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妊婦を助けて足を折られた俺。やり直した人生では、もう助けない

作者: 熾星
掲載日:2026/10/22


 前の人生で、俺は男たちに襲われていた妊婦を助けようとして、片脚を折られた。


 ところが翌朝、病院で目を覚ますと、SNSは俺への非難であふれていた。助けたはずの妊婦が、俺に抱えられて救急車を待つ写真を投稿し、介抱されている最中に体を触られたと訴えたのだ。


 会社を解雇され、自宅の住所までネットにさらされた。両親は執拗な嫌がらせを受け、身に覚えのない賠償金まで支払わされた。


 父は自ら命を絶ち、母は心を病んだ。


 俺も最後には、あの女が雇った男たちに殺された。


 殴られて意識が薄れていくなか、男たちが朔原市の南にある廃れたレンガ工場について話していたことを覚えている。その場所に何があるのか、確かめることはできなかった。


 次に目を開けたとき、俺はあの日の路地の前に立っていた。


 奥から、聞き覚えのある女の声がする。


「宮坂修也が来たら始めるのよ。あんたたちは私を襲うふりをすればいいんだから」


 慌ててスマホを取り出し、録音を始めた。


「いい? 修也が割って入ったら、まず男のほうを殴って。あとは私が何とかする。金が入ったら、約束どおりに分けるから」


 息を殺して、画面に表示された録音時間を確かめた。


 話しているのは篠原美咲。俺の彼女の親友だ。


 前の人生で、俺の家族を破滅させた女だった。


 路地の奥では、美咲が髪を乱し、腹を抱える姿勢を取っている。男たちも、それぞれの位置についた。


 あとは俺が駆けつけるのを待つだけだった。



1



 朔原市の古い商店街。その裏路地で、美咲は壁にもたれて座っていた。目の前には明るい茶髪の男が二人。一人は木の棒を持ち、もう一人は何度も路地の入り口を気にしている。


 俺は街灯の下で立ち尽くしていた。さっき聞こえた自分の名前も、目の前の光景も、はっきり覚えている。


 前の人生では、美咲の悲鳴が聞こえた途端、何も考えずに駆け込んだ。そのせいで脚の骨を折られ、介抱している写真まで悪用された。


「助けて! 誰か! お腹に赤ちゃんがいるの!」


 美咲が叫ぶと、男たちはゴミ箱を棒で叩き始めた。金属音が路地に響き、美咲は腹を抱えてうずくまる。乱れた髪の隙間から、何度もこちらをうかがっていた。


 俺は録音を保存し、110番した。場所と状況を伝え、棒を持った男が二人いることも説明する。通報を受けた警察官からは、自分で近づかず、安全なところにいるよう言われた。


 電話を終えたころ、美咲が俺を見つけた。


「修也! ねえ、聞こえてるんでしょ! 助けてよ!」


「警察を呼んだ! 無理に動くな!」


 美咲の表情がこわばった。すぐに男の一人へ目配せをし、そいつは木の棒を振り上げて、今にも殴りかかるような格好をする。


 そこへ、紺色のキャップをかぶった中年男が背後から近づいてきた。


「おい、何ぼさっと見てるんだよ! 妊婦さんが襲われてるんだぞ!」


 男は俺の腕をつかみ、路地へ押し込もうとした。


「中には棒を持った男が二人いる。もう警察には連絡した。あんたも勝手に入らないほうがいい」


「ぐずぐずしてたら手遅れになるだろ!」


 こいつの顔も覚えている。前の人生では、俺が美咲の体を触っていたと証言した男だ。


 腕を振りほどき、一歩下がった。


「もう触るな。今のことも警察に話すからな」


 男は舌打ちをして手を引っ込めたが、なおも悪態をつきながら俺のそばを離れようとしなかった。


 美咲はいら立った様子で男たちに何か言った。一人が慌てて足を振り上げる。腹の手前で止めるつもりだったのかもしれないが、その足はまともに美咲の腹へ当たった。


「ぎゃあっ!」


 悲鳴が響き、美咲はその場に崩れ落ちた。スカートの裾に血がにじみ、男たちも顔色を変える。


「美咲さん、違う! 本気で蹴るつもりじゃなかったんだ!」


 二人は棒を捨て、路地の反対側へ走っていった。


 追いかけるより先に119番する。妊婦が腹部を強く打たれて出血していると伝え、逃げた男たちの特徴と行き先も記録しておいた。


 美咲は地面に横たわったまま、俺をにらみつけていた。


 数分後、森川梨沙が駆け込んできた。


「美咲!」


 梨沙は美咲のそばに膝をつき、血に気づくと俺を振り返った。


「修也、そこにいたんでしょ? どうして助けなかったの! 赤ちゃんがいるんだよ!」


 梨沙とは三年付き合っている。ついさっきまで、商店街のカフェで待ち合わせる約束をしていた。それなのに、彼女は救急車よりも早く、この裏路地に現れた。


「警察も救急車も呼んだ。美咲を蹴ったのはあの男たちだ」


「でも、もっと早く止めてくれたら、こんなことにはならなかったでしょ!」


 それ以上は答えなかった。


 警察と救急隊が到着し、美咲は担架で運ばれた。俺は現場に残って警察官に事情を話し、保存していた録音を提出した。中年男に腕をつかまれたことも、逃げた二人の特徴も伝えておいた。


 救急車の扉が閉まる直前まで、美咲はこちらを見ていた。


 その目つきは、前の人生と少しも変わっていなかった。



2



 搬送先の病院で、医師から美咲は流産したと説明された。腹部のけがについては、今後も検査と治療が必要だという。


 梨沙は廊下の椅子に座り、ずっと泣いていた。美咲が病室に移されると、すぐに面会に行き、俺にも来るように言った。


 ベッドに横たわる美咲は顔色が悪かった。梨沙を見るなり、目から涙がこぼれる。


「梨沙、赤ちゃんが……。お医者さんには、しばらく様子を見ないとわからないって言われたけど、もう子供が産めなくなるかもしれない……」


「今は体のことだけ考えよう。まだ検査も終わってないんだから」


 美咲は首を振り、俺を見た。


「修也、何度も助けてって言ったよね。あのとき来てくれたら、赤ちゃんは無事だったかもしれないのに」


「蹴った男たちは警察が捜してる。俺は君に触れてないし、救急車も呼んだ」


「子供が死んだのよ! そんな言い方しなくてもいいじゃない!」


 梨沙が立ち上がった。


「修也、さっきから言い訳ばっかり! 美咲がこんなことになってるのに!」


 俺が答える前に、頬を叩かれた。


 鋭い痛みが走った。梨沙は振り上げた手をゆっくり下ろし、俺をにらんでいた。


 前の人生でも、梨沙は最初から美咲の話だけを信じた。こちらが何を言っても、子供を失った女性の気持ちを考えろと責め続けた。


「警察には事情を全部話した。賠償が必要だと思うなら、弁護士を通してくれ」


「これからの治療費はどうするの? 仕事だって、しばらくできないかもしれないんだよ!」


「蹴った男たちに請求すればいいだろ」


 病室の騒ぎに気づいた看護師がやって来て、声を落とすよう注意した。梨沙はまだ何か言いたそうだったが、美咲が泣き始めたのでベッドへ戻っていった。


 俺は病室を出た。


 病院の玄関を抜けたところで、三浦健吾弁護士に電話する。あの日に戻ってから、危険な相手に狙われていると相談していた人物だ。


 三浦は録音を聞いたあと、原本を消さず、編集したものをネットに公開しないよう念を押した。


「以前にも似た手口の被害があったという話でしたね。確認できそうな情報はありますか?」


「二年前、峰倉市で藤田という若い男性が八百万円を脅し取られ、橋から飛び降りた事件があったはずです」


「知り合いですか?」


「いえ。ただ、事件の話を聞いたことがあるんです。今どうしているのか、調べられませんか」


 三浦は公開情報を確認し、取材した記者や関係者に連絡できないか探すと言った。


 電話を切ってから、録音をもう一度確かめた。


 俺を待つよう男たちに指示する美咲の声も、金の分け方を話す声も、途切れることなく残っていた。



3



 翌朝、いつもどおり会社へ行くと、フロアの空気が妙だった。普段なら挨拶してくれる同僚が目をそらし、スマホを見ていた人も慌てて画面を伏せる。


 席に着いたところで、人事課長の小沢が上司を連れてきた。


「宮坂くん、ちょっと会議室まで来てくれるかな」


 会議室のテーブルには、自宅待機を命じる通知書が置かれていた。


「昨日の件、もうネットで広まってるんだよ。会社にも苦情が来てるし、取引先からも問い合わせがあった。ひとまず出勤は控えてもらいたい」


 小沢は別の書類を差し出す。


「もし自分から辞めるつもりなら、そっちの手続きもできるから」


 スマホで話題の投稿を開いた。投稿者は美咲だ。


 病室で撮った写真とともに、暴漢に襲われた際、知人の恋人に助けを求めたが見捨てられ、そのせいで赤ちゃんを失ったと書かれている。


 コメント欄には、俺を非難する言葉が並んでいた。


「妊婦さんが襲われてるのに、よく見ていられたね」


「こんな人を雇ってる会社って大丈夫なの?」


「家族にも知らせたほうがいいんじゃない?」


 勤務先も電話番号も、両親が住むマンションまで特定されていた。


 画面をスクロールする指が止まった。


 小沢が机を指で叩いた。


「状況はわかっただろう? 君がいるとほかの社員にも影響が出るんだ」


「警察が捜査しています。会社として、俺に事実確認はしないんですか?」


「宮坂くん、こっちも穏便に済ませようとしてるんだよ。自主退職にしておいたほうが、お互い面倒にならないだろ?」


 退職届を押し返した。


「その処分、何が理由なんですか。きちんと書面で出してください」


 小沢の顔が険しくなった。


「弁護士でも呼ぶつもりか?」


「必要なら相談します」


 その日は帰宅するよう命じられ、社内システムへのアクセスも止められた。私物をまとめ、会社を出る。


 ビルを出た直後、梨沙からLINEが届いた。


「明日までに美咲の治療費のこと、ちゃんと考えて。それができないなら、もう付き合っていられない」


 返信せず、通知を非表示にした。


 三浦からの電話では、会社の通知や雇用契約書、やり取りの記録をすべて保存するよう言われた。美咲の投稿についても、削除される前に必要な記録を確保しているという。


「藤田亮介さんの件も、少しわかりました。橋から飛び降りたのは事実ですが、救助されています。ただ、重い脊髄損傷が残ったようです」


「生きているんですね」


「ええ。お母さんは、その後、恐喝した相手を調べようとして行方不明になっています。当時取材した記者に連絡を取ってみます」


 通話を終えた直後、両親の隣の部屋に住む中村芳江さんから電話がかかってきた。


「修也くん、すぐ帰ってこられる? 知らない人たちがご両親の部屋の前で騒いでるの。警察にはもう電話したけど、お父さんが殴られたみたいで……」


 急いでタクシーを拾った。


 両親へ電話をかけ続けたが、どちらも出ない。マンションに着いたときには、入口に何人もの住人が集まっていた。



4



 エレベーターを降りると、廊下に女の怒鳴り声が響いていた。


「娘は赤ちゃんを亡くしたのよ! 三千万円払うまで帰らないから!」


 美咲は両親と親戚らしい男たちを連れてきていた。父は玄関の前に立ち、大柄な男に肩をつかまれている。母は床に座り込み、頬に赤い跡が残っていた。


 梨沙も美咲の隣にいた。


「父さんから手を離せ!」


 男を押しのけると、そいつはよろめきながら俺を指さした。


「お前が美咲さんの子供を殺したんだろ!」


 両親の前に立ち、スマホを取り出した。


「防犯カメラに映ってるはずだ。警察も来るから、誰が何をしたか、そこで話してもらう」


 美咲の母親、篠原和子が詰め寄ってきた。


「警察を呼んだの? ふざけないで! 被害に遭ったのはこっちなのよ! 娘がこれからどうなるかわからないのに、三千万でも足りないくらいよ!」


 父が肩を押さえながら言った。


「そんな大金、うちにはありませんよ。それに、蹴ったのは修也じゃないんでしょう?」


 美咲の父親、隆夫が鼻で笑う。


「ないなら家を売れ! 娘は子供を失ったんだぞ。そっちは今までどおり暮らせると思ってるのか!」


 母は泣きながら何度も謝っていた。言い争いが激しくなると、玄関の脇にあった果物ナイフをつかみ、自分の命で償うからもう息子を責めないでほしいと叫んだ。


 すぐに母の手を押さえ、ナイフを取り上げた。


「母さん、もういい。父さんと中に入ってて。あとは俺が話す」


 父が母を支えて室内へ戻る。


 梨沙が俺の前に立った。


「修也、どうしてそこまで大ごとにするの? 美咲は十分傷ついてるんだよ。少しでも払って、ちゃんと話し合おうよ」


「母さんの顔、見た?」


 梨沙は目をそらした。


「さっきはみんな、興奮してたから……」


「それで殴ってもいいのか?」


 梨沙は黙り込んだ。


 ちょうどそのとき、エレベーターから警察官が二人とマンションの管理人が出てきた。


「通報があったんですが、どういう状況ですか?」


「俺の両親の部屋の前で、大勢に金を要求されて、暴力も振るわれています。中村さんが通報してくれました。インターホンと廊下の防犯カメラに記録が残っていると思います」


 美咲が泣きながら、自分こそ被害者だと訴えた。警察官は双方を離し、それぞれ事情を聞き始める。


 美咲の話がひと段落したところで、スマホを取り出した。


「もう一件、話があります。篠原美咲とその周囲の人たちが、以前から同じような手口で金を脅し取っていた可能性があります。失踪事件との関係も調べてほしいんです」


「修也! 何を言い出すのよ!」


 美咲の声を聞き流し、路地で録音した音声を提出した。


 少し遅れて三浦も到着した。過去の報道記事や被害者から提供された資料、関係者の写真をまとめたファイルを警察官に見せる。


「複数の地域で似た事案が起きています。人助けをしようとした男性が撮影され、後から性的な迷惑行為をしたと責められたり、示談金を要求されたりしています。すでに二名の方が、事情を説明してもいいとおっしゃっています」


 俺も知っていることを伝えた。


「二年前、藤田亮介という男性が八百万円を脅し取られ、橋から飛び降りました。命は助かりましたが、重い後遺症が残っています。そのお母さんは、相手を調べようとしてから行方がわからなくなりました」


 梨沙が美咲を振り返った。


「美咲……それ、本当なの?」


「嘘に決まってるでしょ! 修也が私を陥れようとしてるの!」


 最後に、住所を書いた紙を警察官へ渡した。


「朔原市の南側にある、廃業したレンガ工場です。裏手の空き地に、失踪事件に関係するものが隠されているかもしれません」


 美咲がこちらへ飛びかかり、書類を奪おうとした。


 警察官がすぐに制止する。


「篠原さん、落ち着いてください」


 美咲は叫び続けていたが、俺とは目を合わせなかった。


 年配の警察官が資料をまとめた。


「情報は刑事課へ引き継ぎます。現場を調べるかどうかは、内容を確認したうえで判断します」


 俺はうなずいた。


 美咲は母親に腕をつかまれたまま、何度もこちらを振り返っていた。



5



 警察官は廊下に集まっていた人たちから、順番に事情を聞いた。


 美咲は相変わらず、自分こそ被害者だと泣き続けていた。俺は言い返さず、録音とSNSの投稿記録を提出した。


 三浦からも、旧事件の資料が渡された。


 過去の被害者の一人は、自分を脅した男が、昨日キャップをかぶって俺を路地へ押し込もうとした人物によく似ていると話していた。


 その男の名前は片桮信夫。以前は警備会社で臨時の仕事をしていて、美咲の元夫とも金銭のやり取りがあったらしい。


 警察は、美咲の家族が三千万円を要求した経緯や、両親に暴力を振るった人物についても記録を取った。


 美咲が帰るとき、俺の横を通り過ぎながら小さく言った。


「あんた、どこまで調べたの?」


「レンガ工場の跡地、先月から工事が始まってるんだってな。何か出てこないといいな」


 美咲は顔色を変え、母親に腕を引かれてエレベーターへ向かった。


 人がいなくなってから、両親の部屋へ戻る。


 父は肩を押さえたままソファに座り、母は湯飲みを持つ手がまだ震えていた。


「修也、さっきの話……本当なの?」


 美咲たちが事前に相談していた録音を再生した。俺を呼び込んで金を取ろうとしていたことがわかると、母は顔を覆って泣き始めた。


 父は何度か聞き直したあと、静かにスマホを返してきた。


「俺たちも、お前が何かしたんじゃないかと思ってた」


「父さん、また誰かが金を要求しに来ても、払わないで。すぐ警察を呼んでくれ」


 父は深くうなずいた。


 しばらく二人についていて、落ち着いたのを確かめてからマンションを出た。


 入口の外には梨沙が待っていた。


「修也、さっきの話、どこまで本当なの? 美咲が人を騙してたなんて……」


「今になって聞くんだ?」


 梨沙は唇を噛み、半歩下がった。


「知らなかったの……。美咲のこと、ずっと信じてたから」


「でも、俺の話は聞いてくれなかったよね」


 梨沙は答えず、うつむいた。少しして顔を上げたとき、目が赤くなっていた。


「修也、ちゃんと話そう? ねえ、お願い」


「もういい。別れよう」


 梨沙は慌てて俺の手をつかんだ。


「そんなの嫌! 三年も付き合ってきたんだよ? 美咲に騙されてただけなのに!」


 手を離させた。


「美咲の投稿を拡散したのも、俺に金を払えと言ったのも梨沙だろ。今日だって、あの人たちと一緒に来た」


「ごめん……本当にごめん。もう一度だけ、お願い」


 俺は首を振って歩き出した。


 夜遅く、三浦から連絡が届いた。警察が工場跡地の施工業者に接触し、現場の状況を確認しているという。


 午前二時、地元のニュースサイトに短い記事が載った。


 朔原市南部の旧工業用地で、人骨とみられるものが発見され、警察が現場を封鎖したという内容だった。記事には、草が伸びた空き地の写真が載っている。


 前の人生で、俺を殺した連中が酔って口にした場所だ。


 画面を消しても、その写真が頭から離れなかった。



6



 翌朝には、旧レンガ工場のニュースが各局で報じられていた。


 昨夜の地元記事では、見つかったものが人骨かどうかもわかっていなかった。朝の報道では、警察が現場の調査を始め、過去の失踪事件との関連も確認していると伝えられていた。


 俺は三浦に連絡し、警察から確認を求められた場合は協力すると伝えた。


 それから二日後、会社から正式な解雇通知が届いた。理由は、ネット上の騒動によって会社の信用を大きく損なったというものだった。


 通知書をスキャンして三浦へ送ると、すぐに返事が来た。


「退職届に署名しなくて正解でした。解雇理由も含めて、こちらで確認します」


 俺は必要な書類をまとめ、三浦に任せることにした。


 美咲たちに関わる過去の事件も、改めて調べられ始めていた。


 朔原署では、佐藤修司刑事から追加の事情聴取を受けた。佐藤刑事は工場の住所を知った経緯や、美咲がその話にどう反応したかを細かく確認した。


「宮坂さん、どうしてあの場所が気になったんですか?」


「以前、失踪事件と関係があるかもしれないという話を聞いたことがあります。ただ、自分で見たわけではありません」


 佐藤刑事は記録を取り、顔を上げた。


「わかりました。ほかに思い出したことがあれば、直接連絡してください。現場の捜査状況については、今はお話しできません」


 署を出てから、三浦に電話する。藤田亮介は現在もリハビリ施設で療養しており、母親は息子の被害を調べている最中に消息を絶ったと、改めて確認できたそうだ。


 数日後、警察は工場跡から複数人の遺骨が見つかったことを正式に公表した。


 それをきっかけに、美咲への風向きが変わり始めた。


 以前の被害者たちがSNSで当時のことを語り、送金記録や脅迫メッセージを公開する人も現れた。片桐の写真を見て、見覚えがあると申し出た人までいた。


 俺を非難していたアカウントの多くは、いつの間にか投稿を削除していた。


 以前、俺を激しく批判していた「正義は必ず勝つ」というアカウントが、今度は謝罪の長文を投稿した。


 見出しは「宮坂修也さんに謝りたい」。


 返信欄にも、早まって責めたことを詫びる言葉が並んでいた。


 俺は投稿を閉じ、三浦から届いた書類に目を戻した。


 午後、以前の上司から電話があった。


「宮坂、前の件は会社もちょっと判断を急ぎすぎたと思ってる。事情もだいぶわかってきたし、戻ってこないか? 待遇も相談できる」


「解雇通知は撤回したんですか?」


「それは人事と調整しないといけないけど、先に復帰してくれれば……」


「戻るつもりはありません。解雇の件は弁護士に任せています」


 上司はまだ説得しようとしたが、電話を切った。


 夕方、再び警察署へ向かった。佐藤刑事によると、片桐たちへの捜査が進み、過去の事件についても関係者から話を聞いているという。


「宮坂さんの録音は重要な資料になっています。ただ、失踪した人たち全員に篠原が関わっていたかどうかは、まだわかりません」


「藤田さんは?」


「連絡が取れています。当時の脅迫メッセージも提供してくれるそうです。お母さんの件は、引き続き調べています」


 帰り道、梨沙から知らない番号でメッセージが届いた。


「修也、お母さんが、私の悪口を書いてる投稿を消せないか聞いてほしいって。みんな私まで共犯みたいに言うの。本当に騙されてただけなのに」


 返事をせず、その番号も着信拒否にした。


 駅に着く少し前、三浦から電話があった。


「宮坂さん、ひとつ気になる情報が出てきました。篠原は事件を起こす土地ごとに、金を取れそうな人を紹介してもらっていたようなんです」


「朔原市では、誰が?」


「以前の被害者から聞いた話を確認しているところですが、気になる名前が一つあります」


 三浦は少し言いよどんだ。


「森川佳代子さんです」


 梨沙の母親だった。



7



 森川佳代子。


 その名前を聞いて、これまでのことが頭に浮かんだ。


 梨沙と付き合い始めてから、佳代子さんには何度も世話になっていた。正月には贈り物をくれたし、冬にはマフラーを編んでくれたこともある。会うたびに仕事や給料、家を買う予定があるかどうかを聞かれた。


 当時は、娘の結婚相手になるかもしれない俺を気にかけてくれているのだと思っていた。


 けれど俺の勤務先も収入も、両親の住まいも、あの人はよく知っている。


 半年前、美咲が梨沙と頻繁に会うようになった。昔からの友人と久しぶりに連絡を取り合うようになったのだと、梨沙は話していた。


 翌日、佐藤刑事に連絡して、佳代子さんとの付き合いについて説明した。


「森川佳代子さんと篠原美咲さんの関係については、現在捜査を進めています。宮坂さんにも、いくつか確認したいことがあります」


 そう言われ、昔のLINEを探した。佳代子さんから仕事や収入について尋ねられた会話と、事件当日に梨沙が指定してきた待ち合わせ場所をまとめて提出した。


 それから一か月の間に、工場跡地から見つかった遺骨の身元が次々と判明した。


 警察が確認した遺体は八人。そのうち何人かは、かつて恐喝被害に遭った人や、その家族だったと報道された。


 片桐や路地にいた二人を含む、美咲の周辺人物も次々に逮捕された。脅迫や暴力に関わった別の男たちも調べられ、美咲の両親には犯罪で得た金を隠した疑いや、証拠を処分した疑いがかけられた。


 美咲が八人全員の死に関わったと決まったわけではない。報道でも、それぞれの死亡事件について捜査が続いていると伝えていた。


 各地の事件が報じられるにつれ、美咲の過去の投稿を疑う声も増えていった。


 ネットでは、かつて俺を叩いていた人たちが、今度は美咲を激しく非難していた。


 ある午後、警察署で追加の確認を受けた。佐藤刑事から尋ねられたのは、事件当日の梨沙の行動だった。


「待ち合わせ場所を決めたのは、森川梨沙さんで間違いありませんね?」


「はい。LINEも残っています」


「篠原さんとは、当日どんな連絡を取っていたかご存じですか?」


「わかりません。俺には連絡してきませんでした」


 帰宅してから、梨沙の送ってきたメッセージを開き直した。


 商店街のカフェの名前。待ち合わせの時刻。俺が何時ごろ着きそうかという質問。


 どれもあの日のままだった。


 夕方、梨沙から電話がかかってきた。また新しい番号だった。


「修也、今日、警察が来たの。私まで詐欺に関わってるんじゃないかって……。美咲があんなにたくさんの人を騙してたなんて、知らなかったの!」


 俺は黙って聞いていた。


「美咲がお金に困ってたのは知ってた。でも、あんなことするなんて……」


「俺をあそこに呼び出したのは、梨沙だよね」


「お母さんに頼まれたの。少し話を聞いてもらうだけだって……。修也、お願い。警察にもそう言ってくれない?」


「美咲が俺に金を出させたがってるのは、知ってたんだな?」


 しばらく返事がなかった。


「……少しくらいなら助けてくれると思ったの。修也はちゃんと働いてるし、お母さんもそう言ってたから」


「だから、あの路地の近くに俺を呼んだのか」


 梨沙は否定しなかった。


 付き合い始めたころ、彼女と結婚することも考えていた。仕事帰りに待ち合わせて食事をしたことも、休みの日に一緒に出かけたことも覚えている。


 梨沙は、美咲が俺に金を出させたがっていると知りながら、あの場所に呼び出した。


「警察には、知ってることを自分で話して。もう連絡しないでくれ」


 通話を終え、履歴とメッセージを三浦へ送った。


 数日後、佳代子さんが詐欺への関与を疑われて調べられていることが報じられた。梨沙についても、位置情報の提供や金銭要求への関わりが捜査の対象になっていた。


 その夜は両親の家で夕食を食べた。


 父が焼き魚を俺の皿に取り分け、ぽつりと言った。


「修也、俺は今まで、面倒なことには関わるな、少しくらい我慢しろって言ってきたよな。今回は、そんなことを言って悪かった」


 母もうなずいた。


「何かあったら、ちゃんと話してね。家族なんだから」


「うん。そうする」


 食後、母と一緒に皿を洗った。父は残った料理を保存容器に移している。


 外で自転車のベルが鳴った。


 窓のほうを見てから、最後の皿の水気を拭き取った。



8



 数か月後、検察は美咲とその仲間たちを相次いで起訴した。


 旧レンガ工場で見つかった八人の遺体をめぐって、各地の詐欺や恐喝、監禁、殺人事件が調べ直されていた。捜査は長引き、被害者と関係者の数も増えていった。


 美咲は、自分は相手を探していただけで、その後に何が起きたか知らなかったと主張しているらしい。


 だが、起訴後の報道には、被害者から金を受け取った経緯や、仲間との通話記録についても書かれていた。


 藤田亮介の母親の事件にも進展があった。


 報道によると、彼女は息子を脅した相手を調べているうちに、関係者に連れ去られたとみられている。旧レンガ工場で見つかった遺骨の中から、彼女の身元が確認されたという。


 そのニュースを見たのは、スーパーで夕食の材料を選んでいるときだった。


 画面には、若いころの彼女の写真が載っていた。穏やかに笑っている。


 藤田亮介は、脅迫から逃れようとして橋から飛び降りた。命は助かったものの、重い障害が残った。母親は息子に何が起きたのか知ろうとして、帰らぬ人となった。


 俺はニュースを閉じ、買い物を済ませて家に帰った。


 しばらくして、三浦から佳代子さんと梨沙の事件について連絡があった。


 佳代子さんは以前から美咲に金を取れそうな相手を紹介し、手に入れた金の一部を受け取っていた疑いが強まっているという。今回、美咲に俺を紹介したのも佳代子さんだった。


 梨沙は、自分が俺を商店街へ呼び出し、居場所を美咲へ送ったことを認めていた。ただ、暴力を使う計画や過去の殺人については知らなかったと主張している。


 警察は、事件後に梨沙が投稿を拡散し、俺に賠償を求めた経緯も調べていた。


 俺に関係する資料は、三浦へまとめて渡した。


 その夜、梨沙からまたメッセージが届いた。


「修也、お願い。助けて。美咲が殺人までしてたなんて本当に知らなかったの。三年も付き合ったんだから、私が捕まるのを黙って見てないでよ……」


 最後まで読んでから、スマホを伏せた。


 後日、佳代子さんと梨沙はそれぞれの詐欺への関与について起訴された。美咲の両親も、犯罪で得た金を隠したことや恐喝などについて責任を問われることになった。


 SNSには、梨沙は母親と親友に利用されただけだという意見もあった。一方で、事件後の梨沙の行動を問題にする声も多かった。


 さらに一か月ほどたったころ、美咲の事件について証人として出廷するよう通知が届いた。


 路地での録音、110番の記録、片桐に腕をつかまれた経緯を記した供述調書、美咲の投稿。必要なものはすでに警察に提出してある。


 出廷する前夜、両親の家へ行った。


 母は味噌汁を作り、父は炊きたてのご飯をよそった。三人で夕食を済ませ、いつもどおり後片づけを手伝った。


 帰り際、父が玄関まで送ってくれた。


「聞かれたことに、知ってるとおり答えてこい」


「うん」


 翌朝、濃い色のスーツを着て裁判所へ向かった。



9



 朔原地方裁判所の前には、何人もの記者が集まっていた。


 職員の案内で証人用の控室へ通され、名前を呼ばれるまで待った。法廷に入ったとき、美咲の姿が目に入った。頬がこけ、被告人席でうつむいている。


 病室で泣きながら俺を責めていたときとは、まるで違う姿だった。


 証人尋問が始まる前に、これまでの審理で示された主な争点について、三浦から説明を受けていた。


 美咲とその仲間たちは、複数の詐欺や恐喝、暴力事件に関わったとして裁判にかけられている。そのなかには、被害者が死亡した事件も含まれていた。


 弁護側は、殺人事件の一部はほかの仲間が起こしたもので、美咲自身は直接手を下していないと主張していた。


 検察側が提出した証拠には、送金記録や脅迫メッセージ、関係者同士の通話記録があった。被害者に金を要求し、断られたあとで何が起きたのか、事件ごとに審理が続いていた。


 美咲と親族の通話を録音したものも、その一つだった。


 相手の男が、以前の事件を調べ回っている年配の女性について相談している。


 美咲はこう言っていたという。


「また来るなら、もう黙らせてよ。あの人の名前、二度と聞きたくないんだけど」


 検察側は、その通話が藤田亮介の母親の失踪とどう関係するのか、ほかの証拠とあわせて主張していた。


 俺の証人尋問が始まった。


 あの日、美咲と男たちが金の分け方を相談していたこと。片桐が俺を路地へ押し込もうとしたこと。男の一人が美咲の腹を蹴り、その後二人で逃げたことを、覚えている順に話した。


 弁護人から質問された。


「あなたは妊婦が危険な目に遭っているとわかっていたのに、どうして助けに入らなかったのですか?」


「棒を持った男が二人いたので、警察に通報しました。直前に彼らの話を聞いていたため、仕組まれた騒ぎではないかと考えていました」


「以前から篠原さんをよく思っていなかった、ということはありませんか?」


「以前から知っている人でした。でも、金を脅し取る相談をしているのを聞くまで、そんなことをする人だとは知りませんでした」


 尋問が終わると、職員の案内で法廷を出た。


 裁判はその日で終わらなかった。被告人も事件も多く、審理はその後も続いた。


 同じころ、佳代子さんと梨沙の裁判も進んでいた。


 佳代子さんは詐欺への関与や犯罪収益の扱いなどについて、懲役八年の判決を受けた。梨沙も、詐欺に加わったと認定された行為について、懲役四年を言い渡された。


 美咲の父親は恐喝などの罪で懲役七年、母親も関係する犯罪で懲役六年となった。


 ほかの仲間たちにも、関わった事件ごとに判決が出されていった。


 さらに時間がたち、美咲たち主要被告の一審判決が言い渡された。


 裁判所は、複数の重大犯罪への関与を認め、美咲に死刑を言い渡した。殺人事件で中心的な役割を果たした別の共犯者にも、同じ判決が下された。


 そのほかの関係者には、長期の懲役刑などが科された。


 弁護側は控訴したため、判決はまだ確定していない。


 ニュースで判決を知ったあと、三浦と会って今後の手続きについて説明を受けた。


「ほかに何か必要なことはありますか、宮坂さん」


「今は大丈夫です。ありがとうございました、三浦先生」


「また協力をお願いすることがあれば、連絡します」


 事務所を出たところで、スマホに知らせが届いた。


 梨沙が弁護士を通じて、俺に手紙を渡したがっているらしい。受け取る意思があるか、確認したいという内容だった。


 断りの返事を送った。


 帰り道、母から電話がかかってきた。


「修也、判決は出たの?」


「一審は終わったよ。でも、まだ控訴がある」


「そう。今日は早めに帰っておいで。夕飯、作ってあるから」


「わかった」


 母は、父が魚を買ってきたと言った。


 それから、味噌汁の具は何がいいかと聞いてきた。


「豆腐がいいな」


「わかった。気をつけて帰ってきてね」


 電話を切り、駅へ向かった。



10



 会社との労働問題は、刑事裁判より早く決着していた。


 会社はネット上の騒動で信用を失ったことを解雇理由にしていたが、美咲たちの録音や捜査の進展によって、その説明は通りにくくなっていた。


 三浦に依頼して労働審判を申し立て、最終的に会社側と和解した。解雇後の賃金相当額などを含め、支払われる金額は合計二百二十万円になった。


 人事からは復職の話も来た。


「宮坂さん、会社としては、もう一度あなたの待遇を検討したいと考えています。前の処分についても、会社で改めて対応しますので」


「復職するつもりはありません。今後の手続きは弁護士にお願いします」


 そのまま退職することにした。


 しばらく休んだあと、履歴書と職務経歴書を書き直した。貯金も和解金もあったので、焦って仕事を決める必要はなかった。


 以前から興味のあった会社を何社か選び、応募した。


 二週間目には面接の連絡が来た。


 灯山市にある企業向けシステム開発会社だった。人事担当者は俺の名前に見覚えがあるようだったが、事件については仕事への影響がないかを簡単に確認しただけだった。


 技術部門の責任者からは、以前手がけたシステムや障害対応について詳しく聞かれた。


 俺は用意してきた資料を使い、改修時に工夫したことや、顧客との調整で苦労した点を説明した。


 面接の終わりに、責任者が言った。


「宮坂さんの経験は、今うちが必要としている仕事とかなり近いですね。入社していただけるなら、設計の段階から参加してほしいです」


 数日後、採用の連絡が届いた。


 給与は前の会社より四割ほど高くなり、希望していた仕事にも携われることになった。


 初出勤の日は少し早めに会社へ行き、同僚たちに挨拶した。部署の会議に参加し、新しい案件の資料を受け取る。


 会議では、担当するシステムの仕様や今後の予定について話し合った。


 仕事を終えたあと、両親を食事に誘った。


 母は以前より顔色がよくなっていた。父は相変わらず口数が少ないが、俺の好きな料理を見つけるたびに皿をこちらへ寄せてくる。


 食事の途中、母が言った。


「修也、これからは何かあったら、一人で抱え込まないでね」


「うん。わかった」


 食べ終えてから、二人をマンションまで送った。


 入口で中村さんと会う。


「あら、修也くん。新しい仕事が決まったんですって? よかったわね」


「ありがとうございます」


 中村さんは少し迷ったあと、声を落とした。


「この前ね、森川さんのところから連絡があって。梨沙さんが、あなたに一度会いたいって言ってるらしいの」


「会いません」


「そうよね。うん、わかった。今の生活を大事にしてね」


 中村さんはそれ以上何も言わず、買い物袋を持ってエレベーターへ向かった。


 俺も自分の部屋に帰った。


 机には新しい会社の資料と、読みかけの小説が置いてある。窓の外では朔原市の夜景が広がり、遠くを走る電車の振動がかすかに伝わってきた。


 スマホの画面が明るくなった。


 美咲たちの控訴審について、新たな動きがあったというニュースだった。


 二、三行読んでから、スマホを伏せた。


 明日は仕事がある。週末には両親と新しい洗濯機を見に行く約束をしているし、来月は参加したかった案件も始まる。


 椅子を引き、机に向かった。


 窓から風が入り、カーテンが静かに揺れる。


 しおりを挟んでおいたページを開き、続きを読むことにした。






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