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「……見えないというのもまた運命ね。少なくともノスフェラトゥは予知していたみたいだけれど」
椅子に座って、星羅は呟く。
「今日、調子が悪いとかじゃなくて?」
大輝もまた向かいに座れば、その膝にノスフェラトゥがピョンと飛び乗ってくる。引っ掻いてくるわけでもなく、大人しくしている。
その様を星羅がひどく羨ましげに見ている気がしたが、触れてはいけない話題のように思えた。
こうして生で見ると不思議な猫だ。オッドアイであること以外、その辺りの野良猫と何ら変わりなく見えるが、先程はとんでもない跳躍力を見せてくれたものだ。
ノスフェラトゥがどこからやってきたかと言えば、壁の上部、開いている小窓しかないだろう。
いくら猫の跳躍力が優れているからと言って並の猫になせる芸当ではないはずだ。やはり、何か特別な魔法でもかかった猫なのだろうか。
もしかしたら、本当は猫ではないのかもしれない。そんな馬鹿なことさえ考えてしまう。
「三木一樹は見えたのよ」
「それはそれで凄いけど……」
あの傍若無人とも言われる生徒会長三木一樹の未来など見るのも恐ろしいものだ。
その彼女(男のような名前だが、歴とした女である)から籠一杯のお菓子を貰う星羅は一体何者なのだろうか。気になるが、問いかけたところで《魔女》以外の答えが得られるとは思えない。そもそも、一樹のことに触れるのはタブーのように思えてしまう。
「あと、三木一樹の下僕達もいつも通り」
下僕とは他の役員達のことだ。一樹に使われている彼らは不憫だと大輝も常々思っている。
「あたくし、あなたと契約するわ」
その言葉を聞いて大輝はほっとする。だが、安心しきるのはまだ早い。
「いくつか、条件を出させてもらうけどいいかな?」
まだ大輝に都合がいいとは言えない。交渉はこれからだ。
「あたくしも出させていただくわ」
当然そうくるだろうとは思っていた。一方的な契約は強要でしかない。
だが、この少女は無理な要求はしてこないだろうと感じていた。
「一つずつ言っていこうか。フェアになるように」
良好な関係を続けるにはフェアでなければならない。
星羅が可愛らしい猫のメモ帳を出すのを見て、大輝は少し待つ。
それから彼女は黒猫が付いたペンを取り出す。
どうやら彼女は猫好きのようで、そう思うとノスフェラトゥに好かれていないのが不憫に感じられる。
「じゃあ、俺から一つ、知り得たことは一切他言しないこと」
「それは当然のことだわ。では、あたくしからも、ここに出入りするのなら、秘密は厳守すること」
「これは共通事項だね」
サラサラと星羅はメモに書き留めていく。
「じゃあ、一つ、期間は最長で俺が卒業するまで。多分、それよりは短くなるだろうけど、君はそれに従うこと」
「ええ、従うわ」
二年にも及ぶような契約には、さすがに何か言われるのではないかと思っていたが、星羅はすんなりと受け入れた。
「けれど、魔女はあたくしの生業、人生の全て。どんなことがあっても、絶対にやめない。侮辱は絶対に許さないわ」
「しないよ。邪魔もしない。それでいいかな?」
彼女は《魔女》としての活動に支障が出なければ、どうでもいいのかもしれない。
「じゃあ、一つ、俺と付き合うのはフリ、絶対に好きにならないでほしい」
この項目に関しては一番不安があった。正直、女は信用できないというところがある。
「あたくしは誰も好きになれないもの」
「誰かを好きになったことは?」
「いいえ、これから好きになるとも思えないし、なったところで、あたくしは何も求めないわ。絶対に――この世における絶対という言葉の信頼性は地に墜ちているかもしれないけれど」
目を伏せながら淡々と語る星羅に大輝の胸が痛む。
恋を知らない彼女の、これから知るかもしれない未来を自分が二年分も奪うのは心苦しいものがある。
万が一、彼女が自分を好きになってくれたとしても何もしてあげることはできない。今更ながらにこの契約の残酷さを思い知る。
(この子は信用してもいいのかもしれない)
拓臣に言えば根拠のない危険な考えだと一蹴されるかもしれない。
それでも、信じてあげたいと思ってしまうのは、女に騙されやすい体質だからということなのか。
拓臣の言葉通り、自分は彼女を犠牲にするのだ。せめて不信は抱かずにいてやりたかった。こうして向き合っている彼女は一人のか弱い少女なのだから。
「あたくしの条件を言っても?」
「ああ、うん、ごめん、話逸らしちゃって」
「当然の権利だわ。あなたは、あたくしを利用するために色々知る必要がある」
物わかりがいい。良すぎるのかもしれない。
淡々と遠慮のない物言いは大輝にとって不快なものでもない。
拓臣は反対していたが、彼女ほどの適任はいないのかもしれない。
「ノスフェラトゥには決して危害を加えないこと。侮辱もいけないわ。命の保障はできないから」
「うん、どうなるかはよくわかったよ」
シュンと俯いた星羅はノスフェラトゥと仲良くしたい気持ちがあるのだろう。だが、ノスフェラトゥは星羅には全く懐いていないようだ。ただ一緒にいるだけ、あるいは、ノスフェラトゥの方が偉いようにさえ感じられるほどだ。
なぜ、ノスフェラトゥなのかということについて聞くのは今度にした方がいいのかもしれない。膝に乗られてよく見ている内に気付いたが、ノスフェラトゥはメスであって、かなり不似合いな名前に思うのだ。
「他にはある?」
「今は思い付かないわ」
「俺も、また何かあったら言うよ。いいね?」
拓臣ならあらかじめ書面を作り、サインまでさせるという徹底ぶりを見せたかもしれないが、そこまで周到にはなれない。
「秘密は厳守って言ったけど、一人だけ例外がほしい」
「あたくしは構わないわ」
彼女は断らないと、どこかではわかっていた。
「親友の羽佐間拓臣。今度、紹介するよ。君は?」
「敢えて言うなら、三木一樹だわ。彼女はとても鋭いから」
できれば、出てほしくなかった名前だと大輝は心の中で落胆した。敢えて言わないでくれた方が良かったかもしれない。
最もお関わりになりたくない人間に、こんな形で接近するのは避けたかった。
ここまでの感じから三木一樹は星羅を可愛がっていると思って間違いないだろう。生徒会室に呼び寄せて、籠一杯の菓子を与えるほどだ。
たとえ、本人が快諾してくれたとしても、不幸が前提の付き合いだ。偽装カップルの証人になってくれなどと頼んだらどうなるかはわからない。
しかしながら、後で知られるともっと恐ろしいことになるかもしれない。
最初の恐怖と後々の恐怖、天秤にかけるまでもないことだった。
「隠し立てしないで協力してもらった方が得策かな?」
「彼女を通して見えるものがあるかもしれない」
未来が見えない二人、そう思うと不安がある。見えることが当然ではないが、本来彼女は見えなくて当然なものが見えているのだ。
「俺が一つ年上だからって、遠慮しなくていいから」
彼女を利用することにはまだ引け目があった。彼女が我が儘を言い出した時に困るのは自分だとわかっているのに、強気に出ることはできない。
「してるつもりはないわ」
「それなら、いいんだ」
これから彼女を知っていく必要があるのだろう。
「あたくし、三木一樹を呼んでくるわ」
「えっ……そんな急に……?」
立ち上がった星羅に大輝は慌てた。心の準備が全くできていない。
「善は急げと昔から言うじゃない」
「でも、生徒会長って忙しいんじゃあ……」
そんな急に来てくれるはずない。思ったのだが、星羅は足を止めることなく、スタスタと出て行ってしまった。