6-3
実際は外に出たところで、何かが劇的に変わるはずもなかった。
空が闇の色へと変わろうとしているだけで、助けがいるわけでもない。逃げ切れるとも思えない。あれだけの男達がいれば誰かは星羅を見付けてしまうだろう。
「離してよ! 痛い!」
ついには茉希が暴れて腕から抜け出してしまった。
睨まれて、自分の負けだと悟りながら星羅はナイフを離さなかった。お守りだと無理矢理渡されたものが多少なりとも役に立つとは思っていなかった。だが、助けに来てくれるわけでもない。
「早く! 捕まえなさいよ!!」
茉希はヒステリーを起こして甲高い声を上げる。けれど、出てきた男達はそこで足を止める。
「この愚図! 言うことが聞けないの!?」
尚も茉希は叫び続けたが、ざわめきの方が大きかった。
「何だよ、あれ……」
男の一人が声を上げる。
「召使い……」
「マジかよ」
呆然と空を見上げて彼らは呟く。その視線の先には無数の目が合った。
いつの間にかたくさんのカラスが集まってきていた。空を埋め尽くさんばかりに。
「やっぱり本当だったんじゃない……あんたは本物の《魔女》よ!」
カラスを魔女の下僕とする考え方を星羅も知らないわけではないが、星羅にはそこまでの力はない。ノスフェラトゥにしても星羅が従えているわけではない。
「う、うわっ!」
男の一人が声を上げる。いつの間にか何匹もの猫も集まっていた。
「早く誰かその女を海に沈めなさいよ! どうせ、悪魔に助けられるんだわ!」
茉希はもう自分が何を言っているかもわかっていないのかもしれない。
自分が馬鹿なことを言っているとも思わないだろう。彼女は怖いのかもしれない。
今、茉希は星羅を怖れている。そして、それが既に自身の敗北であることに気付いていない。
「もうやめてよ……市原さん」
ふと聞こえたその声に星羅は自分でもわからない内に涙を零していた。彼がここにいるはずがない。来るはずがない、それなのに確かに聞こえた。確かにその存在を感じている。
「大輝さん……」
茉希の声が自分だけの幻聴ではないのだと星羅に教えてくれる。
急に力が抜けてしゃがみ込んだ膝の上に黒い塊が飛び込んでくる。
いつもは絶対にじゃれついてはくれないのに、こんな時には慰めているつもりなのだろうか。それとも、新手の嫌がらせのつもりか。
「ノスフェラトゥ……お前の仕業なのね」
その猫は星羅よりもずっと魔女らしいのかもしれない。予言をし、カラスの大群を呼び寄せ、大輝をも連れてきた。
こうなると最早化け猫といった方がしっくりくるのかもしれない。
「もう大丈夫だよ、徒花さん」
彼は茉希のところへは行かなかった。そっと星羅に自分のブレザーをかけてくれる。その優しさが嬉しくて、けれど、彼が顔を赤くして目を逸らしている理由に気付いて、さっと前を掻き合わせる。
「あなたも私を裏切るの? 家がどうなってもいいの!?」
「俺は君とは結婚しない。君に、君のお父さんに屈するつもりはない。たとえ、一度踏み潰されても俺は多分雑草だから死なないよ」
大輝ははっきりと言った。茉希の表情が怒りに染まっても真っ直ぐと見据えている。それは今まで見たことのない彼の強い面だった。
「あなたに何ができるって言うのよ!? あなたは大人しく私の言うことを聞いてればいいのよ! じゃなきゃ、家ごと潰してやるから!!」
「親父も受け入れてくれたし、君のところには言うまでもないと思うよ。どうせ、何でもできるのは君の力じゃない。君は魔法を使えない。ただの我が儘な女の子だよ」
大輝は最早茉希を、その背後にいる雄一郎を恐れてはいなかった。その強い意思が声に出ている。
今までならば言えないことを、言ってはいけないことをはっきりと言う。
「灰岡大輝……なぜなの?」
星羅は問わずにはいられなかった。今自分の側にいる大輝は別人のようにも思えた。
「その答えは多分みんな同じだよ」
「みんな……?」
問えばそっと体を支えて起こしてくれる。そして、指で示す。自分以外の味方の存在を。
大輝は一人ではなかった。茉希に立ち向かえるだけの仲間と一緒だった。だから、恐れずに経っていられる。
「人の恋路を邪魔する奴はツッキーがおしおきしちゃうよっ!」
なぜかアイドルのような女装姿で、可愛らしいステッキを片手に現れたのは星羅の実兄睦月だ。
「うちの娘に手を出すなんてビッグバンまで遡ってもまだ早いわ!」
塩の袋を片手に、着物を着ている美女も星羅の実父皐である。
「人の恋路の険しきことよ……けれど、これを越えた二人は永劫の愛を誓うに相応しい。そうは思わんかね? 若人達よ」
易者の商売道具をじゃらじゃらと鳴らし、それらしいことを言うのはこれまた星羅の祖父である。穏やかに笑みながらどこか殺気に満ちているようでその細い竹の棒で人を刺せるのではないかとさえ思えた。
「殺虫剤ならもっと早い内に使いたかったのだけれど、一網打尽もまた快感かもしれないわね」
ついに四人目星羅の実母美智子が並び立つ。魔女の一族が揃った様は壮観と言うに相応しい。
「な、何よ、あんた達! 邪魔しないでよ! 早くどうにかしてよ!!」
茉希は叫ぶ。子供が自分の思い通りにしようとする様にしか見えず滑稽だった。
「邪魔者はどっちだろうね? 君みたいなのを雌豚って言うんだよ。メ・ス・ブ・タ。 わかる?」
星羅の兄弟子鳳玲は酷いことを言いながら妖艶に微笑む。睦月のように女装しているわけでもないのに、男ながら妙な色気がある。
そして、その背後には占いカフェの仲間達と思しき姿もあった。
「星羅ちゃーん!」
「駆け付けてやったぞ、魔女っ子」
なぜか竹刀を持つ夏実と拓臣が並んでいる。二人は仲直りできたようだ。
「星羅! 遅れてごめん! もう大丈夫だよっ!」
一樹と生徒会の面々、それから見慣れない大人達もいる。
だが、彼女はそれ以上何も言わなかった。代わりに大輝に目で合図する。花を持たせてくれるということなのだと大輝は解釈した。
「市原さん、あなたはもう終わりだ」
「何よ……何なのよ!?」
茉希の信者が見れば失望したかもしれない。偽りのカリスマ性は霧散した。今、そこにいるのは、ただ傲慢だった弱い少女だけだ。
「全員、逃げなきゃ警察沙汰にする気はない。ただ、抵抗するなら、みんながただじゃおかないんじゃないかな?」
大樹は言葉に脅しを含ませる。茉希や一樹のようにはいかなくとも、今は穏やかではいられない気分だった。それでも、理性的であるのは一人ではないからだ。
その場にいる全員が星羅の味方であって、茉希の敵だ。本当は皆この場にいる全員を警察に引き渡したいと思っているだろう。あるいは自分の手で断罪したいに違いない。特に一樹が連れてきた久弥やその関係者達は不穏な空気を纏っている。
けれど、茉希はこれから罰を受けることになるだろう。大輝にも星羅が言った棘がはっきりと見えた気がした。
一樹の斜め後ろに立っている久弥にとっては、それでも足りないかもしれない。だが、非人道なことをすれば彼女達と同じところまで堕ちることになる。それを彼はよく分かっていることだろう。
「あああああぁぁぁぁぁぁつ!」
幼子のように大声を上げ、茉希はついに泣き崩れた。
茉希に従っていた男達は何かを諦めたように誰からともなくその場に座った。
「怖い思いをさせてごめん」
大輝はそっと星羅を覗き見た。目元は涙に濡れ、自分の体を抱くようにして小さく震えている。
彼女は気丈に対応しただろう。それでも、彼女は《魔女》である前に一人のか弱い少女だった。
大輝はゆっくりと星羅を抱き締める。決して彼女を壊してしまわないように優しく包み込むように。
その腕の中で彼女はそっと目を閉じた。今ならば安心していいのだとわかっていた。張り詰めていた糸が切れてしまった体は急激に休息を欲していた。迎え入れてくれるのは優しい世界だった。