群がって平和な学園生活どころじゃない。星羅じゃなくてもわかることはあるんだよ」
一樹はニッと笑う。改めて生徒会長の恐ろしさを知る。
彼女もまた金持ち関係の人間なのかもしれない。
「いいんじゃない? 星羅だってさ、こんなことがなければ一人っきりで魔女続けてくんでしょ?」
殴られるのではという危惧は一気に吹き飛んだ。
彼女は噂とは違い、案外話がわかる人間なのかもしれない。
やはり噂とは当てにならないものだと大輝はホッとしていた。
「まあ、安心しなよ。あたしが協力してあげる」
何て頼もしいのだろうか、感動すら覚える。これほど理解してもらえるならば、もっと早くに知り合いたかったと思うほどに。
「星羅、わかってる? 登下校は一緒。毎日、車だよ」
彼女が言うことは正しいと言えば正しい。言わなければ星羅はわかっていなかったかもしれない。
だが、彼女の情報は間違っているようだ。
「いや、俺、チャリですけど」
ちらりと一樹は目を向けてきたが、すぐに星羅に向き直る。
「お弁当も一緒に食べるの。毎日お重に入った豪華な……」
「基本的に学食ですけど」
遮って言えば、ぴたりと一樹が止まる。ここは最早情報ではなく、勝手な思い込みなのかもしれない。
どうしたのだろう。大輝が首を傾げているとノスフェラトゥがひょいっと膝から降りてどこかへ消えてしまった。
不思議に思っているとヒュッと何かが頬を掠めた。
ぞっとして、身体が硬直したまま、視線で追うと駄菓子が転がっていた。
「乙女の夢をぶち壊すなーっ! このクソ御曹司っ!!」
やはり理不尽だった。
一樹は殴りかかってくるわけではないにしても次々と菓子を投げてくる。それも滅茶苦茶に投げているようで狙いが正確だ。
「痛い! 地味に痛いですから! 徒花さん、助けて!」
額を押さえた手に菓子が当たってはポトリポトリと落ちていく。
「両方とも三木一樹のことじゃない」
星羅は呟き、菓子を拾い集める。また一樹が止まる。それからべたーっと机に突っ伏した。
「灰岡の坊ちゃんがあたしに劣るなんて……!」
「俺、そういういかにもな金持ちになる自分が嫌で周りを説得したんで」
一体、自分を何だと思っているのか。溜息が出そうになるが、余計な刺激はするべきではなかった。
そういった思い込みを押し付けられたことは何度もあるが、一樹に言われるとは思わなかった。彼女はこちらの事情を知っていたのだから。
「でも、自転車は電動付きに決まって……」
「まだ言いますか。普通のチャリですって。高級自転車で学校に通うなんて正気の沙汰じゃないですよ」
どこの世界の少女漫画だろうかと大輝は思ってしまうものだ。
「うぅっ……」
「まさか三木先輩は高級自転車にお乗りに……?」
まずいことを言ってしまったかと大輝は不安になる。
「三木一樹は自転車に乗れないの」
グサッという音が聞こえた気がした。
高校三年にもなって自転車にも乗れないのか。それを言ってしまえば、今度こそ命がないかもしれない。
「あたくし、猫みたいだから三木一樹が好きなの」
「猫……」
そう見えないこともない。言われてみれば、そうとしか思えなくなってしまう。彼女は確かに猫に似ている。
大人しくしていれば生徒会長としての妙な風格があるが、キレてしまえば手が付けられなくなる。
顔も吊り上がり気味の二つの大きな目の距離が近く、何だか猫っぽいのだ。
大輝は一樹が星羅の保護者だと思っていたが、実際は逆なのかもしれない。星羅ほど冷静に対処できる人間はいないだろう。
面と向かって猫みたいだから好きなどと言えるのは彼女以外に存在しないだろう。
「とにかく頑張ろう! ね?」
一樹がひしっと星羅の手を握った。今度はお母さんが乗り移っているのかもしれないが、この場合、一番不安なのは一樹の方だった。
ふと、星羅の両親が気になったが、聞けそうになかった。
そうして、大輝と星羅の偽装カップルはスタートしたのだった。