あなたは今、どうしていますか
あの頃、好きだった人は、今どうしているだろう。
中学一年生の頃に好きになった、二つ上の先輩。
初めは、ただ不思議だった。
廊下ですれ違うたびに、目が合う。
一度だけなら、偶然だと思った。
でも、二度、三度と続くと、さすがに気になった。
――なんで、この人と毎回目が合うんだろう。
先輩も、こっちを見ている。
けれど、話しかけてくるわけでもない。
私も、もちろん話しかけられなかった。
中学一年生になったばかりの私は、好きな人に声をかけるなんて、恥ずかしくてできなかった。
ただ、目が合う。
それだけだった。
それなのに、いつからか、先輩と目が合うたびに胸が高鳴るようになった。
休み時間になると、用もないのに廊下を歩いた。
先輩がいるかもしれないと思って。
見つけると、それだけで嬉しかった。
先輩の視界に入っている。
それだけで、十分だった。
いつの間にか私は、廊下ですれ違うその人のことを、好きになっていた。
そして、秋になった。
いつも見つめていただけの私が、思い切って先輩に告白した。
中学一年生の私にとって、それはとても大きな勇気だった。
けれど、その時、先輩から返事はなかった。
数日が過ぎた。
そして、ある日の放課後。
先輩が、私を待っていた。
廊下で不意に目が合った。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
驚きと恥ずかしさで、どうしていいのかわからなくなった。
私は、その場から逃げた。
少しして、ようやく冷静になった。
――何してるんだろう、私。
そう思って、急いで戻った。
けれど、もうそこに先輩の姿はなかった。
私は学校の窓から外を見た。
少し離れたところを、先輩が一人で歩いていた。
帰っていく後ろ姿。
小さくなっていく背中。
私は窓に近づいた。
「先輩……」
声にはならないくらい、小さく呟いた。
気づいてほしくて、窓をそっと叩いた。
けれど、先輩は気づかなかった。
そのまま歩いていってしまった。
私は、追いかけることもできなかった。
ただ、窓から先輩の後ろ姿を見つめていた。
今でも思う。
あの時、私が逃げなければ。
あの場にちゃんと残っていたら。
先輩は、私にどんな返事をしてくれたんだろう。
その後も、先輩とは変わらず目が合った。
廊下ですれ違えば、目が合う。
遠くにいても、目が合う。
でも、やっぱり話すことはなかった。
先輩は、どんな気持ちで私を見ていたんだろう。
私だけが好きだったのだろうか。
それとも――。
答えがわからないまま、時間だけが過ぎていった。
私は、ずっと先輩が好きだった。
ろくに話したこともない。
ただ、目が合う。
それだけ。
それだけなのに、一年間ずっと、好きだった。
そして、卒業式の日が来た。
今日で最後。
先輩が、この学校からいなくなる。
何も進展しないまま、この恋も終わってしまう。
そう思うと、寂しかった。
悲しかった。
もう、先輩に会えなくなる。
そんなことを考えていた時だった。
教室の前が、少し騒がしくなった。
顔を上げる。
そこに、先輩がいた。
一年生の教室まで、来てくれていた。
そして――
「ゆき」
名前を呼ばれた。
先輩に名前を呼ばれたのは、初めてだった。
胸が、ぎゅっとなる。
周りの同級生たちも、ざわついている。
先輩は少し恥ずかしそうにしていた。
そして、一枚の手紙を差し出した。
「これ、読んで」
手紙。
先輩から。
受け取る手が震えた。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
先輩は、それ以上何も言わず、その場を去っていった。
教室に戻って、手紙を開いた。
先輩の字を見るのは、初めてだった。
そこには、こう書かれていた。
『学校では話せなかったけど、電話とかしてきていいからね。
卒業しても、ゆきに会いにくるからね。』
何度も、その文字を読み返した。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
好き。
やっぱり、好きだ。
そう思った。
卒業しても、また会える。
その時の私は、そう思っていた。
そして、先輩が卒業してから、一度だけ会いに来てくれたことがあった。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
なのに私は、また恥ずかしくなって、その場から逃げてしまった。
どうして、あの時逃げたんだろう。
どうして、もっと話せなかったんだろう。
どうして――。
それっきりだった。
先輩とは、二度と会うことはなかった。
あれから、何十年も経った。
私は今でも、あの日にもらった手紙を持っている。
何度も読み返したせいで、少しくたびれた手紙。
それでも、捨てることはできない。
時々、無性に読みたくなることがある。
あの頃の私に戻りたくて。
先輩が本当にそこにいたことを、確かめたくて。
封筒からそっと手紙を取り出す。
そして、何度も読んだ文字を目で追う。
『学校では話せなかったけど、電話とかしてきていいからね。
卒業しても、ゆきに会いにくるからね。』
あの頃は、この言葉が嬉しかった。
卒業しても、また会える。
そう思った。
この先も、先輩と繋がっていられる。
そんな気がした。
けれど、今は違う。
この言葉を読むと、胸が苦しくなる。
会いに来ると言ってくれた人は、もうどこにいるのかも分からない。
電話をすることもできない。
会いたいと思っても、会う方法がない。
あの頃の私は、こんな未来になるなんて知らなかった。
あの一枚の手紙に書かれた言葉が、今の私には、もう叶わない約束のように感じられることがある。
それでも、捨てられない。
苦しくなるのに、時々読み返してしまう。
だって、この手紙だけは、あの頃の先輩が確かに私の前にいた証だから。
「ゆき」と呼んでくれたこと。
私を待っていてくれたこと。
会いに来てくれたこと。
私が先輩を好きだったこと。
全部、この一枚の手紙の中に残っている気がする。
だから、大切。
苦しいのに、大切。
今でも、夢に出てくる。
夢の中で私は、あの頃と同じように先輩を探している。
先輩を見つける。
嬉しくなる。
そして、目が合う。
けれど、夢の中でも私は、先輩を見つめているだけだ。
話しかけられない。
近づけない。
あの頃の私のまま。
夢の中でさえ、私は先輩と話せない。
ただ、見つめているだけ。
だけど夢の中の私は、先輩に会えて、嬉しくて笑っている。
笑っているんだ。
そして目が覚める。
隣に先輩はいない。
もう会うことはできない。
会いたくても、会えない。
連絡する手段もない。
夢の中でしか、会えない。
その現実が、目覚めたばかりの静かな時間に、胸へ落ちてくる。
どうにもならない現実が苦しくなる。
夢では笑っていたのに、目が覚めると涙が出る。
もし、あの時。
私がもう少し大人だったら。
もう少し勇気があったら。
先輩と、もっと話せただろうか。
あの時、逃げなかったら。
あの手紙をもらったあと、電話をしていたら。
先輩が会いに来てくれた時、逃げずにその場にいたら。
私たちは、何か違う未来を歩いていたのだろうか。
あの手紙に、「好き」とは書かれていなかった。
だから今でも、わからない。
先輩は、あの頃、私のことをどう思っていたんだろう。
何度も目が合ったこと。
放課後、待っていてくれたこと。
卒業の日、わざわざ一年生の教室まで来てくれたこと。
私の名前を呼んでくれたこと。
そして、卒業しても会いにくると言ってくれたこと。
あれは、何だったんだろう。
答えを知ることは、もうできない。
それでも、一度でいい。
もう一度だけ、会ってみたい。
一度でいいから、あの頃のように――
私の名前を呼んでほしい。
あの頃、好きだった人。
あなたは今、どうしていますか。
私の事を覚えていますか。




