閑話 光のない場所
前の世界の空は、いつも鈍い灰色だった。
父親の顔は知らない。写真も、名前も、いないのと同じだった。
残ったのは、痩せた母と、腹の底まで冷えるような貧しさと、たまに笑う母の横顔。
――たまに、だ。
母はいつからか「薬」を覚えた。
最初は咳止めだの、眠れるだけだの、そんな言い訳だった。次に、仕事がつらい、体が痛い、世界が重い、そういう言葉が増えた。
そして最後は、何も言わなくなった。
吐き気と汗の臭い。痩せていく頬。指先の震え。
子どもだった俺は、どうして人が壊れていくのかを、医者より先に知った。
「なんで……」
答えなんてない。
あるのは、売る奴がいて、買わせる奴がいて、使った人間が壊れるという、あまりに単純な仕組みだけだ。
母は死んだ。
死ぬ前に「ごめんね」と言ったかどうかは、覚えていない。
覚えているのは、俺が泣けなかったことと、胸の奥に生まれた黒い穴だけだ。
――ああ。こういうのを、地獄って言うんだな。
そこから先の俺は、早かった。
働く場所も、学ぶ場所も、祈る場所もなかった。
残った手段は二つだけ。飢えるか、奪うか。
俺は奪う方を選んだ。
薬を捌いていた連中を見つけて、追い詰めて、始末した。
正義でも善でもない。
ただ、あの黒い穴に向かって、怒りを投げつけていただけだ。
そんな俺を拾ったのは、殺し屋だった。
「向いてる。……生きたいなら、覚えろ」
銃の握り方、刃の入れ方、逃げ道の作り方。
殺しは技術だと教えられた。
気持ちでやれば死ぬ。恐怖でやれば失敗する。淡々とやれ――そういう世界。
俺は淡々と覚えた。
そして、派手にやりすぎた。
組織を潰せば恨みが積もる。積もった恨みは、いつか刃になる。
結局、俺は“向いてる”世界で、向いてるように死んだ。
最後に見えたのは、路地の灯りと、濡れたアスファルトの反射。
――くだらねえ。
それが、俺の人生の総評だった。
唯一の趣味があった。
夜、安い端末で読む異世界転生の小説。
馬鹿みたいに優しい世界。やり直しがあって、仲間がいて、努力が報われて、誰かが手を差し伸べる。
現実には一行も存在しない“希望”を、文字の中だけで吸った。
だから、死んだあとに目を開けたとき。
「……は?」
乾いた笑いが出た。
スラムだった。
匂いも、音も、空気も、覚えがある。
違うのは言葉と通貨と空の色くらいで、やってることは同じ。
転生しても、俺はクズみたいな生活をするしかない。
暴力しか、生きる手段を知らない。
――神様ってのは、性格が悪い。
だが、馴染むのは早かった。
自分のルーツに近い泥の中なら、息の仕方を知っている。
殴って、奪って、逃げて。
同じように敵を作って、同じように狙われて。
それでも、現代と違ったのは――
ボスに拾われたことだ。
アルドという男は、冷たい目をしていた。
同時に、捨て犬を拾うみたいな顔もしていた。
「俺のところで働け。死ぬか、生きるかは、お前次第だ」
選択肢の形をした命令。
だが俺は、そこで初めて“地面”を感じた。
野垂れ死にじゃない。仕組みの中で生きる。
汚れることを、仕事として引き受ける。
そういう居場所。
そこで俺は、サムとトムに出会った。
サムは口が達者で、調子に乗る。
トムは無口で、止める。
二人は兄弟みたいで、俺はそこに少しだけ、笑う理由が生まれた。
ミレイユにも会った。
あいつは、俺が“女”を演じる羽目になったことを、やけに楽しそうに笑った。
「あなた、顔がいいのに勿体ないわね。もっと綺麗に汚れなさい」
意味不明で、腹が立つのに。
なぜか、その言葉だけは、ずっと耳に残っている。
家族じゃない。
だが、確かに“ここに居ていい”と思える瞬間があった。
俺の世界は、相変わらず暗い。
血と金と嘘で回っている。
それでも、暗闇の中に、点みたいな光が見えた。
――守る。
まだ、何を守るのかは分からない。
だが、守るという言葉だけが、空っぽの胸に引っかかった。
その光が、いつか俺を焼くのか、救うのか。
答えはまだ出ない。
ただ。
今は、歩く。
暗いままでもいい。
光がある方向へだけ、歩く。




