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大輝が店を出て行った後で星羅の前にタオルが差し出された。
猫柄のそれは普段星羅が使っている物で、中でもお気に入りの品だ。見上げた先にいるのは店員ではなく、笑みを浮かべる美貌の青年である。
星羅は内心舌打ちをしたい気分だった。
肩まで届く蜂蜜色の髪、白く滑らかな肌、すらりと高い背に細身の体躯はしなやかそうで、一見すれば女性のようにも見える。
その笑みにどれだけの女性が虜になっただろうか。彼はわかっていてやるからこそ質が悪いのだ。自分の魅力を理解し、使いこなす魔性の男とでも言うべきなのかもしれない。彼は麻薬に似ている。
「こんにちは、リトル・ウィッチ」
多くの女性が自分の名を囁いて欲しいと願う声で、彼は穏やかに嫌みを吐き出す。
他人行儀だ。星羅は思う。
彼とはほんの数時間前に会ったところだが、それ以前の問題だ。毎日を合わせているというのに。
なぜ、まるで偶然の通りすがりのように装うのだろうか。
普段は許してもいないのに名前で呼びながら、外ではいつも《リトル・ウィッチ》とどこか含みを持たせて呼びかける。
困るわけではない。悲しいとも思わない。お互いに恋愛感情は一切ない。ただ単純に不愉快なのだ。彼が自分を嫌な気分にさせる方法を熟知していて、それを時折最大限に行使してくる。
「君に水難の相が出ていると教えたかったのだけど、遅かったみたいだね。師匠渾身のメイクが台無しだ」
クスクスと彼は笑う。遅いも何も彼は事前に防ぐ気はない。いつもそうだ。
わざわざ星羅の一番お気に入りのタオルを持ってくるあたり、嫌がらせとしか思えない。否、嫌がらせ以外の何物でもないのだろう。
甘いマスクで優しい声で囁きながら、穏やかに装いながら、彼は生まれながらのサディストだと断言できる。特に最近は妹弟子をいじめることを日々の日課としている。
「あなた、休憩時間にあたくしを笑いにきたのね?」
彼はカフェの人気ナンバー2だ。好き勝手にフラフラできるはずもない。こんなことのために労力を惜しまないとは趣味が悪いことだ。
「まさか、僕は君を助けたいと思ってる。本当だよ?」
嘘だ。星羅は思う。この男は見えにくい。けれど、大輝とは意味合いが異なる。だから、面倒だ。
「それに、行ってきていいって言ったのは師匠だよ?」
「でも、助けられないのなら、それはあたくしが助かる運命ではないということね」
助ける気がないというのはわかっている。たとえ、彼が助けようとしても無駄なのだろうが。
「さあ、一緒に帰ろうか」
結局、店員に詫びて、代金まで彼が支払ってくれた。
何を考えているのかわからない。彼には何の関係もないことだ。確かに彼は星羅よりもずっと稼いでいる。
星羅は学生だが、彼は社会人だ。当然と言えば当然だが、メリットはないだろう。見物料のつもりだろうか。
「今のままだと君はよくない方向へ行く。愛していないなら、あの男はやめた方がいい。今すぐに離れなきゃいけないよ」
普段は何かが見えたとしても結果が出るまでは絶対に教えてくれないくせに何のつもりなのだろうか。
「彼、あたくしと不幸を前提にお付き合いしたいと言ったの。だから、あたくし、不幸になるわ」
「幸せにならなきゃいけないなんて言うつもりはない。誰にだって約束されたものじゃない。でも、君は本当に真っ暗のままでいいの? その闇が振り払えるものだって言うのに、いつまでもこのままでいいの?」
愚問だ。いいに決まっている。纏う黒は暗闇を受け入れるための色だ。けれど、黒魔術には手を染めない。
彼にはわかるだろう。けれど、彼にはわからないだろう。
「それで彼が救われるならいいわ」
「馬鹿だね、君は。君にとって何にもならない。不幸なんて望んでなるものじゃない。今、彼と離れれば、少しは真っ暗じゃなくなるよ」
師匠にさえ説教をされたことはなかった。今のままでいいと言ってくれた。それなのに、彼は何のつもりなのだろうか。
「あなただって、黒い影が見えるわ」
それは漠然としたヴィジョンだ。彼がどれほど心に覆いをかけようと、不運の運命までは星羅の目から隠すことはできない。
「それは、君にも降りかかると予言するよ」
「なら、あたくしは、それを甘受するわ」
恐れはない。償いができるならば、いくらでも不幸になる。それが当然の報いだ。既にそれほどまでの大罪を犯してしまっている。
「星羅、みんな、危ないんだよ。もしかしたら、現代の魔女狩りが行われるかもしれない」
「魔女狩り?」
星羅は首を傾げる。子供を諭すように彼は言う。穏やかな声音で、けれど、緊張感を持って不穏なことを口にしている。
「隷属か、滅亡か」
「物騒じゃないの」
普段の会話で聞く言葉ではない。何者かが利用しようとしているということだろうか。
「いつの時代も魔女は生きにくいものだよ。当たってる内が華。不都合が生じれば気味悪がられて消される」
彼自身にも関わることだろうに、重みがない。
彼もまた破滅を受け入れる人間だ。星羅に見られることを嫌がって防護壁を作って、そのくせ他人のことは見たがる。助けもせずに傍観を決め込む。
「あたくし、悪女にだけはなりたくないわ」
茉希を思い出して星羅は呟いてみる。彼女の未来はおぞましいものだった。
「君はなれないよ、優しいリトル・ウィッチ」
思い知らせるように名を呼んでいたかと思えば、また嫌みに戻る。
そこで星羅はぷいっと顔を背けた。もう家は目の前だった。